20
土方が一番恐れていた事態がついに起こってしまったのは、雲ひとつない晴天が広がる穏やかな日だった。
朝食に向かう途中、通りがかった廊下の先から、隊士達の弾けるような笑い声が響いてくる。
「沖田隊長、何やってんですか!」
「こりゃひでぇ! 血飛沫浴びたみたいだ!」
普段ならば、朝から元気な奴らだな、と聞き流すところだったが、何やら物騒な言葉が気になった。
「どうした? 何かあったのか?」
部屋を覗き込むと、一番隊の隊士達が沖田を取り囲んで笑っていた。その輪の中心で、
も一緒に笑っている。
「土方さん、おはようございます」
沖田が言う。
「副長、見てくださいよこれ!」
隊士の梨本が笑いながら、
の手元を指差す。
それを見て、土方はぎょっとした。隊長のみが身につけることを許された白いスカーフだ。ぐしゃぐしゃにシワが寄っていて、グロテスクな赤茶色のシミで汚れていた。血飛沫を浴びたようとはよく言ったものだ、遠目から見ればそうとしか思えなかった。
「これ、なんの汚れだと思います?」
と、
がスカーフを差し出してみせる。
土方は背を仰け反らせ、不快感をあらわに言った。
「何だよそれ? 汚ねぇな」
「それがね、ケチャップのシミなんですって」
「オムライスにケチャップかけようとして、しくじったらしいですよ」
「それにしても普通こんなんなりますかね?」
「汚したまんまほったらかしにしてて、今日、たんすの陰から出てきたんですって」
「仕方ねぇだろ、あの時
さんが寝込んでて、洗濯やら何やらごたついてたんだからよ」
「その節はいろいろ行き届かなくて、ごめんなさいね」
「お前が謝ることじゃねぇだろうが」
土方が言うと、
は申し訳なさそうに肩をすくめてみせた。
長い間寝込んで仕事に穴を開けたことを、
は未だに後ろめたく思っている節がある。沖田や隊士達がケチャップの飛沫を浴びたスカーフひとつで大笑いしているのは、
の罪悪感を笑い飛ばして元気付けようとしているんだろう。
けれど、血まみれのスカーフを持って笑う
の姿はあまりにグロテスクで、土方にはたちの悪い冗談としか思えなかった。
「整理整頓は局中法度だぞ。次にこんなことがあったら切腹だからな」
はーい、分かりましたー、と気の無い返事をして、隊士達はどやどやと部屋を出て行く。
もそれについて部屋を出て行き、最後にひとり残った沖田を、土方は厳しく睨みつけた。
「おい、どういうつもりだ?」
「何のことです?」
沖田は茶色がかった丸い瞳を瞬かせる。
「とぼけるな。あれ、あの時のだろ」
「おや、よく分かりましたね」
「見りゃ分かる。なんでさっさと処分しておかなかった?」
ふと、沖田は額をぶつけるような勢いで土方に迫ってきた。子どものように無邪気な瞳が、狂気を宿して鋭く光る。
「俺は、あんたを軽蔑してますからね」
土方も負けじと、厳しく言い返す。
「俺をどう思おうが勝手だがな、命令に背くとただじゃおかねぇぞ」
「言っておきますけど、あのスカーフは、わざわざ俺が引っ張り出してきたわけじゃありませんよ。掃除しにきた
さんが自分で見つけたんです」
「そう仕向けたのはお前なんじゃないのか?」
「そう思いたいならご自由にどうぞ。どちらにせよ、このまま
さんが何も気づかないでいてくれるといいですね。そこまで馬鹿なお人じゃないはずですが」
「おい、総悟!」
土方の静止を無視して、沖田はさっさと廊下の向こうに消えてしまった。
土方の携帯電話に非通知の着信が入ったのは、その日の午後のことだった。雑務を片付けるために部屋でひとり机に向かっていた土方は、電話の声を聞いて目を険しくした。
『もしもし、土方さん?』
「お前から電話なんて珍しいな」
『すいません。どうしても、今すぐお伝えしたいことが』
電話の相手が、急いたように前のめりになったことが声の調子から伝わってくる。
「何があった?」
『実は、
さんに会いました』
土方は咥え煙草を外し、姿勢を正す。電話の声は真剣に続けた。
