7
夜明け前に目を覚ました土方は、手早く自分で身支度を整えた。日が昇ったら地上に戻って、何食わぬ顔をしていつもの仕事に戻らなければならない。
やらなければならないことはたくさんある。椿がその名前を捨て、無事に真選組の家政婦に戻れるよう、できることは全てしておかなければならない。
座敷を出る前に一服しようとライターを手に取った時、布団の中から細い腕が伸びてきて土方の袖をくいと引いた。
「……もう行くの?」
かすれた声がした。声の主は布団の中に顔を半分も埋もれさせていて、瞼は閉じたままだ。土方はその寝顔を覗き込みながら、そっと頭を撫でてやった。
「お前は休んでろよ。まだ早いからな」
白く小さな手が、いよいよ強く袖を掴む。絶壁の壁に死に物狂いでしがみつくような仕草で、見ていられなくなってそっとその手を握りしめた。
「……ひとりにしないでって、言ったら困る?」
「俺がいなくなっても、真選組が交代でお前を守ってるから、大丈夫だ。安心しろ」
「……土方さんじゃなくちゃいや」
「わがまま言うな。これが全部済んだら、また屯所で一緒に暮らせる。それまで辛抱してくれ」
そう言ってやったら、ようやく裾を掴んでいた手が離れた。
寝ぼけ眼で瞬きをした目元に口づけを残して、座敷を出た。
まだ日も昇っていない早朝で、通りには人っ子一人いない。積もった雪が音を吸ってやけに静かで、雪を踏みしめる足音だけがうるさい。
「朝帰りかい?」
地上へ上る昇降機の前にたどり着いたとき、予期せぬ方向から声を掛けられ、土方はとっさに刀に手をかけて身構えた。
「おいおい、物騒な真似はやめてくれよ。こんなところで刃傷沙汰なんてごめんだぜ」
物陰から顔を出したのは銀時だった。
「お前、朝っぱらからこんなところで何してる?」
「ちょっとした拾いもんをしたからさ、おまわりさんにお届けしようと思ってたらちょうどお前が通りかかったもんで。あれ、首んとこどうした? 赤くなってるぞ?」
「えっ」
慌てて手を首にやってみる。が、柔らかい襟巻に阻まれて手は首まで届かなかった。
しまった、はめられた、と思った時にはもう遅かった。
銀時は下世話な顔をして笑っていた。
「なんだよ、照れることねぇだろ。この町に来る連中のほとんどはそれが目的なんだからよ」
「てめぇ、わざわざ俺をからかいに来たのか?」
「違うって。いちいち噛みつくなよな、ったく、これだから頭の固い奴は嫌いなんだよ」
銀時は柱の陰に立って、土方を手招きする。警戒しながら覗き込むと、そこには男がひとり、両手両足を縛られて倒れていた。
「どうした? 何があった?」
銀時は平然と答えた。
「あいつを付けている奴がいるって、前に言っただろ。あの時、お前は真選組の監察だといったよな。こいつは真選組の隊士か?」
土方は男の前に膝をつき、よく顔をあらためてから答えた。
「いや、違う」
「あいつを付けていた奴は、俺が気づいた範囲では、ふたりいた。お前に話を聞いた後は、ふたりとも真選組の隊士かと思ってたんだが、どうにも嫌な予感がしてこいつの後を付けてみた。休業中の貸座敷に忍び込もうとしてたぜ。お楽しみのところ邪魔するのも悪いと思ったから適当に縛り上げておいた。感謝しろよ」
「そりゃ、ご苦労なこったな」
「懐からこんなもんが出てきた」
銀時が差し出してきたのは、見廻組の警察手帳だった。中身を確認する。どうやら、本物だ。
「高尾花魁を殺した犯人も、もしかしたらこいつらにけしかけられたのかもしれねぇな。椿の首を取ってくれば、侍を斬り殺した罪を見逃して高尾花魁と高飛びさせてやるとかなんとか、言ったんじゃねぇの。貧乏人を釣るにはいい餌だ」
「憶測はやめておけ、犯人はもう死んじまったんだ。もう確かめる方法はない」
「真選組は幕府によっぽど嫌われてるらしいな。同情するよ」
「てめぇの同情なんかいらねぇよ。そんなもん、そこで伸びてる虫けらにでもくれてやれ」
土方は警察手帳を男の顔面に投げつけて、踵を返した。
黒幕は分かった。後は、できることをやるだけだ。
吉原の町で椿の命を狙ってくる以上、屯所に配した身代わりの家政婦が本物でないことは、もう見廻組にはバレているだろう。その証拠に、地上で行われている身代わりの事情聴取はまだ終わっていない。
