第一部17話の後のおはなしです
















 真夜中の屯所、しんと静まり返った医務室に忍び込んできたのは、真選組副長、坂田銀時だった。

 制服は薄汚れて、乱れていて、はぁはぁ、と肩で息をしている。足取りはしっかりしているが、腰から抜いた刀を診察台の上に放り投げる仕草はひどく投げやりで、くたくたにくたびれた体を引きずってなんとかここまでたどり着いたことは、明らかだった。

 銀時が屯所に戻ったことに気づいている者はひとりもいない。銀時は、ひとりだった。

 むしり取るようにスカーフを取り、上着とベストを脱ぐと、左腕の袖が真っ赤に染まっていた。今夜、浪士を相手にひと暴れして負った傷だ。応急処置に、肩の近くを手拭いできつく縛り上げて止血してある。

「……縫わねぇとだめかな?」

 銀時は傷口を見下ろしながらひとり言を言った。この暗闇では傷がどうなっているのかちっとも分からない。けれど、灯りをつければ誰かに気づかれてしまうかもしれないし、そうなればどうしてこんな傷を負ったのかを説明しなければならず、それだけはなんとしても避けねばならなかった。

 誰に斬られたのか、決して知られてはならない。明日の朝には平気な顔をして食堂で飯を食い、適当に稽古をこなして、つまらない会議で居眠りをして、何事もなかったように振舞うのだ。斬られて裂けた隊服はこっそり捨ててしまおう。どこかで脱いでそのまま忘れてきてしまったと言えば、土方の小言を食らってそれでしまいだ。

 じんじんという痛みに耐えながら、銀時は薬品棚から消毒液を探し出す。脱脂綿と包帯、鋏、ピンセット、目についたものを手当たり次第に診察台の上に放り投げていく。

 と、その時だ。足音がふたつ、こちらに近づいてくる気配を感じた。銀時はとっさに診察台の上のものを全て抱え込み、その下にしゃがみこんだ。

「……っと、やせ我慢してたんですか?」
「これくらい平気だって言ってんだろうが」
「痛くて眠れなかったくせに、どの口が言うんですか」

 腹を抱えて前かがみになりながら医務室に入ってきたのは土方で、後をついてきたのはだ。土方は隊服姿で、こんな夜中まで働いていたらしい。まったく、仕事熱心なことだ。

 嫌味を言ってやりたかったが、ここで銀時がのこのこと姿を見せでもしたら、その傷はどうしたんだとか、誰にどこでやられたんだとか、単独行動もたいがいにしろよ大体てめぇはいつもそう、と長い小言が始まってしまうに決まっている。

 銀時は物音を立てないよう、診察台の足に背中をもたれてじっと息をひそめた。

「座っててください。湿布を出しますから」

 と言って、が草履をぱたぱたいわせながら、診察台の方に近づいてくる。ほんの少し体を傾ければ、腕を真っ赤に染めた銀時に気づいてしまう、それほど近い距離だ。

 息を殺して身をひそめる銀時の技術が卓越していたのか、それともの気が回らなかったせいか、運よく銀時は見つからずに済んだ。

「何をしてるんですか?」
「座ってろって言ったのはお前だろ」

 土方の声に、ギシッという耳障りな音がかぶさった。パイプベッドのスプリングの軋みだ。

 はため息に乗せて言う。

「椅子があるでしょう」
「どっちでも同じだろ。なんでもいいから、やるならさっさとやってくれ」

 銀時は嫌な予感がして目元を険しくした。真夜中の医務室、男女がふたり、灯りもつていない。傷の手当てをしに来ただけならともかく、わざわざいかがわしい言い方をして、なんのつもりだ。

 ふと、薬品棚のガラス戸が目に入り、銀時はどきりとした。どういう光の加減なのか、ガラス戸にちょうど、パイプベッドの縁に腰掛けている土方の姿が映り込んでいた。その目の前に湿布を持ったが立つ。まるで、ふたりが主役の映画の上映会が、銀時のためだけにはじまってしまったようだった。

