「土方さん。ちょっと気になることがあるんだけど、聞いてもらえるかい?」

 そう言ったのは、土方が行きつけの定食屋の女将だった。

 貴重な非番の一日はひとりで街をぶらつくのが、土方は好きだ。話題の映画を見たり、ぶらりと本屋を冷かしたり、風呂屋で汗を流すのもいい。そして、馴染みの店で美味い飯を食うのも楽しみのひとつだ。

この店は土方スペシャルと名付けた土方専用の丼飯を出してくれる数少ない店だ。夫婦で厨房に立つ大将と女将とも気が合うので、土方はこの店を気に入って、贔屓にしていた。

「なんだ? 何かあったのか?」

 丼を口の中にかき込みながら聞き返すと、女将は不安そうな顔で声を小さくした。

「いやね、私もお客さんから聞いた話なんだよ。けど、とても信じられなくてね。土方さんなら本当のこと知ってるはずだと思ってさ」
「おい、よさねぇか」
「だって、気になるじゃないか。私だって知らない間柄じゃないんだから」
「あんなもん、根も葉もねぇ噂だって言ってるだろうが」

 大将が低い声で女将を諫める。大将は普段から寡黙で、接客はほとんど女将に任せて黙々と鍋を振っているような男だ。これは珍しい。

「構いやしねぇよ。どんな噂だ?」

 女将はほっとした顔をすると、他の客が誰もこちらを気にしていないことを確認して、土方の方に額を寄せた。

「実は、さんの噂を聞いたんですよ」
の?」

 嫌な予感がした。

「……どんな噂だ?」
「それがね、さんは実は、攘夷党の一味で、間者として真選組に潜入してたんだって噂してる人がいるんですよ。近頃、街に姿を見せないのは、正体が露見して捕まってるからだって。もちろん、私は信じてませんよ? だけど、最近顔を見てないのは確かだから心配でね」

 土方は苦い顔で唇を噛んだ。同じ噂をついこの間も聞いたばかりだ。しかも、噂を聞いたという井村は複数の人間の口から聞いたのだと言う。女将も、わざわざこうして真相を問うてくるくらいだから、ちょっと小耳にはさんだ程度の噂話ではないのだろう。

「その話は、誰から聞いたんだ?」

 女将は考え込みながら答えた。

「そうですねぇ、出入りの業者さんとか、ご近所の雑貨屋さんとかお団子屋さんとか……。みんなさんが姿見せなくなったことを心配してるんだとは思うんですけどねぇ」
「そんなに大勢か」
「ねぇ、土方さん。こんなの嘘でしょ? あのさんがそんな悪い人間だなんて私はとても信じられませんよ」
「当たり前だ。あいつは今、ちょっと体調を崩しててな。休んでるんだ」
「まぁ、そうなんですか! 嫌だ、私ったら知らなかったとはいえひどいこと言っちまって……」
「いや、気にしないでくれ。元気になったら、ここに顔を出すように言っておく」
「お大事にって伝えてくださいね。元気な顔見せてくれるの待ってるって。ねぇ、あんた」

 水を向けられて、大将も土方に向かって頷いた。

 は土方が思うよりずっと、この町に深く根差して生きていたのだ。噂が立つのはそれだけのことを知っている人間が多いということで、善かれ悪しかれ、を気に留めている人間は多いのだろう。

 必ず見舞いの言葉を伝えることを約束して、土方は店を後にした。

 屯所に戻る道すがら、考えを巡らせる。
 が攘夷党の間者だと噂を流しているのは一体誰なんだろう。

 真選組に攘夷党の間者が隊士として潜入していたという事実はある。それを一掃するためにどれだけ苦労したか知れないし、大きな犠牲も払った。けれど、この問題に徹底的に取り組んだことで、組織として足場を固めることに成功したともいえる。真選組にとって、とても重大で重要な出来事だった。

 ただし、この件については公にはしていない。市民の不安をいたずらに煽る恐れがあったし、真選組の評判にも関わることだ。警察庁長官・松平片栗虎が力を尽くしてくれたおかげで、マスコミや幕府に対しては箝口令が敷かれた。それは、基本的にはしっかりと守られていると聞いている。

 それにしても、が攘夷党の間者だと吹聴して、誰が得をするというのか。必死に頭をひねっても分からなくて、考えるうちに土方はだんだんイライラしてきてしまった。

 は何もしていないし、何も知らないのだ。それは土方が誰よりもよく知っている。は何よりも自分の無力と無知を責めて気を病んだ。攘夷党の間者だなどと悪評を立てられる謂れがあるものか。

