したで うごめく
夕暮れの空に烏の群れが黒い影を作っている。
夕飯の買い物をする主婦、仕事が終わって繁華街に繰り出していく勤め人、日がすっかり落ちる前に家にたどり着かねばと走り抜けていく子ども達。そんな雑踏の中を、
は小走りで走り抜け、ようやく土方の待つ場所にたどり着いた。約束の時間をほんの少し過ぎてしまっていた。
「遅くなってすいません」
土方は咥え煙草をして、橋の欄干に背を預けて待っていた。墨色の着流しに雪駄をつっかけた楽な格好をしているが、腰には手入れをしたばかりの愛刀を下げていた。
「大丈夫か?」
乱れた髪を撫でつける
を見下ろしながら、土方はそっけなく言った。
「はい。もう少し早く上がれると思ってたんですけど……。お待たせしちゃいました?」
「気にすんな、行くぞ」
土方はそう言うなり足早に歩きだした。
は呼吸を整える間もなく後に続いたものの、土方はまるで
がそこにいないようにすたすたと歩いていってしまう。はぐれてしまわないよう後を追うのは、
にはひと苦労だった。やがて馴染みの小料理屋に着いた時には、
はすっかり息が上がってしまった。
案内された席に腰を落ち着けるなり、土方は新しい煙草に火を着ける。
はおしぼりで手を拭きながら、おずおずと尋ねた。
「土方さん、何かあったんですか?」
「何もねぇよ」
「なら、私が遅刻したこと、怒ってるんですか?」
「だから何でもねぇって言ってんだろうが」
「でも……」
「あんまりぐちゃぐちゃ言うなよ。酒がまずくなるだろ」
そう言われると、
はそれ以上何も言えなかった。
それからは、運ばれてきた酒と料理を肴に他愛もない話をした。鉄之助の最近の失敗談や、近藤が最近編み出した新しいストーカー方法、近頃リニューアルされた某有名メーカーのマヨネーズが、値段は据え置きで容量が減ったこと、食堂で働く若い娘が同じ年頃の隊士といい雰囲気になっていること。同じ屋根の下で暮らしているとはいえ、真選組屯所の屋根は広いので話題は尽きない。酒の力も手伝って、時間がたてばたつほど、土方の眉間に寄った皺もだんだんと薄くなってきたことに、
はひそかにほっとした。
「それにしても、今日のあれはいったい何だったんだ?」
土方の方からその話題に触れたことが、
には意外だった。てっきりそのことを気にして不機嫌になっているのかと思っていたのだ。
「聞いていらしたんでしょ。そんなに複雑なことじゃありませんよ。お酒、もう少しいかがですか?」
「あぁ、頼む。どういう男なんだよあいつ?」
「だから、星野呉服商の跡取り息子さんですってば。あ、すいません。熱燗ふたつお願いします」
「はい、お待ちを」
「それは分かってる。お前が風俗やってた時の客だったのも分かった。けど、もう5年も前の話なんだろ? それがなんで今更?」
「私も驚きました。まさか興信所まで使って私を探してただなんて」
「よっぽど気に入られてたんだな」
「そうみたいですね」
「一体どんな手管を使ったんだよ?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。彼のことは何も覚えてませんけど、人をだますようなことをした覚えはありませんよ」
「はい、熱燗ふたつ、お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
は土方に酌しようとしたが、土方は
の手を遮って手酌した。
「大勢の客を相手にしてりゃいちいち覚えてなくっても当然か」
「それは一理ありますけど……。もう、どうしてそんな意地悪なこと言うんです?」
「俺が言いたいのは、あいつがどうして5年も経った今、お前に会いに来る必要があるのかってことだ」
土方がそう言うのと当時に、
のつま先に何かがぶつかった。それは着物の裾をめくって
の足首に触れ、
の柔らかい肌をそっと押してくる。雪駄を脱いだ土方の素足だった。
は努めて気にしないふりをして、非難がましく土方を睨む。
「探すのに時間がかかったって言ってましたよ」
「それが嘘じゃないと証明できるか?」
「どうして嘘を吐く必要があると思うんです?」
「こっちが驚くような手を使って真選組に潜り込もうとした攘夷浪士は何人もいるからな」
土方は探りを入れるように足をもぞもぞさせたかと思うと、
の脛を親指の腹でするりと撫でた。
は足を引いて逃れようとしたが、狭い席で足をかわす隙間もない。
と、土方の足が着物の裾を割った。
はとっさにテーブルの下で着物の裾を掴んだ。
「彼が攘夷浪士だって言いたいんですか? そんなまさか、あんな人の好さそうな顔をしてる人が。それに、星野家は代々幕府御用達の呉服商なんですよ。幕府には恩もあるでしょう」
土方の足は遠慮なく
の足の間に滑り込んでくる。土方が足首を使って、
のふくらはぎのふくらみを下からすくい上げるように触ってくる。
は思わず「こんな場所でやめて」と口に出しそうになったけれど、土方の足は湯たんぽのようにじわりと温かかった。肌と肌が触れ合ってこすれ合って、お互いの体温が混ざり合うのが分かる。
「人は見かけによらないし、腹の底で何を考えているかは誰にも分からないもんだ。お前に取り入って真選組の情報を聞き出そうって腹かもしれねぇぞ」
土方の足がもっと上に登ってきて、
の膝の裏をつつく。
はつい、それに誘われるまま膝を開いてしまった。そこから侵入してきた土方の足は、
の太腿の内側に足の裏をぴたりとくっつけた。
「いくらなんでも心配しすぎですよ」
は膝の上で握りしめていた着物の裾を、さらにぎゅっと、皺になるほどの力で握りしめる。
「お前が油断しすぎなんだ」
土方は何食わぬ顔をして酒を煽った。
ふたりのすぐそばを、両腕に料理を乗せた店員が通り過ぎていく。
はこんなことをしているのがばれたらどうしようとかと気が気ではなくて顔も上げられない。
はお猪口を口に運んで何気ない風を装うと試みたが、口に含んだ酒が余計に体を熱くしてまいってしまった。耳まで赤くなっているのが鏡を見なくても分かった。
「私はただの家政婦なんですから、真選組の重要機密なんて私なんにも握ってません。土方さんが一番よく分かってるでしょ」
「何事も用心に越したことはねぇんだよ」
「彼のこと、調べるんですか?」
「一応な。お前も何か思い出したらすぐに言えよ」
「さっきから言っているとおり、本当に何も覚えてないですってば」
土方の指が芋虫のように動いて、腿の内側の柔らかいところの感触を楽しんでいる。土方の足がこれ以上奥まで侵入してきたらどうしようかと思う。こんなに人目のある場所で、風俗でもあるまいしどうかしている。けれど、どうしようもなく腹の奥の方がみるみる潤っていくのがいやでも分かった。焦らされるようなもどかしい快感がつのる。
太腿の間の一番奥に触れてほしい、けれど今は触れてほしくない。快感に身を任せてしまいたい、けれどこの場所では困る。ふたりきりになれる場所に行きたい。誰の目にも触れない場所に隠れて抱き合いたい。はやく。
ところが、
の思いとは裏腹に、土方はそっけなく言った。
「けど、あいつの方は忘れてなかっただろ」
「何をですか?」
「何せ5年もこじらせてたくらいだからな」
「何が言いたいんですか?」
が堪えきれずに甘い息を吐いた途端、土方は悦に入ったような顔をして笑った。
「お前の何を、忘れられなかったんだろうな?」
(うごめく【蠢く】 たえずこまかく動くこと。)
20181007