 土方はベストのボタンをはずし、シャツの前をくつろげ、裸の胸を露わにする。毎日の鍛錬の成果がよく表れている厚い胸板に、のっぺりと白い湿布が張り付いていた。湿布を剥がすと、は嫌味っぽく言った。

「腐った桃みたいな色になってますね」

 土方は愉快そうに笑った。そんな風に笑う土方を見るのは、銀時は初めてだった。

「妙な例え方するな」
「そうですか?」
「ただの内出血だろ」
「そう見えるんですもの」
「おかしな奴」
「放っておいてください」

 ふたりの会話を聞きながら、銀時は険しい顔でガラス戸を睨んだ。ふたりの声は夜闇をはばかってとても小さく、ほとんど吐息だけで会話していた。それがなんとも言えず甘い雰囲気をかもし出していて、聞いているだけで背中がかゆくなってくる。

 が土方の胸に手を触れている。それを見下ろす土方のまなざしは、攘夷浪士のみならず隊士達からも鬼と恐れられる土方とは、まるで別人だった。

 は、淡々と手を動かしていて、土方の態度には気を留めていないようだ。あの熱いまなざしに気づいていないのだろか。いや、むしろ気づいているからこそ、ただひたすら手を動かすことに集中しようとしているんだろうか。

「まだ痛みますか? 眠れないくらいなら、痛み止めの薬、出しましょうか?」

 そう言うの手を、土方の手が捕らえた。

「ちょっと座れよ」
「……なんですか?」

 土方はぐいとの腕を引き、無理矢理自分の隣に座らせた。パイプベッドが大きく軋む音が、銀時の胸の奥をぎりぎりとひっかく。
「あの、痛み止めは?」
「いらねぇ」

 土方がの体を寄せる。銀時はほんの少し体を前のめりにして、ガラス戸に映るの表情に目を凝らした。



 名前を呼ぶ土方の声。低く、重く、わずかにかすれる語尾。

 銀時は鳥肌を立てながら、背中からぞくぞくと這い上がってくる冷たいものに、危うく声を上げそうになる。今すぐここから離れたい、あんな気色の悪い声の届かない場所へ逃げたい。けれどここは八方塞がりで、逃げ道はどこにもなかった。

「土方さん、だめです、こんなところで」

 の小さな声は、上擦ってかすれていた。
「なんで?」

   銀時は口を大きく開けて舌を出し、おえええと吐く真似をする。それくらいしないではとても耐えられなかった。

「だって、誰か来ちゃうかも」
「今何時だと思ってんだよ」
「でも、だめです。こんなこと良くないです」
「だから何が」
「だめなものは、だめです」
「つまり、いやではないってことだな」
「それは……」

 と、土方はの顎を取って有無を言わさず口付けた。は体を強張らせ、腕を突っ張って抵抗したが、手負いとはいえ土方の力には敵うはずもない。

 銀時は腰を浮かしかけたが、背後から何かに引っ張られるような引っ掛かり覚えて、思わず足を止めた。

 今、ふたりの前に姿を現して、ここに隠れていた理由をなんと説明をする? 人には言えない罪を犯して手傷を負ったから、自ら手当てをしようとしていた。そんなこと言えるわけがない。

 銀時は何かに操られるように、よろよろと元の場所に座り込んでしまった。土方に無理矢理襲われているを助けるより、保身をはかったのだ。

 銀時はきつく唇を噛み締めて、ガラス戸を睨む。

 土方がの体にのしかかっている。は息苦しそうな声を上げながら、土方の背中に腕を回してじたばたともがいている。今、どんな思いでいるんだろう。声が出せるなら、叫び出したいだろうか。悲鳴を上げたいだろうか。銀時はガラス戸から目を離せなかった。瞬きをする間も惜しかった。もしもが助けを求めてきた時、何か小さなサインを出した時、見逃したではすまされない。

 を助けたい。けれど、診察台の下で身動きひとつできない臆病者の自分。助けてと、が自分を呼ばないから、ただそれだけを免罪符のように胸に抱いて、ただ見ているだけの自分。全てを見ていたと知ったら、きっとは傷つくだろう。そうと分かっていても目を反らせない自分。

