番外編 こんなことは滅多にない
やりすぎて足腰が立たなくなったのは生まれて初めてのことだった。立ち上がろうとすると、まるで生まれたての子鹿のように膝が震えてどうしようもなかったので、今日は仕事を休むことにする。言い訳は、湯あたりして体調を崩したということにした。
「こんなことで仕事をサボるなんて」
「起き上がれねぇんだからしょうがねぇだろ」
裸体に浴衣を引っ掛けて軽く帯を結んだだけの土方さんが言う。私の何倍も体を使っているはずなのに、さすがに鍛えているだけあって全く元気そうだ。
「なんか食うか?」
「いいえ、食欲ないので」
私は枕を抱きしめて寝返りを打ち、土方さんに背を向けた。
なんだか情けなくてみっともなくて仕方がない。本来、多少のことで仕事に穴を開ける私ではないのだ。それがこんな不健全な理由でさぼることになるとは。本当に情けないったらない。爛れている、みっともない、恥ずかしい。窓からさんさんと差し込む朝日がなおさら背徳感と罪悪感をかき立てる。
「何を拗ねてんだよ?」
私の気も知らずに、土方さんが呑気に言った。
「拗ねてません。呆れてるだけです」
「何に?」
「自分にです」
「1日仕事さぼったくらいでなんだよ」
「落ち込んでるんですから、そんな投げやりに言わないでください。余計に傷つくんだから」
と、土方さんは私の目の前に腰を下ろすと、かごいっぱいのフルーツを畳の上に置いた。その中から桃を取り上げて、手のひらの上で軽く放る。
「そんなにしんどいのか?」
「土方さんのせいですよ」
「お前だってノリノリだったろうが」
果物ナイフを器用に使って桃の皮を剥く。骨張って日に焼けた土方さんの指が、よく熟して柔らかな果実を握っているのはそれだけで官能的だ。強く握り込みすぎているのか、腿の肌に指が食い込んでいる。と、ぷしゅっと果汁が吹き出して私の顔を濡らした。
「あ、悪い」
土方さんは浴衣の袖口で拭ってくれるけれど、果汁のべたたべたはそう簡単には取れない。濡れた唇を舐めると甘くさわやかな味がした。
「なんでお前はそうやって複雑に考えたがるんだか。1日中うじうじ悩んでせっかくの休み潰しちまうなんて、もったいねぇと思わねぇの?」
「どうしても考えちゃうんだから仕方ないでしょ」
「これでも食って忘れろよ」
言うなり、土方さんは有無を言わさず私の口に桃の欠片を押し込んできた。それは私の小さな口には収まりきらないほど大きくて、思わず咳き込んでしまう。けれど一度口に入れたものを吐き出すこともできなくて、嘔吐きそうになるのをなんとかこらえて、無理矢理飲み下した。口の端からこぼれた果汁が喉元まで垂れた。
「何するんですか……?」
涙目になったまま見上げると、土方さんは瞳孔の開いた目で私を見下ろしながら、果汁に濡れた指をぺろりと舐めた。
「どうせ江戸に戻ればすぐに忙しくなるんだし、そしたらいっしょにいられる時間なんか全然無くなるんだ。せめて今くらい好きにさせろよ」
「好きにの、意味が分からないんですが」
「食ったら元気出ただろ?」
「……疲れてるの。もう少し休ませて」
「もう少しってどんくらい?」
「土方さんってば」
土方さんはいつになく愉快そうに笑った。
その満ち足りた笑顔を見ると、土方さんがこのくだらないやりとりを心底楽しんでいることが手に取るように分かる。
私はうんと力を入れて上体を起こすと、土方さんの手から残りの桃を奪い取ってその口に押し込んでやった。よく熟れた桃はほんの少し力を入れただけで甘い蜜をたっぷり滴らせ、土方さんの口どころか、はだけた胸や浴衣まで濡らしてしまう。
「何すんだよ、べたべたになっちまっただろうが」
「これでおあいこでしょ」
土方さんは不快そうに濡れた口元を拭う。もちろん、それだけではべたつく果汁は拭きとれない。
「しょうがねぇな、風呂で流してくるか」
「なら私も。もう体中べたべた」
「動けるのか?」
「だめ。連れてってくださいな」
赤ん坊のように甘えて両腕を伸ばすと、土方さんはにやりと笑い軽々と私を持ち上げて、そのまま部屋付きの内湯に連れて行ってくれた。
わけもなく笑えてくるのは、ばかなことをしている自覚があるからだ。けれど、誰に迷惑をかけるわけでもないし、こんなことができるのは今この場所でだけだと分かっている。
永遠には続かないからこそ、今この瞬間が他の何にも代えがたく愛おしい。 どんな仕返しをすれば一番効き目があるだろう。私はそれを一日かけてじっくり考えることにした。煮ても焼いても美味しい鮑も、時には牙を剥くことを土方さんに教えてあげなくては。
20201227