『僕の不注意です。弁解しようもありません。本当に、申し訳ありませんでした。ただ、
さんに強く食い下がられたことは理解してください。ご存じの通り、僕は足が悪い。逃げ切れませんでした』
「何か聞かれたか?」
『えぇ。それはもういろいろと。死んだはずの隊士が突然目の前に現れたんだから、当然ですね』
井村はそう言って自嘲した。
どうしてこんなことになったのか、土方には、思い当たることがひとつあった。
土方が
の部屋に仕事道具を持ち込んでいた頃、睡眠薬を盛られて眠ってしまったことがある。目が覚めると、ばらばらだったはずの書類がすっかり片付けられていた。このことを
に知られたとしたら、あの時しか考えられない。
書類の中には隊士の名簿があった。死んだ隊士も含めた全隊士の名簿だ。
は記憶力がいいし、細かいことにもよく気が付く。そういえば、山崎の尾行に気づいたこともあった。山崎はなぜか人に顔を覚えられにくいところがあって、そこが監察という仕事にはぴったりなのだが、
にそれは通用しなかった。井村が一度死んだのはずいぶん前のことになるが、その顔を忘れてはいなかったのだ。
頭を抱える土方に、電話の向こうの井村が息せき切って言う。
『
さんとは、たった今、別れたばかりです。きっとすぐにそちらに戻るでしょう。急いでお伝えしたほうがいいかと思いまして』
「分かった。このことは誰にも他言するな」
『はい。あの土方さん』
「なんだ?」
『僕が言えた義理ではないんですが、どうか、
さんを責めないであげてください』
ふと、電話の向こうに微笑みの気配がした。笑ってはいけないと分かっているのに、どうしようもない思いがあふれてしまったような、そんなかすかな気配だ。
「どうした? 何がおかしい?」
『いえ、全然大したことではないんですが……。透子さん、僕の顔を見るなりなんて言ったと思います?』
「そりゃ、驚いただろうよ」
『それもそうなんですけれど、こう言ったんです。「生きててくれて嬉しい」って。そう、言ってくれたんです』
胸の奥がぎゅっと詰まるような感動を覚えて、土方は思わず笑ってしまった。的外れなせりふだが、いかにもあの
が言いそうなことだ。
「嬉しかっただろう」
井村は快活に「はい」と笑った。
電話を切った土方は、机の上に積み上がった書類を睨んだ。急ぎの仕事だ。他人にも任せられない。しかも今夜は夜勤だし、その前に局長に相談したい案件もいくつかある。
――それがどうした。
土方は刀と煙草だけを持って立ちあがると、部屋を出た。廊下ですれ違った隊士に、「奥の蔵へ行く。誰かに聞かれたそこへ来いと言え」と伝言を頼み、真っ直ぐに蔵へ向かう。
表の蔵は武器庫になっていて、刀はもちろんバズーカや大砲まで、常に手入れをした状態で保管してある。一方、裏の蔵は敷地内の端に位置していて、使わなくなった武器や家具、家電を押し込めるのに使われている。元々、人の出入りが少なく、扉を開けただけで土埃が舞い、黴臭かった。扉を閉め、二階に上がる。小窓を開けると新鮮な空気が入ってきて臭いは少しましになった。
一本目の煙草に火を着けた時だ。蔵の扉が軋む音とともに、緊張した声が下の方から響いてきた。
「土方さん? いらっしゃいますか?」
「上だ」
大きな声を出さなくとも、声は十分反響した。ややあって、階段を上って姿を見せた
は、緊張した面持ちで真っすぐに土方を見つめた。
「ここにいるって、聞きました」
「あぁ」
「何してるんですか?」
「お前を待ってた」
「なんでこんなところで?」
「聞きたいことがあるんだろう。他人には聞かせられねぇことだろうからな」
「井村くんから、知らせがあったんですか?」
「まぁな」
の肩が、突然激しく上下する。発作でも起こしたように呼吸が速くなる。震える手が胸元を抑える。土方はそばに駆け寄って抱きしめてやりたい衝動ををぐっとこらえて、
が呼吸を整えるのをじっと待った。
「ついさっき、井村くんに、会いました」
「あぁ、聞いた」
「私、びっくりしちゃって。だって井村くんは……」
「とっくの昔に死んだはず、だよな」
