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銀時がスナックお登勢の暖簾をくぐったのは、閉店間際の深夜だった。
酔いつぶれた最後の客をタクシーに押し込んで見送ったお登勢は、ふらりと現れた綿毛のような頭を見て、呆れたような懐かしそうな顔で笑った。
「おや、珍しい顔が見えたもんだ。ずいぶん久しぶりじゃないか」
銀時は砕けた顔で肩をすくめてみせた。
「ちょっと忙しくしてたもんでな。夜はこれからだってのに、もう店じまいか?」
「老体は労わるもんだよ。若い連中に付き合ってたらこっちの命が縮まっちまう」
「これ以上縮まったところで、どうせ寿命と大差ねぇだろ」
「女は六十台からが人生の華なんだよ。よく覚えときな。天下の真選組副長が、こんなところで無駄口叩いてていいのかい?」
「婆の様子見に来るついでに一杯引っ掛けに来たんだよ」
お登勢は暖簾をくぐりながら、振り向きざまに言った。
「あんたが最後の客だ。看板の火、落として、暖簾入れとくれ」
銀時は言われた通り、看板のコンセントを抜いて明かりを消し、暖簾を店の中にしまって、玄関の内側に掛ける。その間に、お登勢は銀時好みの酒をカウンターに用意していてくれた。
椅子を引いて座ると、目の前でコップに酒を注いでくれる。大雑把ながら気心知れた雰囲気に、銀時は我知らずほっとした。
「ここはいつも変わらねぇな。世の中物騒なことだらけ、あっちもこっちも天人の手が入って何もかも変わって行っちまうのに、さすがの天人も皺くちゃの婆に興味はねぇらしい」
お登勢は前の客のグラスを洗いながらぼやいた。
「何ひとつ変わらないわけじゃないさ。この間、酒蔵がひとつ潰れたよ。跡継ぎが戦に取られて死んじまったんだとさ。いい酒なのに惜しいことだよ。私だってまた皺が増えたしね」
「心配すんな。皺がひとつ増えたくらいで元々皺くちゃなんだから誰も気づきやしねぇって」
「あんたはもう少しまともな口きけないのかい」
憎まれ口を叩きながらも、お登勢の表情は穏やかだ。
銀時にとってお登勢は、かぶき町に住む人間の中で一番付き合いが長い。お登勢の夫・寺田辰五郎の墓の裏で、腹を空かせた銀時が行き倒れていたことがそもそもの始まりだ。野犬のような身なりで、供え物のまんじゅうを食い漁った銀時は、その礼に墓前に誓った。老い先短い婆の命はこの俺が守る、と。
尻の青い子供のような顔をしてよく言うと、お登勢ははじめその言葉を本気にしなかった。どうせ口からでまかせを言って老人に取り入り、腹が膨れたらどこか流れていくだろうと思っていた。
死んだ魚のような目つき、ふらふらと定まらない足取り、何を考えているのかちっとも分からない風情からは、あちらこちらへ気の赴くまま流れていく、そんな生き方が似合っているように見えた。
それならそれで、お登勢は全く構いはしなかったのだ。
銀時は驚くほど剣の腕が立った。その腕前だけで、強者揃いのかぶき町の面々にも一目置かれるようになったと言っても過言ではない。お登勢が鬼のように強い用心棒を雇った、そう面白おかしく吹聴する声はあっという間に町中に広まった。
銀時は墓前に立てた誓いを律儀に守った。お登勢が野犬と見間違えた男の正体は、忠犬だったのだ。
浪士組の隊士募集の報を聞いたとき、銀時にそれを進めたのは、得意な剣の腕を生かす仕事に就いて、人様の役に立って欲しいという老婆心と、おせっかい心からだった。銀時は喧嘩には滅法強いが、逆に言えばそれ以外に取り柄がなく、普段の暮らしようは、日がな一日ぶらぶら町をふらつくだけの穀潰しに他ならなかった。
銀時は、はじめこそ団体行動は性に合わないだの、誰かの命令に従うような素直な性格は持ち合わせがないだのと散々渋ったが、他でもないお登勢の説得についに折れた。
今では真選組副長の座まで上り詰め、多少の問題を起こしながらもうまくやっていると聞いている。それは、お登勢も全く予想していないことだった。
己の特技を生かす場所に身を置くことが、銀時にとってきっといい意味を持つだろうと思って進めた道だったが、それが銀時の天職だったのかと思うと、お登勢はいっそ誇らしくすらあったのだ。
お登勢は水回りの片づけを済ませると、晴天に火を着けて一服した。
「そういえば、この間、あの子が来たよ」
「あの子?」
銀時はグラス越しに眼を上げて問い返す。
お登勢は明後日の方を見やりながら記憶をたどった。
「あんたと昔馴染みで、真選組で家政婦をやってるとか言ってたよ。名前はなんだったか……」
「
」
銀時が即答すると、お登勢は嬉しそうににやりとした。
今夜、銀時がここに来たのは、その
がきっかけだった。
は、昼寝している銀時の胸ポケットからスナックお登勢のマッチを掏った。何を考えてそんなことをしたのかは分からないが、銀時の狸寝入りにも気づかないほどの洞察力でできることなどたかが知れている。お登勢の口から得られる情報など物の数にも入らないし、真選組にとっては痛くもかゆくもない。
それでも銀時の足がスナックお登勢に向いたのは、ごく個人的な理由からだった。
