お風呂を使ってさっぱりして戻ってきたら、銀さんが月詠さんに変身していた。

「神楽と新八に見つかってな、タコ殴りにされて仕事に戻ったぞ」

 ということだった。少しがっかりしたけれど、仕方がない。

 月詠さんは煙管を吹かしながら、ゆっくりと私の隣を歩いてくれた。

「捜査はどうなりました?」
「それなんだがな、犯人は死んだぞ」
「え?」
「堀の中で死んでいるのが見つかったんじゃ。首を斬られていてな、目撃者の話では、ずいぶん混乱した様子だったらしい。おそらく、惚れた女を斬ってしまったショックで自害したんじゃろう」
「……そう」
「辛いことを思い出させてすまないな。だが、何も知らせずにいても気に病むだろうと思ってな」
「心配かけてごめんなさい。教えてくれてありがとう」
「いや、わっちこそすまなかった。あんな男が吉原の町に入り込んでいたのに気づけなかった、百華の不徳の致すところだ」
「私のことより、高尾花魁に申しわけないわ」
「それもそうじゃが、椿。そもそもなぜお前が命を狙われねばならんのじゃ? お前はただの家政婦なんじゃろう?」
「銀さんから何か聞きました?」
「ひと通りの話はな。だが納得いかん。わっちが言うのもなんじゃが、警察は一体何をしておるんじゃ?」
「私もそれが分からなくて悩んでるのよ」
「まったく、なんの罪もない一般市民に警察が手を出すなど、言語道断じゃ。椿、もし地上に嫌気が差したなら、いつでも吉原に逃げて来い。お前なら花魁として十分にこの町でやっていける。日輪にはわっちから話してやる」
「ありがとう。いざとなったらお願いするわ」

 銀さんの言葉も、月詠さんの言葉も、正直、どちらも現実味はなかった。

 真選組から居場所を失っても、私はきっと、銀さんのことも月詠さんのことも頼らないだろう。けれど、私のことをこんな風に考えてくれている人がいると思うだけで心強かった。
 


 貸座敷に戻ると、もう日も傾いてきたと言うのに、見世を開ける気配がなかった。あんなことがあったのだ、今日は休業するんだろう。

 部屋を覗いてみると、高尾の遺体は既に運び出されていて、血の痕が残った絹布団や調度品はまだそのままだった。とても直視できなくて、けれどひとりで部屋にいる気にもならない。 女将さんと旦那さんは高尾の密葬の準備に忙しくしていて、女中さんは高尾の部屋の片づけに追われていた。花魁達は、張見世には出ない代わりに、引手茶屋での宴会に駆り出されたらしい。

 私は座敷に残ってひとり、あんこを炊くことにした。祭りまでもうあまり日がない。

 冬の台所は冷えて、火のそばに居ても息が白くなる。火が燃える音と、鍋がぐつぐつと煮える音しかせず、じっとひとりで鍋の前に立っていると、その静けさの中に私の体が溶けてなくなってしまいそうだった。
 


 土方さんがやってきたのは、吉原の町が一番活気づく真夜中近くだった。

 どうしたらいいか、迷った。土方さんの顔を見て冷静でいられるような気がしなかったし、何を話せばいいのかも分からなかった。できるだけゆっくりと台所の片付けをした。少しでもこの問題を先送りしたかった。けれど、それはあっという間に終わって、それ以上することがなくなってしまう。仕方がなく、たすきをほどいて部屋へ戻った。



 土方さんは、窓の桟に腰を下ろして私を待っていた。旦那さんが留守で刀を預かる人がいないので、鞘ごと肩に立てかけ、いつものように祭りに浮かれた吉原の町を見張っていた。
 
 私は土方さんの顔を見ていられなくて、畳の目に視線を落としたままでいた。何にも見えない真っ暗闇の中を綱渡りしているような気分だった。

「大丈夫か?」

土方さんは静かに立ち上がって言った。その声は恐ろしいくらいに静かで、私の返事を待たずに続いた。

「……大丈夫なわけねぇか。悪かった。今更、何言っても仕方ねぇかもしれねぇけど、本当に悪かった」
「……何を謝ってるの?」

 自分の口から出てきた声は、自分のものではないように冷めていた。

「私に嘘を吐いていたこと? 高尾を犠牲にしたこと?」
「お前を、傷つけたことだ」

 顔を上げると、土方さんがまっすぐに私を見つめていた。その目には怒りも悲しみもなく、ただ静かでまっさらだった。

「命を狙われているなんて伝えて、怖がらせたくなかった。けど、結局、お前を裏切ることになっちまった。それは俺が望んでいたことじゃない」

 胸の奥から大きなうねりが押し寄せてきて、私はあっという間にそれに飲み込まれてしまった。それは私の意志にはまったく従わず、体の奥からこれでもかとあふれてきて、どう扱っていいのか全く分からなかった。

 胸が苦しくて、背中を丸めてどうにか言葉を紡ぐ。

「……悲しかった」
「あぁ」
「こんな、ひと言で済ませられないくらいよ。悲しくて辛くてどうにかなりそう……」

 土方さんが私の方に歩み寄ってきて、壊れ物に触るようにそっと手を伸ばしてきた。その手に、涙のしずくが落ちる。今にも足元から崩れ落ちそうになっていた私を、土方さんはしっかりと抱きとめてくれた。

 手放した刀が、ふたりの足元で音を立てて跳ねた。

 嗚咽を漏らしながら、土方さんの体にしがみついた。そうでもしないと、体の中からあふれてくる波に溺れそうだった。

「……高尾に申しわけないわ、私のせいで死んでしまった……」
「それは違う。お前のせいなんかじゃない」
「でも……」

 土方さんの手が、私の背中を優しくさすってくれる。土方さんの熱い息が、首筋をくすぐって流れていく。あんまり強く抱きしめられるから、つま先立ちした足元が少し浮いた。

 耳元で囁く土方さんの声が、甘い。

「こんなこと言ったらお前は怒るかもしんねぇけど、俺はほっとしてるよ」
「……え?」
「あの花魁が死んでくれたおかげで、お前が死なずに済んだから」

 土方さんはすがり付くように私の首筋に唇を押し当てて、切羽詰まった息を吐いた。押し付けられた下半身が熱くて、腕の力が緩む気配もなくて、私はもうどこにも逃げ場がないことを悟った。

 土方さんの腕に支えられていないと、大きくうなる悲しみの波にあっという間に飲まれてしまいそうだ。

 銀さんの言葉も、月詠さんの言葉も、私の弱った心を優しく包んでくれたけれど、どこか現実味がなかった。

 本当は、自分でも扱いきれない悲しみの渦から、無理矢理にでも腕を引っ張って助け出して欲しかった。

 どんなに乱暴でもいいから、本当のことだけ言って欲しかった。

「土方さんは、ひどいひとね」
「そうだよ。俺はひどい男だよ。それでもお前を手放したくない」

 私は少しだけ体を離して、土方さんと目を合わせた。至近距離で覗き込んだ土方さんの瞳は、いつもと変わらず瞳孔が開き気味で、その視線だけで射殺されてしまいそうだった。

 荒っぽく唇をふさがれる。あっという間に熱い息が混ざり合って、何にも考えられなくなる。

 生きている。
 私達は、生きている。

 それを確かめるための術を、私はこれ以外に知らなかった。

「……ねぇ、抱いて。今すぐ」

 土方さんが体を抱え上げてくれる。そのままふたりで、真っ赤な絹布団に沈んだ。







20200413(再録)