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「土方さん、お疲れ様です。
さんの様子はどうですか?」
と、すれ違いざまに沖田が言った。
「相変わらずだ、寝込んでる」
と、土方が答える。
廊下をふたりで歩きながら、沖田は考え込むような顔をして天井を見やった。
「やっぱり、返り血着けて目の前に立つなんて真似、しない方がよかったんじゃありませんか? 御婦人には刺激強すぎでしょ」
「いや、あれくらいしないとあいつは納得しなかっただろう。見た目より気ぃ強いところあるしな」
「でもその結果、
さんは寝込んじまったわけでしょう。飯もまともに食わないと聞いちゃ、さすがに気が引けますよ」
「珍しいな、お前がひとの心配するなんて」
「そりゃそうですよ。
さんが倒れてから飯の味がすっかり変っちまいました。
さんが夜食に作っといてくれてたおむすびもなくなったし、カップ麺の買い置きもなし。そのうち飢え死にしちまいますよ」
「文句を言うな。通いで来てる家政婦だって勝手が分からんなかでやってくれてんだから」
「それにしても土方さん、毎日毎日飽きもせず
さんのところ通ってるんでしょう? よくやりますね。そう簡単に回復するわけでもないんですから、数日おきでも十分なんじゃ? ただでさえ忙しいんですから」
「あいつの体調がいつどうなるか分からんからな。それに毎日と言っても数十分のことだし、大した手間じゃねぇよ」
「そこまでして、
さんは俺の女だとアピールしたい、そういうことですか?」
土方は意表を突かれて足を止めた。
沖田は土方より二歩先で足を止めて振り返り、さも意外そうな顔をして言った。
「あれ、そうじゃないんですか?」
「……なんでそう思う?」
「だって、どうせ嘘なんでしょう?
さんと付き合ってるっていうのは。
さんに他の隊士を近づけない理由が欲しかったんだけなんじゃないですか?」
「何を根拠にそんなこと言いやがる?」
「根拠はありませんけど、どうせ他人の口から真実が漏れるのを恐れてのことでしょう。それに、俺は土方さんがひとりの女を幸せにできるような男だとは思ってませんから」
土方は苦い顔して煙草のフィルターを噛んだ。武州から江戸に出てくる直前の出来事を未だに根に持っている、沖田はそう言いたいのだろう。
「……お前な」
「自覚は土方さんにもあるでしょ」
沖田は土方の声を遮って言った。
「別に責めるつもりはありませんよ。土方さんのことだから何か考えがあってのことなんでしょう。そもそも、銀時さんのおかげで真選組に潜入していた間者を一掃できたようなものです。そういう意味では、銀時さんは尊い犠牲だったと思います。だとしたら、
さんが臥せっているのもその犠牲のひとつと言えないことでもないでしょう。ただ、銀時さんの脱走を
さんが助けたってことについては、疑っている人間もいます。証拠も確かではないですしね。まだ少数派ですけれど、あまり長く放置しておくのはいい策ではないと思います」
「だからと言って、本当の理由を公にするわけにはいかねぇ」
「それは分かってます。でも、
さんだけには話してもいいんじゃないですか?」
土方はむっと唇を引き結んで首を横に振った。
「飯も食えねぇほどひどく病んでるんでしょう? 真実を知った方が
さんは回復すると思いますけれど」
「俺はそうは思わん。銀時の犠牲に胸を痛めて
は病んでるんだ。それがどんな理由であれ、変わらんだろう」
「また、それですか」
沖田は肩を落としてため息をつき、やれやれと首を振る。そして、鋭い眼差しで土方を睨んだ。土方に対する軽蔑を絵に描いたような視線だった。
「あんたはいつもそうですね。本心を隠してわざとひとを傷つけて、それで表情ひとつ変えない。鬼の副長とはよく言ったもんですよね、人の心が分からない鬼だ、あんたは」
「おい、総悟……!」
「またあんたのせいで女がひとり不幸になると思うと、
さんが哀れです」
捨て台詞を吐いて、沖田は足早に去っていった。
その日、仕事がひと段落ついた頃にはとっぷりと日が暮れていた。夜中に女ひとりで寝ているところ尋ねるのはいささか気が引けたが、日に一度はちゃんと様子を見ておきたかった。