「……でも、土方さんのおかげで生き永らえたんだって言ってました。どういうことなんですか?」
井村太志は、募集に応じて入隊した真選組隊士だった。小柄ながら太刀さばきに優れ、何度も死線をくぐり抜け活躍した逸材だ。人当たりが柔らかい性格で、隊士達からは悩み相談をされたりすることもあったようだ。よく慕われていた。真選組にいるにはもったいないと思うほどいい人間だった。
ある時、井村は浪士との斬り合いで足を負傷した。大きな怪我で、医者の見立てでは歩けなくなる可能性もあるとのことだった。もう二度と、戦えない体になってしまったのだ。
局中法度には、隊を脱することを禁じる条文がある。真選組を辞める時は命を捨てる時だ、その覚悟をもって任務に励めという叱咤の思いがこもった条文だ。けれど、どんな理由であれ戦えない隊士はお荷物になる。そうまでして真選組を辞めることができないのは不合理だ。適正によっては勘定方や事務方に配属することもあるが、そもそも剣の腕のみを頼りに入隊する者が多い中、そんな適性を持っている者はごくわずか。井村に適性はなかった。
井村は浪士との乱闘で負った傷が元で殉職した体を装い、ひそかに隊を脱退させられた。手先が器用だったことから、料理屋での奉公の仕事を根回ししてやった。めきめきと腕を上げ、今では小さいながらも自分の店を出すまでに成長している。開店資金の何割かを、土方が私費で援助してやった。
井村のように、死を装って脱退した隊士は十数名に上る。彼らは民間人を装って市中に根を張り、攘夷浪士の情報を収集しては土方の元に届けてくれている。
土方はそれらをかいつまんで説明し終えた後、射るような目で
を見た。
「俺が寝てる間に、書類を見たんだな?」
は、こくんと小さく頷いた。
「はい、見ました」
「お前は記憶力がいい。井村以外にも、同じような連中がいるって分かってるな?」
「はい。顔も名前も覚えてます」
「これは隊内でも幹部しか知らない極秘情報だ。お前に知られちまったのは俺の落ち度だが、他言無用で頼む。町で知っている顔を見かけても、不用意に声をかけるな。これは連中の安全のためでもある。理解してくれるか?」
「はい。もちろん、誰にも言いません。ただ……」
は口ごもって俯いてしまう。言葉を探すように震える唇、それを隠すようにゆらりと動く手。きっと、言いたいことがたくさんあるだろう。言葉が胸の中いっぱいに詰まっていて、どれから吐き出せばいいのか分からないのだ。
土方は焚き付けるように言った。
「謝っても、許してもらえるとは思ってない。言い訳する気もない。だが、お前に言いたいことがあるなら、いくらでも聞いてやる。怒りたいなら、我慢してないで怒れよ。殴りたいなら殴れ」
土方は腰から刀を鞘ごと抜き取ると、それを
の手に押し付けた。見た目よりもずしりと重い鋼の刀。武士の命にも等しい刀だ。
「斬りたいなら、斬れ」
もう隠し事はないとあれほど言ったのに、これがどんなに酷い裏切り行為なのかは分かっていた。
になら、どんな仕打ちを受けてもいい。そう本心から思う。
は呆然と土方の刀を見下ろしている。
「……違います。私は、怒りたいんじゃないんです。ただ、悲しくて……」
その目から、一滴の涙がこぼれた。
「私なんか、ただの家政婦ですけれど、毎日、みんなと御飯を食べて、くだらないことで笑って、そうやって屯所で過ごすことが何よりも楽しくて、ここを本当の家族みたいに思ってたんです」
刀を握る
の手が震えていた。止めどなく流れる涙が顎の先から滴り落ち、刀の柄を濡らしていく。
「そんな風に考えるのは、図々しいって分かってるんです。私は何様なんだろうって、思ってるんです。でも、私はここで、そういう風に過ごしたいんです。隊士のみんなが、屯所を我が家みたいに居心地よく思って、仲間同士、家族みたいに思い合えたらなんて素敵なんだろうって。もし、本当の家族が怪我を負って働けなくなったとして、家族に黙って死んだことにするなんて、普通、そんなことします? 私、もう、びっくりして、だって、死んでしまって、お葬式も上げて、毎月お墓参りまでしてた人が生きてたなんて、そんなことって……!」
