12
土方と
の夜の密会は、それから長く続いた。昼の仕事を終えた土方が、別の仕事を持って
の部屋を訪ねる。そして、眠れない夜を過ごす
と時折言葉を交わしながら、朝方まで黙々と事務仕事をこなす。
土方の睡眠時間は激減した。
は土方の体調を気遣って何度も断ったが、土方の決意は固く決して折れなかった。心も体も弱っている
が土方に敵うわけがなく、結果、
が押し負ける形になった。今では、
の部屋の一角に土方の仕事道具が積み上げられている。
この日も、土方は机に向かって書類を片付けながら、ときどき視線を上げて
の様子を見守っていた。
の調子は日によって変わった。なんとか土方を部屋に追い返そうとあの手この手で仕掛けてくることもあれば、頭が痛いと言って起き上がれないという日もある。睡眠薬を使って寝入ったかと思えば、悲鳴を上げて飛び起きることも珍しくなかった。土方はそのたび、夜泣きをする子供をあやすように
を慰めた。
今夜は比較的調子がいいらしく、
は隊服のボタン付けをしている。けれど、らしくもなく針を指に刺したりしていて、仕事はなかなか進まないようだ。
一方で土方も、今夜は思うように仕事が進まなかった。書類の文面が目の上をつるつると滑って逃げていくようで、ちっとも頭に入ってこない。最後にまとまった睡眠を取ったのはもうずいぶん前だ、疲れがたまっていた。
土方は大あくびを手のひらで隠そうとしたが、それは
がどんなにぼんやりしていても見つかってしまうくらい大きかった。
「お疲れみたいですね」
はかすかな笑みのような表情を浮かべて言った。
「んなわけあるか」
「じゃ、今のは?」
「これは、あれだ、奥歯になんか挟まっててな」
土方はあくびをして浮いた涙がこぼれないよう、上を向いて伸びをして誤魔化した。
「お茶でも入れましょうか?」
「茶ぐらい自分で淹れる」
「これぐらいはやらせてくださいな」
は弱った体で慎重に立ち上がると、一歩一歩を確かめる足取りで土間に下り、やかんに水を汲んで火にかける。ただそれだけのことをするにも息を切らすような有様だったが、日常的な動作は良いリハビリになる。
土方は仕事の手を休めて待った。
「どうぞ。少し濃いめに淹れたので、目が覚めますよ」
「ありがとうな」
湯気を立てる湯呑に口をつけると、きりりとした苦みが舌を刺激した。確かに少し濃いが、眠気覚ましにはちょうどいい。
は両手で持った湯呑にふーっと息を吹きかけ、熱を冷ましている。
「こんなに濃い茶なんか飲んだら、ますます眠れなくなるぞ?」
土方が言うと、
は小さく首を横に振った。
「いえ、私のは白湯です」
「なんだ、そうか」
「でも、今夜も眠れなさそうです」
「薬を飲めよ」
「飲みましたよ」
枕元に置かれた盆の上には、パッケージが破れた薬のケースが置いてあった。体に耐性ができたために薬の効き目が弱くなっているとは以前にも聞いていたが、どうやら本当にそうらしい。
は湯呑を置くと、膝を滑らせて土方のそばに体を寄せ、机の上に積み重なった書類の山を興味深そうにのぞき込んだ。
「大変そうですね」
「勝手に触るなよ」
は胸の高さに浮かせていた手を名残惜しそうにひっこめたが、その眼差しはどこか未練がましい。土方は注意深く
の意図を探った。
「大事な書類なら、きちんと整理したほうがいいと思います」
「できてるだろ、整理」
「そうは見えませんけど」
「俺が分かってりゃいいんだよ」
「でも、ここは私の部屋です」
言い返す言葉が見つからず、土方はぐっと黙り込んだ。
の部屋に仕事を持ち込むようになった当初は、その晩持ち込んだものは次の朝には引き上げるようにしていた。けれど時間がたつにつれて書類の量が増え、忙しさを理由に置きっぱなしにするようになってしまった。もちろん、
の目に触れても問題のない書類に限ってのことだが、部屋の一角、特に机の周りに関しては
のものより土方が持ち込んだものの方が多くなってしまっている。きちんと片付いた部屋の中、そこだけがいやに浮いて見えることは否めない。
「少し、片付けてもいいですか?」
「だめだ。片付けなら俺がやる」
「眠れなくて手持無沙汰なんです。手伝わせてください」
「ボタン付けでもやってろよ」
「ふたりでやれば早く終わりますよ」
「だめと言ったらだめだ」
はむっと口を尖らせて不満そうにしていたけれど、しぶしぶと元いた場所に戻って針を取り直した。
土方ももうひと口茶を味わってから、再び書類に視線を戻して筆を取る。もうひと踏ん張りして片を付けておきたいし、できれば早く終わらせて少しでも長く睡眠時間を確保したい。
ところが、そううまくはいかなかった。
瞬きをひとつしただけのつもりが、気が付けば朝が来ていた。
