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 真選組は、攘夷浪士の行動を把握するため、江戸中あちこちに張り込み専用の部屋を持っている。地元住人から借り上げたり、持ち主の分からなくなった空き家を拝借したりしたもので、狭くて窮屈な部屋ばかりだが使い勝手はいい。

 土方とは、数ある張り込み部屋のひとつにいた。

 身も世もなく泣いているを真っすぐ屯所に連れ帰るには忍びなかったのだ。事情を知らない人間がこんな状態のを見たらびっくり仰天するに違いなく、好奇心の目に晒して、を傷つけたくはなかった。

 とは言え、連れてくる場所を間違えたかもしれないと、土方は後悔せずにはいられない。

 今は使われていない張り込み部屋は、人が出入りしていなかったせいですっかり薄汚れていた。部屋のそこここにうっすらと埃が積り、片付けも満足にせずに引き払ったらしく、ごちゃごちゃと散らかっている。雑に折りたたまれた布団、座布団、ちゃぶ台の上には、汚れた灰皿や使いかけのティッシュボックスが乗っている。カップ麺の空や菓子パンの包装紙でいっぱいのごみ箱。無線機や双眼鏡などの電気機器には布の覆いがかけられていたが、それもずいぶん大雑把で見るに堪えない。こんなことでは局中法度に整理整頓の条文を加えなければと思う。

 あまりに部屋が埃っぽいので、すっかり日が暮れているが窓を開けた。窓の外には庭の植木が勢いよく葉を茂らせていて、次の張り込みの前には枝を刈りこむ必要がありそうだった。

 片づけなければ座る場所もない。土方は足元に落ちていたコンビニのビニール袋を拾い上げ、それに目につくゴミを拾い集めた。取り敢えず、邪魔にならないよう部屋の外に出しておこうと扉の取っ手に手をかける。

 その手を、の小さな手が掴んだ。

「どこに行くんですか?」

 はハンカチを握りしめた手で口元を抑えながら言う。さすがにもう涙は止まっていたが、泣き腫らした目元が真っ赤だった。

「ごみを出すだけだ」
「行かないで。ひとりにしないでください」

 の指が、土方の袖を強く掴む。どうやら、よほど信用されていないらしい。これまでずっと無視して避けてきたのだから当然か、と土方は納得して、腕がやっと通るほど開けた扉の隙間からごみ袋を外に頬り投げた。

 土方はの手の甲をぽんぽんと叩いて、袖に引っかかった指を外す。

 布団を部屋の隅に寄せてスペースを作り、座布団を二枚つかみ取る。両手に一枚ずつ掴んで窓の外に突き出して互いを叩きつけると、白い霧のように埃が舞った。黒板消しをはたいてチョークの石灰を落とす要領で埃を落とす。

「座れよ」

 と、畳に座布団を敷いて言うと、は素直に従った。

「狭くて、汚ねぇところで悪いな」

 の真正面に腰を下ろしながら言うと、は小さく首を横に振った。

「いいえ」
「あのまま墓にいるか、屯所に戻るかよりはいいと思ったんだ」
「はい。助かります」
「腹減ってねぇか? 何か買ってくれば良かったな」
「いいえ、何もいりません」
「喉、乾かねぇか?」
「平気です」
「あのな、頼むから嘘はつくなよ。どんなに小さなことでもだ。俺もそうするから」

 は潤んだ瞳で上目遣いに土方を見やると、ハンカチの陰で小さくため息をついた。

「……少しだけ、喉が乾きました」

 土方は立ち上がって、備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。ブオン、と低い音がして、庫内の電球が点滅する。大して物は入っていなかったが、ソーセージと、飲料水のペットボトルが数本入っていた。ソーセージは賞味期限が切れていたが、飲料水の方はぎりぎり大丈夫そうだ。

 天然水と炭酸水を選んで、座布団に戻る。

「どっちにする?」
「土方さんは?」
「どっちでも」

 は天然水を選んだので、土方は炭酸水のキャップをひねる。口に含むと、わずかに気が抜けていて不味かった。土方が顔をしかめている間に、はほんの少し水を舐めるようなそぶりを見せた。

 ふたりそれぞれの口がペットボトルで塞がったせいで、沈黙が落ちる。

 何から話せばいいだろう、土方は必死に頭をひねる。話すべきことはたくさんあるはずなのに、それらが全て一緒くたになって渦を巻いているようだった。渦の中の断片だけでも掴みたいのに、流れが速すぎて追いつかない。

 迷っているうちに、の方が先に口を開いた。

「取り乱して、すいませんでした」
「……俺も、いろいろすまなかった。不安にさせたな。ちゃんと話すから、許してくれ」

 の目が、じっと土方を射る。

「嘘も、隠し事もなしですよ? どんな小さなことでも」

 土方が言ったことと同じことを言って念を押すに、土方は切実で真剣なものを感じて苦笑いをした。

 嘘を吐くな、隠し事をするなと言うこの口で、数えきれない出まかせを口にし、真実を誤魔化してきた。今も、どこまで話せばいいのか、何が正しいのか分からない。けれど、ここまできたら誠実でいたいと思う。

