土方は紙袋と風呂敷包みをぶら下げて、離れの扉を叩いた。

 を訪ねるのはこの日、二度目だ。一度目は午前中、松本医師の往診を傍らで見守らせてもらった。病状はかんばしくない。松本医師の質問に虚ろな目をしてうなずいたり首を振ったりしているを見て、今日は話をするのは無理だろうと土方は判断した。

 二度目の訪問は予定外のことだった。

 今日は山崎の運転する車で近藤とふたりで松平の屋敷に出向いたのだが、帰りしなにへの見舞いの品を持たされたのだ。ひとつは松平から、もうひとつは屋敷の使用人達からのものだった。元々松平の屋敷で下働きをしていたは、今でも彼らとよい友人関係を続けているらしい。

 山崎が運転するパトカーに乗り込もうとした土方の元に、慌てて駆けつけの容態を尋ねてきた女は、屋敷の台所を預かる女中頭だった。その勢いに飲まれて口ごもってしまった土方の手に、無理矢理風呂敷包みを押し付けて嵐のように去っていった。何を言っていたのかはとっさのことでよく分からなかったが、を心から心配していることだけは伝わった。

 できるだけ早く、このことを伝えてやりたかった。お前を心配している人間はこんなにいるぞ、と。

 小さな声だったが、返事があったので戸を引く。靴を脱いで上がり框に片足をかけるのと同時に、パリンッ、となにか物悲しい音がした。嫌な予感がして慌てて障子を引く。

 は布団の上に正座して、枕元の水差しを見下ろしてた。中途半端に持ち上げた手の先で、コップが真っ二つに割れている。

「どうした?」

 息せき切って尋ねた土方に、は疲れたため息を吐いて答えた。

「手を、滑らせただけです」
「怪我は?」

 手のひらに赤いものが滲んでいるのを、は手を握りこんで隠した。その仕草に強い拒絶の気配を感じ取って、土方はわずかに眉根を寄せた。

「見せてみろ」
「平気です。これくらい、舐めてれば治ります」
「絆創膏くらい貼っておけよ」
「自分でやります」
「いいから待ってろ」

 土方は部屋に上がり込むと、勝手知ったる仕草で棚の引き出しを開けて絆創膏を取ってきた。今朝、松本医師が診察中にカルテの端で指を切ってしまった時、がそこから絆創膏を取り出したのを覚えていた。

 は眉間に皺を寄せて、土方が枕元に膝をつくのを見ていた。

「手ぇ貸せよ」

 絆創膏の白いフィルムを剥がしながらそう言ったが、は握った拳を膝の上に置いたまま動かない。その手を掴もうとすると、さっと土方の手を躱して逆の手で拳をかばう。

 腹の底に火が付くようないら立ちを感じて、土方はつい声を荒げてしまった。

「お前、いい加減にしろよ。こんなことで意地張ったって仕方ねぇだろ。いいから手を貸せ」

 は土方の目も見ず、か細い声で悪態をついた。

「余計なお世話です。だいたい、日に何度も何なんですか? しかもこんな夜中に……」
「松平のとっつぁんと、屋敷の女中頭から預かってきたんだ。お前の見舞いだとよ」

 は土方が持ってきた紙袋と風呂敷をちらりと見やったが、興味がなさそうにすぐ目を反らした。

「そんなもの、どうでもいいです」
「どうでもいいって、お前な……」

 必死の形相で土方の後を追ってきた女中頭。あの強面にはまるで似つかわしくない不安そうな顔をしていた松平。土方の脳裏にふたりの顔が過った。がふたりとどれほど親密な関係を築いていたのかは想像することしかできないが、ふたりの様子を見ればそれを推し量るのは十分だった。

 は親しい人の優しさを無視したり、ないがしろにするような人間だっただろうか?

、よく聞け。これはな……」
「もういい加減にしてください!」

 突然、は大声で怒鳴った。傷ついた手を胸に抱えたまま体を前に折り、まるで膨らみすぎた風船が破裂してしまったような叫びだった。とっさに息を飲んだ土方に、は堰を切ったように怒鳴った。

「毎日毎日鬱陶しんです! 今日に至っては日に二度も、どういうつもりなんですか? しかも、こんな夜中に……! ここへむやみに近づいてはならないって曲中法度に定めたのは土方さんでしょう!?」
「……見舞いの品を持ってきただけだろうが」
「どうしてひとりにしておいてくれないんですか!? 私のことは放って置いてください!!」

 そう叫ぶと、は傷ついた手を抱きしめるように体を折って縮こまってしまった。細い肩が頼りなく震えている。土方はとっさに手を伸ばしたが、何となくためらってしまってそのまま拳を握った。

「手を見せろ。頼むから」
「放って置いてって言ってるの!!」

 悲痛な叫びが耳に痛い。慰めに肩を撫でてやることすら憚られるほど、はひどく打ちのめされている。望み通り、ひとりにしてやった方がいいのかもしれない。けれど、こんな状態のを放って腰を上げることはどうしてもできなかった。

「俺は、お前の話を聞きたいんだ」

 できるだけ優しく声をかけたつもりだったが、は髪を振り乱して怒鳴り返してきた。

「知ってることはもう全部話したって言ったでしょ!? もう、いや。毎日毎日同じことばっかり尋問されて……、うんざりよ!! これでもまだ疑うって言うんならもういっそのこと殺せばいいじゃない!! 病んだ女ひとりどうにかする方が簡単でしょ!? 」
「馬鹿なこと言うな。落ち着け」
「それしきの度胸もないの!? 鬼の副長が聞いて呆れるわ!! 土方さんの裏切り者!! 私は全部話したのに、どうして分かってくれなかったの!?」

