13

















 土方はその日、午前いっぱい休みを取った。近藤には、睡眠不足がたたって体調を崩したと説明した。静かに眠りたいから声をかけるなと命令して、誰も部屋に寄せ付けなかった。

 とはいえ、本当に布団にくるまって眠っていたわけではない。ひとりでじっと、まんじりともせず考えていた。ただひたすら、ずっとだ。

 そして、その日の午後、離れへ向かった。手には、ダンボールをひとつ持っていた。

 ちょうど、松本医師の助手が来ていた。血圧を測っているところだったらしく、の浴衣の袖を肩までまくり上げて、腕帯を二の腕に巻き付けているところだった。

「土方さん。こんにちは」

 と、助手がにっこりと言う。
 は土方を見るなり居心地悪そうに目を反らした。

「悪いな、邪魔するぞ」
「今日は何の御用ですか?」
「書類を取りに来た」

 土方は机にダンボールを置き、が片付けた書類を詰めはじめた。ばさばさと乱暴な音を立てるので、聴診器を耳につけた助手は迷惑そうだ。

「もう少し静かにやってもらえませんか?」
「すまん、すぐ済む」

 助手は右手でゴム球を握ってシュコシュコと鳴らす。は軽く握った自分の手を見下ろしているが、少し伸びた前髪の下から土方の方を盗み見ていた。

 黙々と手を動かしながら、土方はに聞こえるように言った。

「今夜から、ここには来ない」
「はい?」
「もうひとりで寝れるみたいだしな」
「……何を怒ってるんですか?」

 は存外、はっきりとした声で言った。

「言いたいことがあるなら、遠回しなことをせずにはっきりおっしゃってください」
「別に言いたいこともねぇし、怒ってもいねぇよ」
「そうは見えませんけど」
「そう言うお前こそどうなんだ? 言いたいことがあるならはっきり言え」
「私は、別に……」
「この話、もう何度目だよ」

 助手が聴診器を外して、帳面に血圧を書きつける。横目で覗き込むと、そう悪い数値には見えなかった。腕帯を外して血圧計を片付け始めた助手に、土方は問いかけた。

「おい、調子はどうだ?」

 助手は戸惑いながらも、答えた。

「えぇ、数値は安定しています」

 土方は書類を詰め込んだダンボールを抱え上げると、の目の前に立った。

「後で、外の空気でも吸いに行かねぇか?」
「はぁ?」

 は袖を直しながら目を丸くした。

「いつまでもこんなところに引きこもってるから堂々巡りになるんだ。気分を変えようぜ。構わねぇよな?」

 助手はしどろもどろに頷く。

「はい。少しずつなら、体を動かしていくのはいいことだと思いますけど」
「え、でも……」
「支度しておけ、後で迎えに来る」
「ちょっと、土方さん?」

 の静止の声を振り切って、土方は離れを出た。

 ダンボールを部屋に運び、書類を片付け、山崎にあれこれ指示を出して仕事の目途をつけてから、再び離れに戻る。

 もしかすると、は外に出たがらないのではないかと心配していたのだけれど、きちんと身支度を整え、上がり框に座って待っていてくれた。どうやら助手が着付けを手伝ってくれたらしい。助手は土方と入れ違いに帰っていった。

 動きやすい木綿の着物に、きちんと帯を締めているを見るのは久しぶりだ。こういう格好をしていると、以前と比べて首や顎の線が細くなってしまったことがますます際立つ。部屋からほとんど出ない生活だったから、きっと筋力も落ちてしまっているだろう。あまり遠出はできなさそうだ。

「行くぞ」

 土方はに手を貸そうとしたが、はそれを無視して腰を上げ、自分の手で離れの扉を開けた。

 屯所の裏口を使って外に出る。自然と土方の足が向いたのは、屯所から歩いて数分のところにある小さな神社だった。どこの誰が管理しているのかも分からない神社で、木々の枝は伸び放題、季節によっては雑草が覆い茂ることもある。ときどき、町内会の老人が落ち葉を掃いたり、ごみ拾いをしたりしてなんとか清潔を保っているようだ。

 土方とが敷地に足を踏み入れると、黒猫が一匹、植木の中に逃げていった。

 薄汚れた拝殿でお参りをする。何も考えずに数秒手を合わせた土方に対して、は手を合わせたまま、しばらく身じろぎもしなかった。

 一体、何を祈ったのだろう。

 敷地内にある中で一番太くて大きな木の陰に入るなり、はそこに背中を預けてうなだれてしまった。ほんの少し歩いただけとはいえ、ずっと部屋にこもりきりだった身には堪えたようだ。

「大丈夫か?」
「はい、すいません。少し休めば大丈夫だと思います」

 土方はここへ来る途中で買っておいたペットボトルのキャップをひねり、に差し出す。は遠慮がちにそれを受け取るとそっと唇を湿らせた。

 土方はそれを見つめすぎないようにすることに神経を尖らせた。の仕草のひとつひとつが胸をざわめかせる。気を取られて、困ってしまう。

 土方は煙草に火を着けて気持ちを落ち着かせた。

「すいませんでした」

 と、が口火を切った。

「何を謝ってんだよ?」
「勝手に書類を片付けたことです。触っちゃダメだって言われたのに、それで怒ってるんじゃないんですか?」
「そんなことじゃねぇよ」
「じゃぁ、何なんですか?」
「お前、そろそろ仕事に戻るか?」

 は驚いて目を丸くした。

「急にどうしたんですか?」
「昨日はよく寝れただろ」
「えぇ、おかげさまで」
「書類の片付けだのなんだの、手を動かしていた方がお前にとってはいいんじゃないかと思ったんだよ。どう思う?」
「それは、もちろん、やることあれば気が紛れるのでありがたいですけど……」
「なんだ、何か不満でもあるのか?」
「不満、というわけじゃないですが……」