気持ちが高ぶって声が高くなる。呼吸が荒くなり、それに合わせて肩が激しく上下する。過呼吸の発作だ、と気が付いて、土方はとっさに
を抱きすくめた。
嗚咽を漏らしながらひゅうひゅうと喉を鳴らしている
を支えながら、土方はぎゅっと唇を噛み締めた。
家族。
が真選組のことをそんな風に考えてくれていたとは、思いもしなかった。銀時のことはよくそんな風に言っていた。子どもの頃からの付き合いで、家族のように一緒に育ったと。あいつひとりだけでなく、全ての隊士達に対して同じ思いで接してくれていたのだ。
家族のようにと思っているからこそ、どんなに地味で目立たない顔をしていたとしても見逃さない。自分の命を狙って刀を振り下ろした相手を心から許してしまう。悲惨な死に方をしたら、身も世もなく泣いて、生きる気力を失うほど落ち込み、寝込んでしまう。それは、
のゆずれない思いがあるからなのだ。
やっと呼吸が落ち着いた
が、土方の胸を押し返す。涙は止まっていたが、目元が真っ赤だった。
「ごめんなさい。勝手なことばかり言って」
「いや、いいよ」
「返します」
土方は刀を腰に差し直すと、もう一度
を抱きしめた。
「お前が、そんな風に考えてたとは知らなかった。ありがとうな」
「そんな、私はただ……」
「真選組は、俺にとっての全てだ。それを、お前が家族みたいに思ってくれて嬉しい」
の手が訴えかけるように、土方の隊服の裾を掴んでしがみついてくる。
「私、怒ってません。本当です」
「あぁ、分かってる」
「ときどき、思うんです。私が男だったら良かったのにって」
「はぁ? なんでだよ?」
「だって、もし私が普通の隊士だったら、私ひとりでこんなにバタバタすることもなかったはずですもの」
「馬鹿なこと言うな」
土方は両手で
の頬を包み込み、唇を触れるだけの口づけをした。
「お前が男だったら、こんなことできねぇだろ」
がまた泣きだしそうに顔を歪めるから、土方は涙がこぼれる前にもう一度唇を塞ぐ。
はほんの少しだけ背伸びをしてそれに応えた。小さな
の体を支えるように抱きすくめる。
嬉しかった。もっと、頭ごなしに責められるかと思っていた。隠し事はもうないと嘘をついた。自分を好いてくれている相手に、これ以上不誠実なことがあるだろうか。いじらしくて、胸がいっぱいになる。
窓から差し込む光が傾いて、柔らかい橙色の光が蔵いっぱいに満ちていく。目に見える速さで変わっていく光景を見つめながら、土方は気が済むまで
を抱いたままでいた。
「土方さん」
「ん?」
「もうひとつ、聞いていいですか?」
「なんだ?」
「沖田くんのスカーフのことです」
土方は唇を引き結んで、
を見下ろす。
の目は泣き腫らして真っ赤だったが、目尻がきりりとして真剣だ。悲しいと言って泣いた子どものような
はもうそこにはいなかった。
「あれは、銀さんが死んだ日に巻いていたものでしょう?」
「……気づいてたか」
「今朝のことがあってから、ゆっくり考えてみたんです。あの時、私が沖田くんに掴みかかって行きましたよね。でも、沖田くんは体を反らして避けたんです。私みたいな非力な女に何されたって沖田くんは平気なはずなのに。もしかしたらあれは、スカーフの汚れが血じゃなくてケチャップだって気づかれたくなかったからなんじゃないかって」
「その通りだ」
「つまり……」
の手が、土方の胸元を掴む。指先に引っかかったスカーフが引っ張られて首元が締まる。
の目が険しくなる。瞳の奥に火が着いたようだ。一日の最後の太陽の欠片が
の瞳の中に宿って、その命を燃やしているようだった。その苛烈さに、土方はどうしようもなく惹きつけられてしまう。
あいつを思う時の
の瞳は、どうしてこんなに美しいんだろう。
「生きてるってことですよね? 銀さん」
「あぁ」
「会えますか?」
「だめだ」
「どうして?」
「あいつが、望まない」
20200831