 握りしめた拳から赤い花びらが散って枕の上に落ちた。ガラスで切ったところが思っていたより深いらしい。

「おい、頼むから落ち着けよ」

 土方はその手を取ってなんとかをなだめようとしたが、はむやみやたらにその手を振り回してその手を振り払う。その瞬間またパタパタッと赤い花びらが散った。の呼吸が荒くなる。また過呼吸を起こすようなことになってはいたたまれなくて、土方はぐっとこらえて、しばらくの間は手も出さず、声も出さなかった。

 は握った拳の間から赤い花びらをひらひらとこぼしながら、自力で何とか呼吸を整えた。絞り出すように言った初めの言葉は、か細くかすれていた。

「……帰ってください」
「手当したら帰る」

 そう言うとやっと、はしぶしぶ拳を開いて見せた。

 絆創膏一枚ではとても間に合わなくて、同じ引き出しからガーゼと包帯を出してくる。血を拭って消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻く。こういうことは得意ではないので少し歪んでしまったが、ガーゼがずれなければいいだろう。

 包帯を巻いた手のひらに、土方は握手をするように自分の手を滑り込ませて優しく握りしめる。は腕を引いて逃れようとしたが、土方は少しだけ力を込めてそれを止めた。わずかな力を込めるだけでそうできるくらい、の手は細く弱々しかった。

「知ってることは全部話したって言ったな。本当にそうか?」
「……何度もそう言ってるでしょう」
「俺はそうは思わない」
「何度も言わせないでください」
「お前は何でそう自分を責めるんだ?」

 何か言いかけた言葉が中に消えたように、は言葉を失う。
 土方は力を込めての手を握った。

「飯を食わねぇのも、過呼吸も、お前がお前を責めてるからだろう。前にも言ったが、そんな必要はひとつもないんだ。責めるなら俺を責めろ。怒れ、恨め。俺には何言ったっていいんだ。俺に全部言え」
「なんで土方さんに……」

 頼りなく細い声で、が言う。

 土方は兄を失ったことがある。腹違いの年の離れた兄で、親代りのようなものだった。家じゅうの誰もが妾の子である土方を煙たがる中、土方がただひとり心を許した大切な人だった。

 江戸へ上ってきて数ヶ月した頃にその報せを受けた時は、さすがに落ち込んだ。そんな時、武州からともに江戸へやってきた仲間達が隣に寄り添って土方を支えてくれたのだ。一緒の酒を飲み、馬鹿な話をして笑った。たったそれだけのことにどれほど救われたことだろう。

 けれどには、銀時だけが支えだった。銀時がいない今、誰がのそばにいてやれるだろう。

「俺の他に誰がいる?」

 は虚をつかれたような顔をして土方を見つめると、視線を落として土方と繋いだ手を見やった。その指先にわずかに力がこもる。そこに、雨粒がひとつ落ちた。の涙だった。

 その口から零れ落ちた言葉は、怒りを爆発させるような声とは打って変わって子どものように弱々しかった。

「どうして、銀さんを助けてくれなかったんですか? 私、言いましたよね。銀さんは悪い人じゃないって。どんな噂が流れようと、誤解しないでって」
「あぁ、聞いたな」

 ふたりで小料理屋で食事をした日のことだ。あの日は、耳にたこができるほど銀時は悪くないのだと繰り返し繰り返し訴えていた。せっかくふたりでうまい飯を食おうと思っていたのに、口を開けば銀時の話ばかりするに鼻っ柱を折られたような気がしたことをよく覚えている。腹が立ったし、悔しかった。

「それならどうして、あんなことをしたんですか? 土方さんに銀さんを助けて欲しかったんです。どうしてそれを分かってくれなかったんですか、どうして……」

 は嗚咽を漏らしながら言葉を紡ぐ。息が苦しそうだった。背中を丸めてあえぐを見下ろして、土方はぐっと唇を噛み締める。

「お前の言いたいことは分かってた。それとこの結果は何の関係もない。お前のせいじゃない」
「ならどうして銀さんは死んだの?」
「俺の判断だ」
「どうして、そんな酷いこと……。裏切り者……。どうして……」

 は手を振り上げて、土方の肩を叩いた。けれどその手には少しも力がこもっておらず、土方の肩を滑り落ちて布団の上に落ちた。

 土方はその細い指先を見下ろしながら、低い声で問いかけた。

。お前はどうしてそんなに自分を責める? ……あいつに惚れてたからか? そうなのか?」

 は涙を流しながらも、躊躇することなく首を横に振った。

「……土方さんが言ったんじゃありませんか。銀さんのことを、よく見ていろって」

 土方は目を見張った。

 確かにそう言った。ちゃんと覚えている。もうずいぶん前の出来事のような気がする。あの頃はまだ銀時の素行も法度に抵触するほどではなく、喧嘩もよくしたがなんとかうまくやっていた。に銀時をよく見ているように頼んだのは、銀時がひとり隠れて何をやっているにしろ、子どもの頃から親しいが銀時の歯止めになるのではないかと期待したからだ。

 ほんの小さな期待だった。それがこんなにもに重くのしかかっていたとは考えてもみなかった。

 声を上げて、崩れ落ちるように泣き伏したのかたわらで、土方は何も言えなかった。

 そういえばの涙を見るのは初めてだ、そんな今更なことが頭をよぎった。














20200316