――一体、俺は何をしてるんだ。

 銀時の見つめる目の前で、土方とはいつまでもくっついていた。唇と唇が触れ合う時の、尖ったような水音。土方の隊服との着物の衣擦れ、少しずつ早く、激しくなる呼吸。ときどき、思い出したように互いの名前を呼ぶ声。ベッドの軋み。

「だめ」

 は言う。けれど、その言葉とは裏腹に、声の響きは甘く、すがりつくようだった。土方の袖を掴んだ手は、それを引き離そうともがくのではなく、墜落を恐れて必死にしがみついているようだった。

 ふたりの体が複雑に絡み合う。いつの間にか、互いを求め合っている。初めは確かに、は嫌がっていたはずだった。抵抗していた。だめ、と何度も訴えて土方の腕から逃げようともがいていた。今はもう、ふたりの体の境目も分からない。境界線が闇に溶けて滲んでいく。

 の甘くつややかな声が、医務室全体に波紋のように広がった。

 これ以上、見てはいけない。

 銀時はとっさにそう思って、汚れた隊服からボタンをひとつ引きちぎる。そして、入口のドアに向かって投げつけた。小さなボタンが医務室の床に転がる音は、土方とにとっては地球に隕石が落ちてきたのにも等しかった。

「誰かいるのか?」

 土方が腹から声を出す。は土方の胸にうずめるように顔を伏せている。

 土方はベッドにを残して立ち上がると、入口の扉を開けてそっと外を見回した。無論、そこに人影はない。土方は不審そうに扉を閉じ、を振り返る。は目を伏せたまま、胸元を正していた。

 土方はのそばに立つと、繊細なガラス細工に触れるようにの肩に手を置いた。

「謝らねぇからな」
「……」
「湿布、助かった。ありがとうな」
「……いいえ」
「おやすみ」
「……おやすみなさい」

 土方は、それはそれは名残惜しそうに、もったいつけながらゆっくりと医務室を出ていった。その足音が聞こえなくなるまで、どれくらい時間がかかっただろう。完全な静寂が訪れるまではベッドの上で身じろぎひとつしなかった。

 土方を追わないのだろうか。銀時はそれを期待した。そうすればやっとひとりになれる。傷を消毒して、汚してしまった隊服を処分して、やらなければならないことがたくさんある。

 早く、出て行ってくれ。自分の部屋に戻るのでも、土方の後を追うのでもいい。どうか、早く。

 やがては重い体を引きずるように立ち上がると、ベッドの皺を丁寧に伸ばし、湿布の残りを束ねて薬品棚に片付ける。そしてそのまま入口の方につま先を向けた。それを見てほっとした銀時は、油断した。少し身じろぎをした拍子に、腕に抱いていた刀がゆらりと傾き、追いかける銀時の手をするりと逃れて垂直に倒れていく。

――ガシャン!!

 小さなボタンが隕石の落下なら、刀の転倒はビッグバンだ。

 悲鳴も上げられないほど驚いたらしいは、肩を強張らせて振り返る。

 診察台の下から顔をのぞかせ、中途半端に手を伸ばした銀時は、どんな顔をすればいいか分からず、苦し紛れにへらりと笑った。

「……よ、よぉ」
「銀さん? なんでここに? いつから?」

 は目を丸くして、両手で口元を覆った。

「……見てたの?」
「まぁな、悪気はなかったんだが……」

 の顔を見て、銀時は申し訳なさで胸がいっぱいになってしまった。ショックを絵に描いたような顔だった。の身の回りだけ時間が止まってしまったように身動きをせず、すっかり固まってしまっている。

「おーい、ちゃーん?」

 銀時はそろそろと起き上がりながら、ひらひらと手を振ってみた。がはっと息を吹き返したのは、銀時の左腕の赤さに眼を奪われたからだ。

「それ、どうしたの? 怪我?」
「あぁ、まぁな、大したことねぇよ、気にすんな」
「冗談よして、見せて」
「平気だって」
「よくない」

 は銀時を引っ張っていって、診察台に座らせる。床に散らばっている消毒液や包帯を見つけると、ほとほと呆れた顔をしてため息をつく。何か言いたいことがたくさんありそうだったが、黙ってそれらを拾い上げて銀時の傍らに並べた。