 むしゃくしゃした気分のまま、土方は屯所に戻った。

 その足で真っすぐ、の住まいの離れへ向かう。近頃は、日の上っている間は布団から起き上がれるようになっている。定食屋の女将の伝言を伝えておきたかった。

。邪魔するぞ」

 玄関の扉を開けると、土間に下駄が一足そろえて置いてあった。松本のところの助手が来ているのだろう。土方は声もかけずに障子を引いて、目を見張った。

「わっ、ちょっ……!」
「あぁ、土方さん! 勝手に入って来ないでください!」
「あぁ、悪い」

 すぐさま障子を閉じ、土方はその場で固まってしまう。今、自分は何を見たのか、とっさに脳の処理が追い付かなかった。

 の白い肌が見えた。ふたつの胸のふくらみと、あばらの浮いた薄い腹が見えた。細い肩から伸びる細い腕が胸元で十字を作り、土方の視線を遮る。とっさに障子を閉じたのは、助手の大声に反応したからではなく、の肌の眩しさに目を焼かれたからだ。

 冷静になって、考える。

 長く寝込んでいたは、きっと湯を使うこともままならなかったのだろう。松本医師の助手が大きなたらいを持っていたことがあったが、あれはの体を拭いて清めてやるために持ち込んでいたのか。

 と、助手が素早く部屋の中から出てきて、怖い顔をして土方を睨んだ。

「土方さん! 女性の部屋に入るのに声もかけないなんてどういうつもりです?」
「すまん。つい、な」
「つい、じゃありませんよ、もう。何の御用ですか?」
「いや、大した用じゃない。後でいい」
「それなら最初からそうしてくださいよ、もう」

 助手は下駄を履いて土間に下りると、土方の腕を取ってぐっと引いた。何かと思えば、顎をしゃくって外へと促される。のことが気がかりだったが、素っ裸を見てしまった直後に顔を合わせるのもなんとなく気まずくて、土方は素直に助手について外に出た。

「土方さんにお伝えしたいことがあります」
「なんだ?」

 助手は、険しい顔で声を潜めた。

さんのことですが、ご自分でお食事を取られるようになっていますし、回復は順調だと言えます。松本先生もそのようにお考えです」
「そうか、そりゃ良かった」
「それでですね。さんとお話していたら、夜、なかなか眠れないとおっしゃるので、先生にも相談して、睡眠薬を処方することにしたんです」
「睡眠薬?」
「そうです。眠れないときに一錠飲んでくださいと、伝えています。まぁ、眠れないなら眠れないで、本当はそれでもいいんですよ。本でも読んで気晴らしできればそれで。でも、さんの場合は、夜眠れずにいると嫌なことばかり思い出してしまってかえってそれがストレスになってるようなんです。なので、そのストレスを軽減するための処方です」
「それは分かったけどよ、なんでそれを俺に言う?」
「ここからが大事なところなんです!」

 助手は語気を強めて、ぐっと拳を握りしめた。

「睡眠薬は、大量に服用すると命に危険を及ぼすこともあります。もちろん、少量しかお渡ししていませんけれど、医者の目を盗んでこっそり薬をため込んで、大量服薬した例もあるんです」
「自殺を心配してるってことか?」
「心に問題を抱えている患者さんは、一見、元気になったように見えても、症状には波があるんです。さんは、一生懸命生きようとしていると思います。けど、辛いことを思い出さなくなったわけじゃないんです。急に気持ちが落ち込んで、思いもよらない行動を起こす可能性もあるんです」
「……そういうことか」
「土方さん。どうか、さんにできるだけ目をかけてあげてください。私もできるだけ来ますけれど、他の仕事もありますし。同じ屋根の下にいる土方さんに目を光らせておいてもらう必要があるんです。どうかお願いします」

 熱意のこもった言葉に胸を打たれて、土方は神妙な面持ちで頷いた。

「分かった。気を付けて見ておく」
「でも、土方さんひとりで抱え込まないでくださいね。こんなお願いしておいてなんですけれど、看病って本当に大変なんですよ。看病する側が倒れたりしないようにしてください」
「分かってるって」
「本当なら、女性の看護師を交代で呼びたいところですよ」
「なんでだよ、俺がやるって言ってんだろ」

 助手は腕を組んで憤然と息を吐くと、じろりと土方を睨みつけた。

「セクハラ覗き魔に看病されるのは誰だって嫌に決まってるでしょ」













20200423