 土方はの手を取り、確かめるようにぎゅっと握りしめると静かに切り出した。

「まず、分かっていて欲しいのは、お前は少し前まで攘夷浪士に狙われていたってことだ」

 は目を丸くした。

「は?」
「やっぱり気づいてなかったんだな」
「それは、冗談ですよね?」
「嘘はつかねぇって言っただろ」
「どうして私が?」
「心当たりはないか?」
「……もしかして、銀さんですか? 脱走を助けたって、ずっと疑っていたことと何か関係が?」
「察しがいいな。その疑いを持っていたのは、俺達だけじゃなかったってことだ」
「そんな、何度も言ってますけれど、私は何も知りませんよ!」
「んなことは分かってる。だから、あれこれと理由をつけてお前を屯所の外に出さなかったんだ」

 土方の手の中にあるの手に力がこもる。不安に駆られて、無意識に握りしめてしまっているようだ。土方はその手を、勇気づけるように強く握り返す。

「俺は、お前が、銀時の脱走を助けたり、浪士と繋がっているなんて鼻から信じちゃいなかった。あれはお前を守るためにしたことだ」
「……そんなことを疑われたのは、私が銀さんと昔馴染みだからですか?」
「あぁ、そうだ」
「確かに、銀さんは昔、攘夷戦争に参加してました。でも、それはもう過去のことで……。それに、私は当時のことは何も知りません。そんなの言いがかりです」
「お前がそう思っていても、奴らはそうは受け取らない。銀時は攘夷志士として戦争に参加していたにも関わらず、攘夷浪士を粛清しなければならない立場にあった。かつては白夜叉と呼ばれ、敵からはもちろん味方にも恐れられるほどの腕前だったらしいな。銀時の顔と名前を知らない奴は、攘夷浪士の中にはいなかっただろう。そんな奴らが、銀時が幕府の犬になり下がったことを知ったら、どうすると思う?」

 はごくりと喉を鳴らす。

「……裏切り者として討ち取るか、もしくは、引き抜き……?」

 土方は思わず感心してため息をついた。ぼんやりしているように見えて、は物事をよく見ている。理解も早い。

「銀時の場合は、そのどちらでもなかった。あいつは、浪士と取引をしてたんだ。攘夷浪士の潜伏先の情報を真選組に横流しし、真選組の情報を攘夷浪士に横流ししていた」

 は信じられないと言いたげに首を横に振る。

「そんな、まさか。銀さんは人を裏切るような真似するひとじゃありません」
「お前の評価はどうであれ、それが俺が調べ上げた事実だ」
「冗談はやめてください」
「嘘はつかないと、はじめに言っただろ」

 はぐっと押し黙ると、ハンカチを胸に押し付けて黙り込んだ。土方とつないだ手の力がますます強くなり、短く切った爪が肌に食い込む。土方はじっとその痛みに耐えた。

「信じられないかもしれねぇ。事実を受け止めるのは辛いだろう。だがな、あいつが大人しく粛清されたのはお前のためなんだ」
「……どういう意味ですか?」
「攘夷浪士も、銀時が真選組に情報を流していたことに気づいていた。しかも、銀時がその手で何人もの浪士を斬っている。これを恨まれない方がどうかしている。お前は銀時の弱点に十分なり得たんだ。銀時に復讐するためか、それとも思い通りに操るためか、理由はいろいろあるだろうが、奴らはお前を捕らえて利用する気だったんだ。銀時は、お前を巻き込みたくなくて、お前を守るために、自ら粛清される道を選んだんだ」
「……私のせいだったんですね」
「それは違う。銀時が、自分で選んだんだ。お前が自分を責める必要はない」
「でも……」

 の赤く腫れた目に、再び涙が浮かぶ。土方は俯きかけたの頬に手を添えて顔を上げさせると、静かに言った。

「俺は、あいつと約束したんだ。あいつがいなくなった後は、俺がお前を守る」
「……だから今日は、あんなに怒ってたんですね。私が連絡もせず帰るのが遅れたから」
「浪士に攫われでもしたんじゃねぇかと思うと、気が気じゃなかったんだ。怒鳴って悪かった。はじめからちゃんと話しておけばよかったよな。お前を怖がらせたくなかったんだ。ただでさえお前は弱ってたから、心配事を増やしたくなかった」

 手のひらの中からの潤んだ瞳が見上げてくる。

 涙に濡れて光る黒い瞳は、まるで大粒の黒真珠を埋め込んだようだった。海の底で生まれた宝石だ。今それが自分の手の中にあるとはとても信じられない。目が離せなない。

 涙が頬に筋を描き、土方はそれを指の腹で拭ってやった。

「俺はお前に恨まれてると思ってたんだ。そうされて当然のことを、俺はした。けれど、お前を守るためにそばを離れられなかった。嫌な思いさせてるだろうなと分かってはいたんだ。悪かったな」