「どうしてこんな怪我したの? 誰にやられたの?」

 ほら、きた。
 銀時は自嘲して視線を逸らした。

「何でもねぇよ」
「何でもないなら、そんな、こそこそする必要ないじゃない」
「それは」
「どうせまたやましいことしでかしたんでしょ。ちゃんと報告しないとまた怒られるわよ」

 銀時はむっと口をつぐんで黙り込む。まるで口うるさい母親のような物言いだ、それに付き合って口答えをするのも馬鹿らしい。

 は無理矢理、銀時のシャツを脱がせて上半身を裸にすると、傷口をのぞきこんで険しい顔をした。消毒液を含ませた脱脂綿で傷口を抑えられるとびりびりと染みて、銀時は思わず苦い顔になる。

「我慢して」

 は冷たい声で言う。

「何も言ってねぇだろうが」
「痛いって、顔が言ってるわ」
「言ってねぇ」

 は黙々と手を動かし続けた。どうやら縫う必要はなさそうだが、傷口は思っていたより大きい。ガーゼをちょうどよく当てるのに苦労している。

 銀時は横目でを盗み見た。集中してきゅっと固く引き結んでいる唇は、ほんのついさっきまで土方の唇に犯されてとろとろに溶け切っていた。の唇を、頬を、耳を、首筋を、ほんのついさっきまで土方の唇がなめくじのように這っていた、無意識にその痕跡を探してしまう。

「楽しんでたのに、水差しちまったな」

 つい口をついて出た言葉に、銀時自身はっとした。をあんなに驚かせておいてわざわざ蒸し返すのは意地が悪いのではないか。けれど、一度口から出てしまったものはもう取り戻せない。

 恐るおそる視線を上げて、銀時はぎょっとした。

「お前、何泣いてんだよ?」
「泣いてない!」

 は声を大きくしたが、それが強がりだということは明らかだった。目にたまった涙がこぼれないよう目を見開いて平静を装っているつもりのようだが、ゆでた蛸のように顔が真っ赤だった。

「……初体験でもあるまいし、そんな顔すんなよな」

 銀時は吐き捨てるように言うと、は乱暴な手つきで包帯を手に取り、ぐるぐると銀時の腕に巻き付けた。

「放っておいて。銀さんに関係ない」
「俺のことは放っておかなかったくせによく言うぜ」
「私のことと、銀さんの怪我は違うでしょ」

 傷口がぎゅっと強く圧迫され、銀時は傷みにうなりをあげる。がわざと包帯を強く縛り上げたのだ。視線を上げると、は涙のたまった瞳で銀時をきつく睨みつけていた。

「それ以上言うなら、このこと近藤さんに言うわよ。今夜どこで何をしてこんな怪我したのか、知られたら困るんでしょう」
「それはお互い様だろ」
「告げ口する気?」

 そんなことをしたら、銀時の怪我の理由も一緒に問いただされるに決まっている。今夜のことは、痛み分けだ。銀時は脅すように舌打ちをしての腕を振り払い、白い蛇のように腕に巻き付いている包帯の残りを自分で巻いた。

 全く、嫌になる。手傷を負ったことは誰にも知られたくなかったのに、尻拭いをに手伝わせてしまった。は口うるさくて鬱陶しいし、傷は痛むし、踏んだり蹴ったりだ。

 は消毒液と血で汚れた脱脂綿やガーゼをひとまとめにして片付けながら、銀時に背を向けてこっそり目元を拭った。

 あれは、なんの涙なんだろう。

 まるではじめて口付けの味を知った小娘のような態度が、銀時は不可解だった。一部始終を見られたことがよほど恥ずかしかったのだろうか。それとも、後悔しているのだろうか。はじめのうちは抵抗していたが、後半はただ土方にされるがまま、快楽に身を任せていた。楽しんでいたのではないのか? もし銀時が近くにいると知っていたのなら、あぁいう流れにはならなかったんだろうか?

