祭りの日がやってきた。

 久しぶりに真っ青に晴れ渡った空が四角く切り取られた吉原の町は、未だかつてないほどの人で溢れていた。男達はもちろん、女や子どもも大勢いる。屋台村の一角でお汁粉を振る舞っていると、小さな子ども達が寄ってきて、ここが江戸でも有数の歓楽街・吉原であるということを忘れてしまいそうだった。

 土方さんは、用心棒のように屋台のすぐ後ろ側に立っていたけれど、お汁粉を買いに来た子どもが、目が合った瞬間に大泣きしてしまったことに傷ついて、お茶屋の屋根の下に引っ込んでしまっていた。

「椿、調子はどうじゃ?」

 様子をうかがいに来てくれた月詠さんは、小銭がじゃらじゃらと重なった小銭入れを見て満足そうに頷いたあと、屋根の下に身をひそめてこちらを睨んでいる土方さんを見て首を傾げた。

「ごめんなさいね、あの人ちょっと神経質になってて」
「気持ちは分かるが、あの殺気はどうにかならんか? これでは客が寄ってこんだろうに」
「そんなことないわよ、子どもがよく来てくれるわ」

 こうして話している間にも、小さな子どもが「おねぇさん! ひとつちょうだい!」と小銭を握りしめて駆けてくる。寒さに鼻の頭とほっぺたを真っ赤に染めた子ども達は、まるで雪の精かと思えるほどかわいらしくて、見ているだけで幸せな気持ちになった。

「とても楽しいわ。ありがとうね、月詠さん」
「礼を言うのはこっちだ、椿のおかげで屋台も盛り上がっておるようだし、日輪も喜んでいる。直接礼を言いに来れずに申しわけないと言っていた」
「少し落ち着いたら、お汁粉持って行って差し上げるわ」
「伝えておく。して、あちらの方はどうじゃ?」

 月詠さんは声を低くして、私に耳打ちした。私は土方さんの方を振り返りながら、小さな声で答えた。

「この五日間は特に動きはなかったし、何かあるとすれば間違いなく今日だろうって。祭りの見物客に紛れてどんな人が来ているか分からないから気を付けるように言われてるわ」
「そうか。百華も町中を警備してはいるが、何せ顔のない相手だからな。できることが少なくて済まない。何かあれば、遠慮なくこいつらを頼れよ」

 月詠さんは、私と一緒に屋台に立ってくれている百華の団員に視線を送る。彼女達は「任せてください、頭」と、頼もしく笑ってくれた。

「本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「それは、この件が無事に片付いてから言ってくれ」

 そう言うと、月詠さんは茶屋の屋根の下にいる土方さんの方へ歩いて行った。町の警備についてか、何か話すことでもあるのだろう。

 その時だった。

 突然、子どもの泣き声が聞こえて、私はとっさに屋台を出た。屋台のすぐそばで、まだ年端もいかない子どもが手放しに泣いていた。

「どうしたの?」

 目を合わせて尋ねると、子どもは涙に詰まった声でなんとか「お母さんがいない」と訴えてきた。どうやら迷子らしい。辺りを見回してみたけれど、通りはいよいよ人が増えて大変な混雑だ。これでは簡単に見つかりそうにない。

 屋台の向こうを振り返った。土方さんと月詠さんはまだ、真面目な顔をして何か話し合っていて、屋台に立つ百華も次々とやってくるお客をさばくのに手一杯だ。

 本当は、断りもなくこの場を離れるべきではないのだと思う。いつ何が起こるか分からないのだし、私を守ってくれる人達のそばを自分から離れるなんて、死活行為だ。けれど、迷子の子どもはますます激しく泣いているし、寒さと涙で真っ赤に染まった頬が見ていられないほど痛々しくて、とてもこのまま放っておけなかった。

 少しだけ。
 少しだけなら、大丈夫だろう。

 私は意を決して、子どもを腕に抱え上げた。

「大丈夫よ、お母さんにはすぐ会えるわ」

 子どもはぐすぐすと鼻を鳴らしながら、心細そうに私の首にしがみついた。

 茶処「ひのや」が祭りの総合案内所になっていて、そこで迷子の受付もしていることは分かっていた。「ひのや」までは、歩いてほんの数分だ。この五日間何もなかったのだから、きっと大丈夫。自分にそう言い聞かせて、私は屋台から離れた。



 無事に「ひのや」へたどり着き、子どもを日輪さんに預けて屋台に戻ろうとしたとき、まずいことが起こった。通りの両端を、縄を持った百華が人波をかき分けながら横断していて、通りの向こう側に渡れなくなってしまったのだ。近くを通りがかった人に尋ねてみると、これから大見世の花魁道中が始まるのだという。確かに、高下駄を履いて雪道を歩く練習をしている花魁がいると聞いていたけれど、まさか本当にやることになったとは思ってもいなかった。