 は声を出さずに首を横に振る。
 土方は続ける。

「こんなことを言うのはどうかとも思うんだが、言わせてもらう。お前に惚れていると言ったことは、覚えてるか?」

 の眼差しが疑わしそうに歪んだ。

「言葉は覚えてますけれど、今は、信じられません」

 それはもっともなことだ。ここ数日、土方はずっとを避けていた。顔を見ないよう、声を聴かないよう、の居そうな場所を極力避けていた。突き放すようなことを言って、冷たくあしらって、あんなひどい態度を取った。

 矛盾だらけの思いを言葉にするのは、難しい。見たこともない武器を手渡されて、それを使って敵を撃てとでも言われているような気分だ。手段はあるのに、使い方が分からない。使い慣れた刀を使った方がよほどうまくいきそうな気がするけれど、今まで通りのやり方では何も効果がなかったことはもう分かっている。手探りでも、やるしかないのだ。

 どれだけの言葉を尽くせばこの気持ちが伝わるのか、見当もつかない。けれど、どんなに言葉足らずでも、みっともなくても情けなくても、言わなくては。

「お前に、拒絶されるのが怖かったんだ」

 土方はと繋いだ手をぎゅっと強く握った

「俺がどんなにお前のことを思っていても、お前は俺を恨んでる。簡単に許してもらえることじゃないことも分かっている。お前を手に入れるのはもう無理だと諦めてたんだ。顔を見ると辛いから、わざとお前を避けていた」

 長い間、喉の奥につっかえていたものがようやく取れたような気がした。唇、舌、喉の空気がすーっと通って、途端に楽に呼吸ができるようになる。肩が、胸が、体全体が軽い。爽快だった。こんな気持ちになれるならもっと早くこうすれば良かった。

 土方は勢いを止められず、息せき切って言った。

、俺の女になってくれねぇか。必ずお前を守る。銀時との約束だからじゃない。俺自身が、お前を本当に大事に思ってる。俺のそばにいてくれ」

 黒い宝石のようなの瞳が潤んでゆらりと揺れた。涙は頬を伝い、顎の先から落ちて、土方の手の甲に雨を降らせる。それは止めどなく降り続け、土方はどうしていいか分からずおろおろと狼狽えた。

 好きな女が泣いている時、どうしてやるのが正解なのか分からない。

 は喉を引くつかせながら、必死で言葉を絞り出そうとする。決してうまくはいっていなかったが、なんとか笑顔を見せようとしているようだった。

「やっと、言ってくれましたね」
「やっとって、どういうことだよ?」
「前にも何度か言ってくれたでしょ? 俺の女になれって」

 そうだっただろうか。土方はうまく思い出せなかった。

「その度に、私、できませんって答えてました。あの頃はまだ、銀さんのことが頭から離れなくて、素直になれなかったんです。でも、あれからよく考えて、自分の気持ちと向き合って、土方さんのことが好きだって気づきました。だから、もう一度告白してくれたら、今度はちゃんと答えようって、ずっと思ってたんですよ」

 はしゃんと背筋を伸ばして座り直すと、両手で強く土方の手を握る。涙はまだ止まらない。けれど、その口元には今度こそはっきりした笑みが浮かんでいた。

「私を、守ってくださってありがとうございます。私は無力で、迷惑をかけてばかりで、土方さんのために何もできないかもしれないけれど、こんな私で良ければ、そばにいさせてください」

 土方は思わず身を乗り出してを抱きしめた。歓びが胸の奥からあふれて止まらない。つい腕に力が入りすぎてしまって、腕の中でがうめく。

「土方さん、痛いです」
「あぁ、すまん」

 は土方の肩口に頬を押し付けるようにして濡れた目元を拭う。まだ涙が止まる気配はなく、土方の隊服はそこだけが雨に打たれたようにびしょびしょになってしまった。

 どうしたらこの涙を止めてやれるだろう。

 土方はふと思いいたって、の頬を両手で挟むと唐突に口付けをした。沖田と一緒に観ていた再放送のドラマで、確かこんなシーンがあったような気がしたのだ。

 涙でしょっぱい味のするの唇から恐る恐る顔を離す。がどんな顔をしているか、少しだけ不安だった。

「……びっくりした」

 は狐につままれたような顔をしてそう言った。
 土方は困惑しながら言い訳をした。

「だって、お前がちっとも泣き止まねぇから」
「すいません。自分でも分からないんですけど、止まらなくて……」

 は顎を引いて、涙で濡れた頬をごしごしとこする。けれど、後から後から流れる涙がまた頬を濡らすから、これではいたちごっこだ。

 土方はの顎の下に手を入れて無理やり上を向かせ、もう一度口付けした。唇を触れ合わせ、ついばみ、の甘い息を味わう。涙のしょっぱさと混ざるとますますその甘さが引き立ってくせになる。

 が体を引いて逃れようとするのを、首の後ろに手をやって捕まえた。やっと心が通じ合えたのだ、もう絶対に離しはしない。

 は俺のものだ。

 土方は今度こそ完璧な自信を持ってそう思った。













20200604