 の背中が、ひどく寂し気に見えた。

。最後、結んでくれ」

 銀時はの背中に向かって言う。
 はひと呼吸の間をおいて銀時のそばに立つと、残り短くなった包帯の端を丁寧に結んだ。

 銀時はの指先を見下ろしながら、声をひそめる。

「なぁ。あいつのキス、どんなだった?」

 は赤い目をして、きつく銀時を睨んだ。

「最低」
「何が?」
「失礼すぎる。下品なところがあるのは知ってたけど、いくらなんでもひどい」
「大したことじゃないだろ。それとも何? この程度の猥談もできないほどお前って初心だったっけ?」
「私のこと、そういう目で見てたね」
「そうだって言ったら?」
「がっかりよ」

 キュッと、音を立てて包帯が締まる。は銀時から目を反らさず、重ねて強く吐き捨てた。

「本当に、がっかりよ」

 離れていこうとするの手を、銀時はとっさに強く握る。

「離して」
「まだ答え聞いてねぇし」
「なんで答えなきゃならないのよ」
「気になるんだよ。教えろって」
「なんなの、もう、馬鹿じゃないの」

 は腕を振り上げてなんとか逃れようとするが、笑えるほど弱々しい。銀時はの膝の裏に足を引っかけて動きを封じ、あおるようにを見上げてにやりとしてみせた。

「やっぱり、煙草の味がした?」

 の顔が、銀時の目の前でみるみる歪んだ。堪えたはずの涙が盛り上がり、意志の力でなんとか抑え込もうとしているようだが、派手に転んで両手両足をすりむいた子どものような顔になってしまう。

「ひとの気も知らないで……」

 そう言ったの口元から、かすかに苦い煙草の匂いが香った。

 銀時はの手を握り直す。の手は冷たく、かすかに震えている。

「良かった? 良くなかった? どっち?」
「本当にしつこいわよ」
「お前が往生際悪いんだろ」
「そんなに知りたいなら自分でしてもらえば?」
「気色の悪いこというなよ」

 笑い声と喘ぎ声の混ざったような声を出しながら、とうとうは涙をこぼした。真珠のように大粒の涙は銀時の頬に落ち、顎を伝って首筋に流れる。は銀時の肩口に額を押し付けるようにもたれかかってくる。銀時は腕の痛みを無視してその体を受け止めた。

「なんだよ? あいつ、そんなに下手糞だったのかよ?」

 銀時はの背中を撫でてやりながら茶化したが、は少しも笑わなかった。

 銀時の裸の肩に温かい涙がぽたぽたと落ちる感触がする。まるで肩に小さな雨雲がかかったようだ。震えるの体を優しく撫でて慰めてやりながら、銀時はじっと雨が止むのを待った。

 がようやく口を開いた頃には、銀時の腕はわずかにしびれていた。

「銀さんの、馬鹿。人でなし。最低。くず」
「おいおい、ずいぶんひどい言いようじゃないの。人が誠心誠意、慰めてやってんのによ」
「どこが、ただの嫌がらせじゃない」
「んなつもりじゃねぇんだけどな」

 銀時はの背中をぽんぽんと叩いてやりながら、だんだん感覚がなくなってきた腕に意識を向けた。

 この腕はいつも、ただ人を傷つけるばかりだ。
 何ひとつ救ってやれない。
 を慰めてやることもできない。
 無力なただの棒切れ。

 銀時は、の口から、土方を肯定する言葉を聞きたかった。そう言ってくれれば、あの瞬間、を助けなかったことは正しいことになる。無理矢理にでもの許しを得て、自分の行動を正当化したいのだ。

 最低のくずで、馬鹿で、人でなし。
 の言うことは、正しい。

「なぁ、

 銀時は腕を緩めての顔をのぞき込む。涙でぐしゃぐしゃの顔をつくろおうともせず、は真っ赤な目で銀時を睨んだ。

 銀時は力なく自嘲する。こんな顔で自分を睨んでいる相手の許しを請うなど、無謀で馬鹿な願いだ。それが叶わないのならいっそのこと、の身も心もずたずたにして、とことん嫌われてしまう方がよっぽど簡単だ。そうしようと思った。