 は口元に手を当てて考え込む。土方は煙草を吸いながらじっと待った。

「私が、銀さんの脱走を助けたって疑いは、まだ晴れていませんよね? なのに、私を自由にしていいんですか?」
「その件は、証拠不十分で不起訴になる」
「そうなんですか?」
「お前の口を割れなかった俺の責任だ。よく逃げ切ったな」
「そんな言い方……」
「事実だろ」
「つまり、私のこと、信じてくれたわけじゃないんですね」
「信じて欲しかったのか?」
「それは……!」

 は言葉につまって狼狽えた。言いたいことはあるのに、言葉になる前の感情が喉に引っかかって詰まっている、そんな風に見えた。
 きっと、土方を責める言葉を飲み込んでいるのだ。そうとしか思えなかった。

 は元々物静かな性格をしているし、誰かの悪口を言っているところは見たことがない。お人好しで、人を疑うことをしないのことだから、どんなに深い恨みを抱いている相手に対しても、とっさに悪態をつくことができないのだ。たった一度だけ、泣きながら罵られたことはある。けれどあれは土方がけしかけるようなことを言ったからだ。

 土方はと真正面から向き合うように立った。
 は少しだけひるんだようだったが、目は逸らさなかった。

「まだ、俺を恨んでるか?」
「……どうしてそんなこと聞くんですか?」
「お前が仕事に戻って、前と同じように働けるようになったら、それが一番いい。だが、俺を恨む気持ちが少しでも残っているなら、全く同じようにというわけにもいかねぇだろ」

 は悔しそうに唇を噛んで俯いた。

「その気持ちが、全くないと言えば、嘘になります。でも、だからと言って、私にはどうすることもできません。……正直に言って、かたき討ちをしたいと考えた瞬間もありましたけど、土方さんに向かっていって太刀打ちできるような腕は、私にはないんですから。そもそもその気があるなら、とっくに土方さんの寝首をかいてます」

 確かに、その通りだ。昨夜、土方はまるで気を失うように眠ってしまい、夢も見ずに熟睡してしまった。恨みを晴らしたいという気持ちがあるなら、千載一遇のチャンスだったはずだ。

 土方の首はまだ繋がっている。しかも、は土方の誘いに従ってのこのこと後を着いてきた。弱った体で、抵抗する気もないのだ。

「私は、土方さんを、許したいんです」

 の手が、着物の袖をぎゅっと掴む。

「土方さんが私のために、いろいろと手を尽くしてくれたこと、よく分かってます。睡眠時間を削ってまで、一緒にいてくれたことも分かってます。感謝してます。都合よく甘えさせてもらったと思ってます。本当です。でも、土方さんが銀さんにしたことを考えると、悔しくて、悲しくて……。どうしたらいいか分からなくなるんです」

 は、泣かなかった。絞り出すようにひと言ひと言、言葉を紡ぎながらも、決して涙は見せなかった。

 の声から、表情から、佇まいから、その言葉に嘘がないことが伝わってくる。この思いにどうやって答えるべきか、土方は必死に考えた。

「お前に、許してもらえるとは考えてなかった。そう思ってくれるだけで、ありがてぇよ」
「まだ許してませんけど」
「分かってる。それでいい。お前の気が済むようにしろよ。もし俺を殴りたいとか、斬りたいとか思うんなら、そうしていい。いつでも言ってこい」
「本気で言ってるんですか?」

 は疑わしそうな目をして言う。
 土方ははっきりと首を縦に振った。

「あぁ。もちろんだ」
「……それじゃ、その気になったらお願いします」

 土方は煙草の火を携帯灰皿で潰す。ついくせで、両手をズボンのポケットに仕舞い込みそうになったけれど、意識してその手を握りしめた。

 木立の影の中にいる。ほんの少し歩いただけで息切れしてしまうほど弱ってしまった。白く抜けるような肌、何もつけていない唇は色がなく、瞳だけが強い意志を宿して炎のように光ってる。

 理屈ではなく、計算でもなく、腹の底から抱きしめたいと思う。お前が好きだと叫びたくてたまらない。

 けれど、自分には誰かを愛する資格などないのだ。幕府の犬となり、浪人を斬り、人を騙す日々。この手は血と泥、陰謀で汚れている。そんな自分が、どうして人を愛することができるだろう。

「土方さん?」

 いつまでも黙り込んでいる土方に、が不安そうに言う。
 土方は両手の拳をぎゅっと握りしめた。

「仕事は、無理せずに少しずつ始めろよ。体も弱ってるんだし、慣れるまで慎重にな」
「はい、ありがとうございます」
「時間がかかってもいい。ゆっくり、前のように戻ればいい」
「……前のように、ですか?」

 ふと、の表情が陰る。土方は胸に迫るものを感じて、とっさに一歩後ずさった。それ以上後に引けなかったのは、が伸ばした手が土方の袖を捕らえたからだ。

「ひとつ、教えてください」
「……なんだ?」
「あの、土方さん、言いましたよね、私に、その……」

 は言いにくそうに口ごもる。けれど、土方にはが何を言おうとしているのか分かってしまった。

 土方はとっさに、の手を振り払った。

「すまん」

 は一瞬、ひどく傷ついた目をして土方を見た。その視線は土方の胸を刺し、本物の太刀で抉られたように痛む。

「いえ、私こそ。すいません。なんでもありません」
「……そろそろ戻ろう」

 は静かに俯いて、縋りつくようにペットボトルを握りしめた。














20200517