「女ひとりでスナックたぁ、何を考えてるんだか」
銀時が呆れて言うと、お登勢はにやりと笑った。
「ただ、酒を飲みに来たわけじゃなかったようだよ。何が目的だったと思う?」
「さぁな。仕事に嫌気がさして、スナックにでも再就職するつもり、とか?」
「あぁ、そりゃいいね。うちも人手がありゃ助かるし、あの子なら客受けも良さそうだ」
「あいつ、マジでそんなこと言ったのかよ?」
「馬鹿だね。そんなわけないだろ」
ぴしゃりと言われて、銀時はむっと口を引き結ぶ。お登勢の冗談に心を揺さぶられるだなんて、面白くない。
お登勢はふふんと鼻で笑った。
「そんなにあの子を手放したくないのかい?」
「手放すも何も、別にあいつは俺のもんじゃねぇし」
「それにしては、何か言いたそうなツラしてるじゃないか」
「何かってなんだよ?」
「あたしが知るわけないだろ」
なんだか無性に腹が立った。ちょっと年を食っているからといって人をおちょくりやがって、このくそ婆、という言葉が喉まで出かかったけれど、それをなんとか飲み込んで、グラスに残った酒を一気に煽る。カッと喉が焼けるようになって、体が熱くなる。
お登勢は何も言わずにおかわりを注いで言った。
「あんたのことを心配していたよ」
「心配?」
「何を話したわけじゃないけどね、大方、あんたがどんな女目当てでここに通ってるのか気になったってところじゃないかい。婆ひとりでやってるスナックだと知って安心してくれたとは思うけどね」
銀時はにわかには信じられなかった。
が、自分の女関係に興味を持つ理由がどこにあるだろう。
「それはちょっと、見当違いなんじゃねぇの? 俺がどんな女と付き合おうと、あいつがそんなことに興味持つわけねぇよ」
「おや、ずいぶんはっきり言うじゃないか。確かな証拠でもあるのかい?」
「証拠なんてねぇよ。俺とあいつはそういう仲じゃねぇ、ただそれだけの話だ」
「ふぅん、そうかい」
口では納得したように頷いているが、お登勢の視線には何か含むような気配があった。どうせ信じていないのだろう、銀時はチッと舌打ちをしてお登勢を睨み返す。
「まぁ、どんな理由があるにせよ、心配かけるだけかけて、夜中に女ひとりで場末のスナックなんかに行かせちまなような男は、甲斐性なしどころか、くずだね」
銀時は思わず、グラスでカウンターを叩いて身を乗り出した。
「あのな、何度も言うが、別にあいつは俺の女でも何でもねぇんだって。あいつが勝手に俺の身の回りを嗅ぎ回ってやがるんだ」
「おや、嗅ぎ回られて困るようなことでもあるのかい?」
「それは……」
言い淀んだ銀時を、お登勢はからかうように笑う。
「小さい頃は男も女もなく一緒に転げ回ってたのに、大人になったら顔つき合わせて話をするのも面倒になっちまったのかい。まるで思春期のガキだね」
「誰が思春期だ、俺ァちゃんと毛も生え揃った立派な大人だ」
「他人に心配かけてる内は大人とは言わないんだよ。仕事ができても、酒が飲めてもね」
銀時は返す言葉が見つからず、そのせいでますますいら立ちが募って、もう一度酒を一気に飲み干した。強く酔いが回って、頭にかっと血が昇る。興奮したせいか、ほのかに頭が痛くなってきた。それでも意地になってグラスを突き出したが、お登勢は酒の代わりに水道水を勢いよく注いで銀時の手に押し付けた。
「あんたらに何があったか、あたしは知らない。男と女の仲だ、いろいろあったんだろうさ。けど、人生ってのはいつ何が起こるか分かりゃしないんだよ。言いたいことを言えないまま、ある日突然、別れが訪れることもある。年寄りのお節介だって聞き流してくれて構わないけどさ、話ぐらい、してやりなよ」
銀時は味気ない水道水に満たされたコップをじっと見下ろした。
お登勢の言葉も、
の行動も、銀時にはただ重たかった。
話をしろ、ただそれだけのことではないかと、いかにも簡単そうに言うが、物事はそう単純なことばかりではない。
とは、子供の頃から多くの時間を共に過ごしてきた。言葉も満足に話せない頃から、攘夷戦争に参加するまでの十年余り、数えきれないほどたくさんの思い出がある。その中には、松陽をはじめ、高杉や桂、松下村塾の仲間達の顔がずらりと並んでいる。
と顔を突き合わせて話などしたら、思い出してしまう。あの思い出の日々は全て失われてしまったこと。それに手を下したのは、他でもない銀時なのだ。
はいい奴だ。素直で優しくて、人を恨むということを知らない。逆に言えば、悲しみも憎しみも自らの内に溜め込んでしまうということだ。
真実を明らかにすることが必ずしも正しいこととは限らない。真実が人を傷つけることも往々にしてある。
あの悲しみや苦しみを、
には背負わせられない。
お登勢は銀時の思いを知ってか知らずか、勇気づけるように言った。
「話をするのに酒の力が必要なら、いつでもここに来ればいいじゃないか」
そんな未来は絶対に来ない。
銀時は強くそう思ったが、これ以上お登勢の説教を聞くのは御免だったから、黙って水道水を飲み干した。頭痛は収まるどころか、ますますひどくなっていく一方だった。
20201026