「お前さ、ついさっきまで土方とあんなことしてたくせに、他の男とすぐこんなことしてさ。それでよく純情気取れるよな」

 の瞳が傷ついたように歪む。涙は流れなかった。ただじっと銀時の瞳を見つめたまま、茫然として薄く唇を開いている。煙草の匂いはもうしない。

「どうしてそんなひどいこと言うの?」
「誰でも言うだろ。この状況見たら」
「そうやって私をからかうの、楽しい?」
「楽しいも何も、思ったことを言ってるだけだ」
「ねぇ、銀さん」

 の手が銀時の方に伸び、の涙でびしょ濡れになった肩を手のひらが拭う。少しでも力を込めたら割れてしまう薄いガラス細工を扱うような、その手つき。体中傷だらけの屈強な男の体に触れるには、あまりにも優しすぎる。

「全部、見ていたんなら、何か感じなかったの?」
「何かってなんだよ?」
「例えば、嫉妬とか」
「何を馬鹿なこと言ってやがる」
「土方さんに嫉妬してるから、そんな意地悪なことばっかり言うのよ」
「うぬぼれんなよ。何様のつもりだ」
「銀さんは、私のこと女として見たこと、一度もないの?」

 銀時は卑屈に、嘲るように笑った。

「あるって言ったら、どうするつもりだ?」
「どうって?」
「土方に抱かれたのと同じ場所で、俺に抱かれたいっていうのか? 本当に、とんだ淫乱だな、お前」
「……銀さん」
「お前がそんなこと言う奴だとは思わなかった。真面目で清純そうな顔して、本性はとんでもねぇあばずれ女だったんだな」

 の顔から、表情がなくなった。その瞳は底のない穴が空いたように暗く影を落とし、涙も出ない。人形のように顔色をなくす。

「ごめんなさい」

 と、こぼした声は、そよ風よりも小さかった。

「自分でも、よく分からないの。ただ、うしろめたくて。土方さんがあぁ言ってくれるたびに、銀さんにうしろめたい。銀さんとふたりでいると、土方さんにうしろめたい。ちゃんと拒めない自分が許せない」

「銀さんの言うとおりよ。私は、とんでもないあばずれ。銀さんに何を言われてもしょうがないって分かってる」
「なぁ、もし俺がここにいるって分かってたら、お前、助けて欲しかった?」
「……」

 は深くうつむく。前髪が影を作って顔が見えない。

 が何か言うまで待つべきだった。分かっていた。けれど、どうしても沈黙が耳に痛い。小さな針で何度も何度も肌を刺されるように痛い。それがいつまで続くか分からないだなんて恐ろしすぎる。自分から聞いておいて、の答えを聞きたくない。

 銀時は早々に根を上げた。

 とっさに身を乗り出して、の顔に唇を寄せる。はそれを避けようとしたが、銀時はの尻を鷲掴みにしてそれを阻んだ。手のひらにちょうど良く収まるふわふわの丘に指を食い込ませると、は声にならない悲鳴を上げて体をよじる。銀時の唇がの唇をほんの少しかすめた瞬間、銀時の頬が熱く弾かれた。

 が爪を立てた手で、銀時の頬を打ったのだ。

 頬に手を当てると、指先に赤い血がついてきた。大した力ではなかったが、の爪が破った肌がじわりと熱を持つ。

「ごめんなさい」

 は消え入りそうな声でそう言うと、そそくさと医務室を出ていった。

 乱暴に扉を閉める音を聞きながら、これでいい、と銀時は思う。

 耐えられない。もう無理だ。情けなくてちっぽけで、大切なもの何ひとつ守れない自分。そんな自分は認められない、受け止められない。の目の前に、そんな自分は死んでも晒せない。

 これだけやましいことがあれば、は今夜のことを決して他言しないだろう。ましてや、土方には決して言えるまい。

 臆病な自分を晒さずに済んだ、なによりもそのことに安堵して、銀時は血がついた指をべろりと舐めた。誰かと傷を舐め合うなんて死んでも御免だ。それならいっそひとりきり、誰の目にも触れない場所に隠れたままでいたい。

 そうしていさえすれば、が土方の隣で幸せに笑う姿を拝める日がきっとくる。一片の曇りもない笑顔を遠くから眺める、それくらいの幸福が、きっとちょうどいい。







2020810