夜勤の隊士に声をかけてから戸口の前に立つ。ノックをしてしばらく待ったが返答はなかった。もう眠ってしまったのなら意味もない。土方が諦めて引き返そうとしたその時、何か耳障りな音が鼓膜を撫ぜた気がした。
耳を澄ませる。風の音にも似ているが、生垣の葉や枝はそよとも揺れていない。なんの音だろう。
ふと思い至って、土方はとっさに戸口に手をかけた。音を立ててガラス戸を引けば、風の音は障子の向こうから聞こえてきた。蹴とばすように靴を脱いで部屋に上がり、勢いよく両手で障子を開くと、
が布団の中で体をくの字に曲げ、ヒューヒューと喉を鳴らして喘いでいた。
「おい、どうした!?」
とっさに枕元に駆け寄る。おそらく、過呼吸だ。血液中の酸素と二酸化炭素のバランスが崩れて酸素過多になっている状態を言う。体の中に酸素は十分足りているからいくら呼吸をしても息が入っていかないのだ。
は体調を崩してからたびたび過呼吸を起こすことがあると、土方は松本医師から聞いていた。
「落ち着いて、ゆっくり息を吐け。大丈夫だ」
土方は
の背中をさすってやりながら言う。ところが
の激しい呼吸は治らない。それどころかますます苦しそうに顔を歪め、今にも失神しそうだ。
土方は枕元に置いてあった紙袋を掴むと、
の体を仰向けに転がし、その口を紙袋で塞いだ。酸素過多になっている状態だから、自分が吐いた二酸化炭素を吸えば発作はおさまる。紙袋を口に当てると窒息の危険もあるのであまりいいやり方ではないが、こうなっては仕方がない。
ところが
は、紙袋を抑えている土方の手を邪魔そうに掴むと、体をよじって抵抗した。息が苦しいのかと思って手の力を緩めたら、顔を横に振って逃れようとする。
「おい、暴れるな! じっとしてろ!」
土方は暴れる
の手を掴んだが、片手に紙袋を持ったままでは歯がゆいほどうまくいかなかった。病人だと思えば手加減せざるを得ず、あまり乱暴な手も使えない。
土方はとっさに紙袋を放り出して
の体に馬乗りになると、膝で骨盤を挟み、両腕を掴んで布団に縫い止め、自分の口で
の口を塞いだ。血液中の二酸化炭素濃度を上げるには、吸うよりも吐く息を増やさねばならない。
が窒息しないように気をつけながら、土方はその口で注意深く呼吸を誘導する。暴れる
をひとりで押さえ込みながらではこうするしかなかった。
しばらくそうして、やっと呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、土方は
の上から体を退けた。土方は呼吸を整えながら濡れた口元を拭うと、呆れた口調で声を荒げた。
「どういうつもりだ?」
疲れてしまったのか、
は天井を仰いだままぐったりと倒れている。明らかに、過呼吸に対処しようとしていなかった。土方の助けも求めず、それどころかその手を払いのけようとした。過呼吸で人は死なない。しかも、
は満足に食事をとっていない。自分の体をないがしろにしている。自分で自分を苦しめ、罰でも与えているつもりなのではないか? 土方にはそうとしか思えなかった。
虚ろな目をして天井を見上げている
の顔を、土方は真上から覗き込んだ。
「自分のせいだとでも思ってんのか?」
は答えなかったが、首を横に倒して土方から目を背けた。土方はその顎を掴んで上を向かせると、声を大きくして怒鳴った。
「銀時が死んだのはお前のせいじゃない! お前には何の責任もないんだ! こんなことをして自分を責めるのはやめろ!」
「土方さんに何が分かるんです?」
は不明瞭な口調で言う。ぐったりと倒れ込んで体の自由はままならないが、その瞳の光だけは強かった。
「助けたかったの、力になりたかったの、でも何もできなかった」
「そんなことはない」
「うそよ」
「落ち着け、お前は混乱してるんだ。何にも考えないで休め」
起き上がろうとした
を、土方は腕の力だけで布団に押し戻す。
は自分の非力さに絶望したような、心底悔しそうな目をしてじっと、天井睨んでいた。まるでそこに銀時の仇が身を潜めているとでも言わんばかりの強い眼差しだった。
土方はなだめるように
の肩を叩いた。
「銀時を粛清したのは俺だ。恨むなら自分じゃなく、俺を恨めよ。それが道理ってもんだろう」
20200225