つまり、これは時間稼ぎだ。この吉原桃源郷という地下街は、法の支配が及ばない。この町で椿を殺し、その首を地上に持ち帰れば身代わりを立てていたことが露見し、真選組が罪を問われることになる。少なくとも、地上で行われている家政婦の事情聴取が何事もなく終わるまでは、椿の命を守り切らなければならないということだ。
勾留期限は、あと五日だ。
「あら、それならちょうどお祭りの日ですね。すぐじゃありませんか」
貸座敷の台所で、私は土方さん、銀さんと顔を突き合わせている。
この寒さで、小豆を煮る鍋から立ち上る湯気が台所全体に広がってもうもうと白く煙っていた。
「そう簡単に言うなよ」
と、土方さんが呆れた顔をしていった。
「そうですか?」
「何が起こるか分かんねぇんだぞ」
「怖がってるばかりもいられないでしょ。お祭りの準備もしなくちゃいけないし」
「そうだぞ。それに汁粉がねぇと俺の飯代が困るだろうが」
銀さんは当たり前のような顔をしてきっぱりと言った。
「てめぇは黙ってろよ」
「銀さんのおかげでいくら作っても足りないわ。血糖値大丈夫?」
「おかげさまでー」
「ったく、緊張感ねぇな」
土方さんは呆れた顔をしてため息を吐いた。
「真選組はどのくらいこいつの護衛に回ってくんの?」
銀さんが口にお汁粉を含んだまま言った。
土方さんは、私に台所での喫煙を禁止されたせいで手持無沙汰らしく、上がり框に腰を下ろして、窓の外を眺めていた。
「あまり人数は割けねぇんだ、怪しまれるからな。俺を入れて二、三人ってところか」
「そりゃ、ずいぶんお粗末だな」
「しょうがねぇだろ」
「月詠さんとは話されました?」
「話だけはな。だが、百華も祭りの準備で手一杯らしい。当日は町の警備にあたるそうだから、それがいい網になってくれりゃいいんだがな」
「けど、見廻組だって馬鹿じゃねぇんだから、まさか制服でのこのこ来るわけじゃねぇだろ。そんなのどうやって見つけろっていうんだよ。侍殺しの犯人と違って、人相書きもねぇのによ」
「こうなったら、己のカンに頼るしかねぇかもな」
「それか、つかず離れずこいつのそばにいるか、だな」
「私、当日は屋台でお汁粉の売り子をするのよ。つかず離れずなんて無理よ」
「それ、どうしてもお前がやらなきゃならねぇのか?」
「一度引き受けた仕事だもの。それに、屋台村は一番人出の多い場所よ、公衆の面前で命を取るなんて、目立つようなことするかしら? どこかに隠れるよりは安全だと思うわ」
「けど、逆に言えば、簡単に敵に居場所を知られちまうってことだろ」
銀さんがお汁粉のおかわりをよそいながら、何か言いたげに私を見ていた。
「何?」
「いや、昨日まであんなに落ち込んでたわりにはずいぶん元気だと思ってさ」
「そりゃ、いつまでも落ち込んでなんかいられないわよ。命狙われてるのよ」
「あんまり無茶することねぇんだぞ。汁粉を作る仕事は誰かに任せて、自分の命を大事にしたって誰も文句言わねぇよ」
「それは分かってるけど……、一度引き受けた仕事はちゃんとやり遂げたいの。もちろん、死にたくもないわ。もし私が死んだら、高尾花魁が死んだことになんの意味もなくなっちゃうし、真選組が御取り潰しになっちゃうかもしれないんでしょう。そんなの絶対に嫌だもの」
「二兎を追う者は一兎をも得ずっていうだろ。汁粉と命とどっちが大切なんだよ?」
「どっちも大事よ」
銀さんは目を細めて、土方さんに向かって言った。
「おい、お前からも何か言ってやれよ」
土方さんは初めから諦めていたらしい。
「こいつは一度決めたら聞きやしねぇよ」
と、ぼやいた。
「今日からは、できるだけここに来るようにする。一日に一度は地上に戻らねぇとならねぇけど、その間は監察と隊士を護衛に付ける」
「土方さんまで無茶しないでくださいね」
「今、無茶しないでいつするんだ」
土方さんはすっくと立ち上がると、私の真正面に立ってはっきりと言った。
「必ず、守る」
「いちゃつくんなら他でやってくんねぇ?」
銀さんが、茶化したせいで、せっかくの決めゼリフが台無しだ。
土方さんは腰の刀を鞘ごと引き抜いて、銀さんの膝の裏を引っぱたいた。
20200413(再録)