行燈の明かりは消え、代わりに太陽の白い光が雨戸の隙間から差している。雀のさえずりが耳をくすぐる。体を起こすと、寝起きの気だるさが全身を襲った。しょぼしょぼとして開ききらない目をこすって伸びをする。机の上を見ると、書類は書きかけで、墨を含んだ筆がそのままの形で固まっていた。
「……寝ちまったか」
無理もない、近頃はまとまった睡眠を取れていなかった。そろそろ限界だったのだ。
おかしな姿勢で眠ってしまったために凝り固まった肩をほぐし、改めて部屋を見やって、土方は息を飲んだ。
目の前で、
がすやすやと眠っていた。土方が持ち込んだ書類を積み上げて、それに腕を乗せてしなだれかかるような姿勢で、ずいぶん窮屈そうだった。よく見れば、積み上げた書類の並びが少し変わっている。土方が寝入ってしまった後に勝手に片付けたんだろう。
「ったく、余計なことするなよな」
土方はひとりごちてため息を吐いた。
の寝息は規則正しく穏やかだ。今夜はきっと悪い夢にうなされることなく眠れたのだろう。そう考えるとほっとする。
を起こさないように、目元にかかった前髪を指で払ってやる。長く外に出ていないせいで白さを増した肌が、目の下のくまを引き立たせる。血色の悪い唇、お世辞にも美しいとは言えない。けれどどうしようもなく惹きつけられて、縫い留められたように視線を逸らせなかった。桃色に透ける白い肌はどんな感触がするんだろう。温かいだろうか、それともひんやりと冷たいのだろうか。きっと陶器のようにすべすべの触り心地がするに違いない。
その時、土方ははっと我に返った。気が付けば、
の鼻先と土方の鼻先が触れ合いそうなほどそばにあった。細いまつ毛を目視して一本一本数えることができそうなほど近くだ。
慌てて体を起こして、ぎょっとする。
無意識とはいえ、今、自分は何をしようとした?
土方はやみくもに大事な書類を掴むと、
を起こさないよう細心の注意を払って素早く離れを出た。
「失礼します、土方さん。書類を受け取りに来ました……、って、どうかしたんですか?」
部屋に戻って書類を片付けていると、山崎がやってきた。緊張感のない物言いに腹が立ったが言い返す気力が沸かず、土方はため息混じりに答えた。
「何もねぇよ。朝からうるせぇな」
「こんなに爽やかな朝に浮かない顔してるからですよ。書類、ぐちゃぐちゃなんですけど、どうしたんです?」
それは、離れを出る時に取るものもとりあえず慌てていたせいだが、正直に言えるはずもない。土方は投げやりに答える。
「すまん、適当に伸ばしておいてくれ」
「本当、何があったんです?」
土方が山崎に謝ることは滅多にない。山崎は他の誰よりそれを実感しているから、その問いかけには実感がこもっていて切実だった。
瞼の裏に
の健やかな寝顔が蘇って、土方はごしごしと顔をこする。いくつもの夜を過ごして
の寝顔は見飽きるほど見てきたが、悪夢にうなされる苦しそうな顔か、頬を涙で濡らしているところばかりだった。あんなに無防備で穏やかな顔で眠っているところを見るのは初めてだったのだ。
それを見て、ほっと安心するのと同時に、薄汚いよこしまな感情が腹の底から湧き上がってきたことを土方は無視できなかった。それはまるで蛇のように腹から背中、そして頭の中までずるずると這い上がって、土方の感情をひどく乱す。
は自分の女だと、隊士達にも
にも思い込ませるため、できることはなんでもしてきた。けれどそれは全て、あたかもそう見えるように振舞っていただけのことで、本心ではない。
そのつもりだった。そのはずだった。
自分で作り出した幻が、生々しい実感をともなって目の前に現れてくる。これは嘘だ、自分が作り出した偽物だと言い聞かせても、考えれば考えるほど、それはみるみるはっきりとした形を作り、目を反らせないほど明らかな形で土方の目の前に立ち現れてくる。
それでもその現実受け止めきれず、土方はいやいやと激しく首を横に振った。
「本当、何なんですか? 具合でも悪いんです?」
山崎は書類に手を当ててアイロンをかけるようにし、皺を伸ばしながら言う。
土方はむしゃくしゃしていっそ怒鳴り散らして憂さを晴らしたいくらいだったが、口から出てきた言葉は自分で想像するよりずっと弱々しかった。
「うるせぇな、もうほっとけよ。それ持ってさっさと出て行け、休ませてくれ」
「言われなくても行きますけど、ろくに寝ないで無茶なことをするからそういうことになるんですよ。ちゃん休んでくださいね。それじゃこれ、お預かりして行きますけど、もう大事な書類をこんなにぐちゃぐちゃにしないでくださいよ」
「あぁ、もう、分かった分かった。分かったから、さっさと行け」
しっしと手を振って山崎を犬のように追いやった方は、畳に四肢を投げ出すように倒れた。混乱が混乱を極めて、目が回っていた。
20200515