その夜、土方は近藤とふたり、縁側で晩酌をしていた。空に丸い穴が開いたようにぽっかりと浮かぶ月が見事で、月見酒にはぴったりの夜だった。

「へぇ、そんな噂がなぁ」

 伸びた顎髭を撫でながら、近藤が神妙に言う。
 土方は口笛を吹くように煙草の煙を吐き出した。

「俺もはじめは、根も葉もない噂だと思ったんだがな、ひとりふたりが言ってるだけじゃねぇようなんだ。さすがに気になってな」

 は攘夷浪士の間者で、その罪を問われて屯所に監禁されているという噂のことである。は銀時の逃亡を助けた容疑での取り調べ中ということにはなっているが、それは世間には公表していない。このことを知っているのは、真選組や警察の関係者、それ以外には通いの医師の松本くらいだ。

「心当たりはあるのか?」

 近藤が言い、土方は苦い顔をして酒を舐めた。

「あまり考えたくないが、内部から情報が洩れてるのかもしれねぇ」
ちゃんがこういう状況だってことを誰かが漏らして、その噂に尾ひれが付いて膨れ上がったってことか」
「そう考えるのが自然だが、そんなことして誰が得するって言うんだ?」
「確かにな。仮にそれが事実だったとしても、既に真選組の手の中にある間者の利用価値は低いだろうし、何かのメッセージだろうか?」
が間者でないことは俺達が一番よく分かってるだろうが!」

 近藤が驚いて息を止めたのを見て、土方ははっとした。

「あぁ、悪い。つい……」

 手のひらで自分の頬を叩く。つい興奮して口がきつくなってしまった。近頃、のことを考えるとすぐに頭に血が上ってしまう。悪い傾向だ、冷静にならなければ。

 近藤は徳利を手に取ると、土方に酌をする。

「まぁ、すぐにどうこうなるような噂ではなさそうだし、様子を見るしかないんじゃないか? そういうことを言っている奴に会ったら、その都度訂正してよ。地道にやっていこうや」
「……そうだな」
「あまり思いつめるなよ、トシ」
「分かってるよ」
ちゃんが元気になるまでには、時間がかかるんだろう。俺も松本先生に聞いたから知ってる。長い付き合いになるんだから、そのつもりでもっと気楽に構えてもいいんじゃねぇか?」
「んなこと言ってもよぉ」

 土方はぐいと酒を煽って、吐き捨てた。

「松本んとこの助手に言われたんだよ。ちゃんと目を光らせておけって。なんでも睡眠薬を処方しているから飲ませ方に気をつけろとよ」
「なぁ、トシ。さすがにひとりで看病するのは厳しいんじゃないのか? ちゃんのためにも、誰か雇ったらどうだ?」
「雇う? そんな余裕がどこにあんだよ?」
「松平のとっつぁんも援助すると言ってくれてるんだよ」
「あのおっさん、なんでそこまで?」
「それは分からんが、俺はいい申し出だと思うぞ。トシも忙しいんだし、看護師のひとりでも来てもらえればずいぶん違うと思うがな」

 近藤の言う通り、土方ひとりではの看病は手に余る。仕事は日々増えていくばかりだし、常にそばについていてやることなど不可能だ。そろそろ、人の手を借りるべき時なのかもしれない。

「……少し、考えてみる」

 土方がそうつぶやいた時だった。

 夜の静寂を、女の悲鳴が切り裂いた。まるで、耳元を細い針で刺すようにかすかな悲鳴だったが、土方の胸をざわつかせるのには十分だった。

「おい、今のは何だ?」

 土方は険しい顔をして耳をそばだてる。

「え、何って、何がだ?」
「聞こえなかったのか?」
「いや、何も」

 近藤はそう言ったが、気のせいとも思えず、土方はとっさに立ち上がると刀を取って駆け出した。

「おい、トシ!?」

 近藤の声が背中から追いかけてきたけれど、無視する。胸騒ぎがした。



 離れに駆けつけると、様子がおかしいのは明らかだった。開いた戸口にふたりの見張りの隊士が頭を突っ込んで何やら声をかけている。その口調は険しい。

「おい、どうした?」

 息を切らせながら駆けつけると、隊士の橋本が不安そうに振り返った。

「あ、土方さん! 良かった! 今呼びに行こうかと思ってたところだったんです!」
「いいから、何があったか話せ」

 もうひとりの隊士、玉置が冷や汗を浮かべながら答えた。

「突然、悲鳴が聞こえたんです。声をかけても返事がなくて……」

 土方はふたりの肩を押しのけて部屋に入った。

 雨戸が開いていて、部屋に月明かりが差し込んでいる。は体を起こしていたが、髪は乱れ、肩が上下するほど息が荒い。額には汗の粒が浮いていて、まるで全力疾走した後のような有様だった。