 私がもたもたしている間にも、見物客はどんどん増えていく。この通りを渡らなければ屋台村に戻れないのに、前へ前へと押し合う人波に、ついには身動きが取れなくなってしまった。

 このまま人波に紛れているより、せめて「ひのや」に戻った方が安全かもしれない。それとも、裏道を通って遠回りしてでも屋台へ戻った方がいいだろうか。

 考えがまとまる前に、ことは起きてしまった。

 押し合いへし合いする人ごみの中からふいに、背中に固いものを押し当てられた。ちょうど、心臓の真裏の位置だった。

「振り向かないでください」

 耳元で冷たい声がした。まるで、この真冬の冷気をぎゅっと圧縮して針のように尖らせたような声だった。

「……誰です?」
「お分かりのはずですよ。そのまま、ゆっくり後ろに下がりなさい。言う通りにしないとこの場で撃ちます」

 ごり、と音がしそうに固いものを押し付けられて、血の気が引いた。

 命を取ろうというのなら、刀を持って襲われるものだとばかり思っていたけれど、世の中には刀以外の武器もあるのだ。恐ろしさのあまり膝が震えた。

 私がこんな目に合っているというのに、花魁道中の見物客は今か今かと花魁を待ちわびて、道の向こうばかり見ているから、誰も私の窮状に気づいていない。逃げる術は、思いつかなかった。

 私は言われるまま、ゆっくりと後ずさり、そのまま路地に連れ込まれ、固いもので背中を押されながら、路地の奥深くへ入った。まるで、地獄の底へ降りていく黄泉の道を下るような気分だった。
 
 土方さん。
 心の中で、強くその名前を呼んだ。



 どのくらい歩いたのだろう、気づけば、吉原の町外れまで来ていた。

 元は幕府の艦船の造船所だった吉原の町は、ぐるりを鉄の壁に囲まれていて、町外れまで来ると真昼とは思えないほど薄暗い。その下を生活排水を流す堀が流れていて、古い鉄と澱んだ水の臭いが鼻を突く。中央通りに人が流れているせいで、町外れには猫の子一匹いなかった。ここで悲鳴を上げたとしても、きっと誰の耳にも私の声は届かないだろう。

「止まりなさい」

 言われたとおりにする。
 吐く息が白い。
 心臓の音が耳元でする。
 手を握りしめようとしたけれど、指先が震えてうまくいかない。
 耳の後ろで、ガチャリと無機質な音がした。

「あなたは、真選組屯所で働く家政婦さんですね?」
「……人違いでは? 私は吉原の花魁、椿です」
「おや、それはおかしいですね。私の手元にある人相書きとあなたは瓜二つです。双子の姉妹でもおられるんですか?」
「何をおっしゃっているのか分かりません」
「こちらを向きなさい」

 言われた通りにすると、額にごつりと黒いものがぶつかった。冷たい、鉄の塊だった。その影から覗き見えたのは、編み笠をかぶった面長の男だった。縁の丸い眼鏡の向こうの瞳は、何を考えているのか分からない三白眼。この顔は、よく知っていた。

「……見廻組局長、佐々木異三郎さんが、こんなところで何を?」
「おや、私をご存知でしたか」
「お噂はかねがねうかがっております」
「愚弟がお世話になっていますね」

 その、冷たい眼差し。
 とても言い逃れるできる気がしなかった。

 一度目を閉じて、息を吐く。そして再び目を開けると、銃を握る佐々木の指先が見えた。その指は引き金にはかかっておらず、私の額を真っ直ぐに指差していた。どうやら、すぐさま撃ち殺す気はないらしい。

「見廻組局長、自らがお出ましになっているとは思いませんでした」
「ついに上が痺れを切らしましてね。女ひとりさっさと始末できないようでは見廻組局長である私の沽券に関わります。エリートに失敗は許されないのです」
「無実の人間を手にかけることこそ、エリートの沽券に関わることではないんですか?」
「勘違いしないことです。あなたが罪人である事実は揺るぎません」
「私に罪はありません。法律を犯した覚えもありません」
「それを決めるのは私です。幕府の機嫌を損ね、不興を買ったのは真選組。それを取り潰すための、あなたは道具でしかありません。分をわきまえることですね」
「……真選組はずいぶん嫌われているんですね」
「あなたの知らないことがいろいろあるのですよ」
「私が何のために殺さなければならないのか、せめて説明してもらえませんか? こんな、わけも分からず殺されたんじゃ死んでも成仏できません。もしかしたら、あなたの枕元に化けて出るかも」