「おい、どうした? 何があった?」

 土方は布団のすぐそばに膝をついて尋ねると、の手が、土方の腕にしがみついてきた。

「ご、ごめんなさい、あの、わたし……」
「落ち着け。大丈夫だ」

 土方の着物をぎゅっと握る手がぶるりと震え、土方は思わずを抱きしめた。細い肩を抱き、背中をさすってやる。ぴったりとくっつけた胸から早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。

 が落ち着くのを待つ間、土方は横目で部屋を観察した。

 枕元に置いてある水差しが倒れて割れていて、一緒に置いてある薬の服が水没している。開いた雨戸の向こうで、ミニトマトやシソが植わった鉢植えが倒れて割れ、土がこぼれていた。その土が外壁にこびりついている。

 もしかして、誰かが侵入したのだろうか?

「夢を……」

 と、腕の中でが囁いた。

「夢を、見たんです。怖い夢……」
「そうだったのか。どんな夢だ?」
「追いかけられて……、私、殺されそうになって……!」
「そうか」
「あの、刀が、私の首に……」
「分かった。もうしゃべるな。もう、分かったから……」

 必死にをなだめていると、縁側から近藤がこっそり顔をのぞかせた。そばには沖田もいる。ふたりは痛々しいほどに震えているを見やって、同情するように目を細めた。土方が視線で合図をすると、意図を察してそっと雨戸を閉めてくれた。

 暗闇に沈んだ部屋の中、土方はを抱きしめたままじっと息をひそめた。がこんな状態では、どんな小さな物音を立てても驚かせてしまいそうだった。

 いつの間にか、橋本と玉置も姿を消していた。ふたりきりだ。土方は、ついさっきまで酒を飲んでいたことを後悔した。吐く息があまり酒臭くないといいが、きっとそうもいくまい。

 の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのを体で感じながら、土方はじっと待った。

「……すいません、もう平気です」

 やがて、腕の中でが身じろぎをしながら言った。

 腕の力を緩めると、の顔がのぞき込めるほどすぐ近くにあった。涙の跡が光る頬と赤い目があまりにも痛々しくて、思わず手が伸びる。の頬は、涙で冷え切っていた。

「しばらく、一緒にいてやろうか?」

 は土方の手のひらの中で小さく首を横に振った。

「そんな、悪いです」
「平気だって」
「でも、お仕事もあるでしょうし」
「近藤さんと飲んでただけだ。気にすんな」
「でも」
「でも、俺じゃ不満か?」

 は、銀時を粛清した土方を恨んでいる。近頃はずいぶん穏やかに話ができるようになってきたけれど、その気持ちが消えたわけではないはずだ。恨みをもった相手にそばにいられて、居心地良く感じる人間はまずいるまい。

 もしかすると、それがの回復を妨げる要因になっているのではないか?

 土方は無力感に襲われて、心臓がつぶれそうに痛むのを感じずにはいられなかった。自分には救えないし、守れない。そんな資格もないのかもしれない。

 近藤の提案を受け入れて、他の誰かに看病を任せた方が真にのためになるのではないか。そんな気持ちがどんどん強くなって、苦しくて仕方がない。

 土方は静かに身を引こうとした。
 その時だ、の手が土方の胸元を掴んだ。

「そんなこと、ないです」

 は土方の襟元が皺になるほど強く握りしめると、おずおずと体を寄せてきた。土方は驚いたものの、腕が自然との腰に伸びた。

「不満なんて、ありません」
「……本当かよ?」

 土方の声に、不安が滲む。にはどれほど強く拒絶されたとしても文句は言えない。自分の犯したことの意味は十分理解している。許されるとも思っていない。

 けれど、胸元にしがみついてくるの手、いい匂いのする髪、腕の中にすっぽりを納まってしまうほど小さな体。悪夢に怯えて自分にすがってくるの存在を感じていると、自分のしでかしたことを全て棚に上げて溢れ出る熱い思いに溺れてしまいそうになる。

「一緒にいてくれませんか? 今夜だけでも」

 かすれる声でそう言うが愛おしくてしょうがなくて、土方はひと時何もかも忘れ、ぎゅっとを抱きしめた。

 の肌からは、かすかに甘くて柔らかい、素晴らしい匂いがした。













20200430