 ここではじめて、佐々木は表情を変えた。面倒くさそうに眉根を寄せ、小さなため息。

「上はなんとしてでも真選組を取り潰したいのです。そのための材料を探していた。わが愚弟の事件もそのひとつの布石でした。あなたも、そうです。真選組を取り潰すための大きな穴。そのほころびを突かせてもらいます」
「私を殺したら、真選組のみんなが黙っていませんよ。もしかしらた暴動が起こって、江戸中が火の海になるかも」

 佐々木は首を傾げて、鼻で笑った。

「自分にそんな価値があるとでも? まさか、一国の姫君でもあるまいし」
「そうですね、私は姫ではない。本当は、美しい花魁でもない。どこにでもいる普通の女よ。けれど、私を命がけで大切に思ってくれる人はいるわ」
「自惚れですね」

 銃を握った人差し指が、ゆっくりと引き金にかかる。

「事情は説明しました。これで満足ですか?」
「最後にもうひとつだけ、いいですか?」
「何です?」
「私を殺すために、高尾花魁を犠牲にしましたね。彼女には、正真正銘、罪はなかった」

 佐々木は顎を上げて笑った。

「法の手の及ばない町に住む女ひとり、死んだところで誰が悲しみますか?」
「やっぱり、枕元に化けて出て差し上げます」

 指先の、第一関節。
 引き金にかかる。
 何もかもがスローモーションに見える。
 目が離せない。
 引き金を引いたら頭を撃ち抜かれる。
 怖い、見ていたくない。
 けれど目を離せない。

 その時だった。

 雪が、落ちてきた。

 がけが崩れるような大きな音を立てて。

 空から、一塊の雪が。
 
 佐々木の注意がそれて、銃口がそれる。
 何かが勢いよくそれを弾き飛ばした。

「そこまでだ」

 気がつけば、私の目の前に銀さんの背中があった。

「おや、吉原は無法地帯だとは聞いていましたが、空から夜叉が降ってくるとは思いませんでした」

 銀さんに木刀を突き付けられた佐々木は、銃を失った手をさすりながら、表情を変えずに言った。
 銀さんのひょうひょうとした声が響く。

「今年の江戸は大雪に見舞われてるって、お前も知ってるだろ、雪の中に鬼が紛れてたってちっともおかしなことじゃねぇ」
「雪と鬼は一緒に降るものだとは、知りませんでしたね」

 佐々木は小さな三白眼をちらりと横に流した。

 銀さんの木刀に弾き飛ばされた銃は、堀の中に落ちて水に沈んでいた。仕方がなさそうにため息を吐いて、腰の刀の柄に手をかける。

「雪は、春が来れば溶けて消えてなくなるものですよ。鬼も、季節を過ぎれば消える定め。まだ冬の最中ですが、春を待たずに消えてもらうことにしましょう」
「やってみろよ」
「銀さん」
「お前は下がってろ」
「でも」
「女ひとり抱えて勝てるほど、私を甘く見ない方がいい」
「何の荷物も背負わねぇで幕府のお偉いさんの駒になっている野郎相手に、これくらいハンデにもなりゃしねぇよ」

 刀を引き抜くときの、まるで悲鳴のような嫌な音がした。
 肌が泡立つ。
 銀さんの袖を掴みそうになるのを必死でこらえる。
 刀を構えて腰を落とす銀さんの背中、見たことのない殺気が陽炎になって立ち上っているのが見えるような気がした。

「自らハンデを背負ってくれるのなら、それを止める義理はありませんね」

 そう言った佐々木の頬で、何かが光った。

「じゃぁ、これでどうだ。鬼が二匹だ」

 刀の先が、佐々木の頬をなぜる。
 刀の主は、土方さんだった。

 いつの間に佐々木の背後を取ったのだろう。
 ちっとも気づかなかった。

「……間に合いましたか」
「幕府の犬は足だけは速ぇんだ。覚えとけ」
 
 沈黙が流れた。
 誰も何も言わず、動かない。
 かすかな物音もしない。

 風が吹いて、屋根の雪を散らす。
 雪の欠片が頬に落ちて、体温で溶ける。
 風が止んで、雪が落ちる。

 そして、一番最初に刀を下ろしたのは佐々木だった。

「鬼二匹を、一度に相手にするのは、さすがに分が悪いですね」

 佐々木が刀を鞘に納めて、柄から手を離したのを確認してから、銀さんと土方さんは慎重に刀を下ろした。

「今回は、これで手を引くしかなさそうです」
「今回で最後にしろ」
「それは、あなた達の振る舞い次第ですよ。これ以上、上の機嫌を損ねるようなことをするのは止めることですね。それは結局、自分たちの首を絞めることと同意なのですから」
「忠告は聞いておく。さっさと去れ」

 土方さんにきつく睨まれた佐々木は、編み笠を深くかぶり直し、薄暗い路地に消えた。








20200413(再録)