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 が取調室に入るのは初めてだった。

 屯所の裏口に近い場所にあるその部屋は、四方を灰色の壁に囲まれた小さな部屋だった。一方の壁に大きな鏡がはまっている。部屋の真ん中に小さな机が一脚あり、それを挟むようにパイプ椅子が置いてある。それよりひと回り小さい机が壁に向かって置いてあって、そこには若い隊士が座っていた。確か、つい最近入隊したばかりの真鍋だ。その手元にはまっさらな帳面が広げてあった。

 は部屋の奥のパイプ椅子に座らされた。

 山崎と原田は部屋を出ていき、後には土方だけが残る。と向かい合って座った土方は、口を閉ざしたままを睨みながら、もったいぶった仕草で煙草に火を着けた。

 焦らすような沈黙に耐えかねて、から口を開いた。

「どういうことなのか、説明してください」

 土方はゆっくりとした仕草で胸ポケットに手を入れると、そこから小さなビニール袋を取り出した。そこに入っていたのはマッチ箱だ。パッケージにはスナックお登勢と洒落た文字が印刷されている。には見慣れたマッチ箱だった。

「これが、どうしたんですか?」
「銀時の部屋で見つけたものだ。調べたら、お前と銀時の指紋が出た」
「だから、それがなんなんですか? 銀さんが脱走したって本当なんですか?」
「本当だ」
「でも、ついさっきまで部屋にいました」
「お前はあいつの部屋に何しに行ったんだ?」
「お水を届けにいったんです、酔っぱらってたので。田代くんと加納くんに聞いてください。ふたりが見てます」
「あいつは本当に酔ってたのか?」
「……それは土方さんにも伺いたいんですが」
「今、尋問しているのは俺だ。質問に答えろ」
「なら、私にもちゃんと分かるように説明してください」

 土方はもう一度胸ポケットに手を入れた。同じような大きさのビニール袋の中には、一枚の懐紙が入っている。赤い線で今日の日付が書かれていた。

「これに見覚えがあるな?」

 土方の問いに、は小さくうなずいた。

「私の覚え書きです。これは部屋に置いておいたはずなんですが」
「何の覚え書きだ?」
「私の部屋を調べたんですか? 無断で?」
「質問に答えろ」
「答えたくありません! どうしてこんなことするんですか!?」

 帳面をつけていた真鍋が、ちらりと視線をよこす。まるで副長である土方に歯向かうのではないと、警告するような眼差しだった。はそれを睨み返して抵抗した。

「この日付は、銀時が脱走する日を書きつけたものじゃないのか? このマッチ箱の店はお前も銀時も行きつけだろう。しかもふたりの指紋付きだ。脱走した後、この店で落ち合う算段だった。そういうことなんじゃないのか?」
「はぁ? 何を馬鹿なことを……」
「じゃぁこれは何の覚え書きだ?」

 山崎は、今日この日にの尾行は終わると言った。そうなれば話せることもあると。監察である山崎の上司は土方だ。山崎が言っていたのはこういうことだったのだろうか。

 山崎に嵌められたのではないか? そんな考えが頭をよぎる。今日の日付を書きつけさせて既成事実を作り、銀時の逃亡を助けたという罪をでっちあげようとしたのではないか? 土方は山崎の上司なのだから、それは土方の考えでもあるはずだ。

 何のためにそんなことを?

「山崎くんに私を尾行させてましたよね?」

 土方は無言で肯定した。

「どうしてですか? 私は何か、土方さんの気に障ることをしましたか?」
「心当たりはないのか? 本当に?」
「ありません」
「荒木田と三倉の件についてもか?」

 それを聞いて、はさっと血の気が引くのを感じた。

 ふたりは攘夷党の間者だったことが露見して、銀時と土方に粛清された。ただし、真選組に攘夷浪士が侵入したという醜聞を隠すため、表向きは殉職として処理されている。山崎がのそばによく姿を見せるようになったのは、その事件が起きてから後のことだ。

「……はっきりおっしゃってください」

 土方はの顔色をうかがうような顔をしながら、長く煙を吐いた。小さな取調室が雲の中に入ったように煙った。

「あの事件の真実を知っているのは真選組隊士だけだ。脱走なんかされて真実が世間に露見したら困るんだよ」
「……そんなことのために? 本気で言ってるんですか?」
「そんなことと片付けられちゃ困る。世間体は何より大事だ」

 は訳が分からなかった。てっきり、ふたりが攘夷党の間者であることを知りながらそれを報告しなかったことがばれてしまったのかと思った。そこを責められたらもう言い逃れはできない。腹を決めて洗いざらい吐き出してしまうしかないかと思っていた。

 このたわいもなさは何だろう。強い違和感を感じるのに、その正体が分からない。目の前に大きな影が立ちはだかっていて、このままでは取り返しのつかないことになると分かっている。なのに、影の大きさやおどろおどろしさに委縮するばかりで全く身動きが取れない。

 土方は短くなった煙草の火を携帯灰皿で潰すと、新しい煙草を咥えて再び火を着けた。その悠長な仕草、まるで時間稼ぎをしているようだった。

「銀さんは、本当に脱走したんですか?」
「あぁ。もぬけの殻だ」
「どうして? なんのために?」
「それは本人に聞いてみねぇと分からねぇが、あいつは法度違反が甚だしかった。今まで何の処罰も与えられなかったのはひとえに、攘夷浪士の検挙率の高さと副長という立場があったからこそだ。だが、その二本柱の一角は崩れた」

 土方が言おうとしていることを、は考えなくても理解できた。

 手合わせに熱が入りすぎた銀時と土方が、木刀の代わりに拳や真剣を振りかざし、派手な喧嘩をしたこと。足を滑らせて転びかけた銀時をがかばって、勝負はそれきりになった。はたから見れば、あの勝負は土方に軍配が上がったように見えただろう。

 あの時がかばったせいで、銀時の立場が危うくなった。土方はそう言いたいのだろうか。目の前が真っ暗になったような気がして、はもはや言葉も出なかった。

 土方は続ける。

「これ以上真選組にしがみついても、命が短くなるだけだと悟ったんじゃねぇか。今まで無事でいられたのが不思議なくらいだ。まぁ、脱走したところでまたひとつ法度に違反したことには変わりねぇんだがな」
「……銀さんは、どうなるんですか?」

 土方は一度と目を合わせた後、静かに目を伏せて口をつぐむ。分かっていることを、わざわざ聞くなとでも言わんばかりの態度に、はぞっとして青ざめた。

 ふと、誰かがドアをノックした。
 真鍋が立ち上がり、ドアを開ける。姿を見せたのは、一番隊隊長の沖田総悟だ。

「おぉ、早かったな」
「想像していたより楽なもんでしたよ。邪魔でしたか?」
「いや、いいタイミングだ」

 土方と沖田はちょうど待ち合わせの場所で顔を合わせたときのように気安く言う。けれど、の耳にその言葉はひと言も入ってこなかった。

 目を反らせなかった。
 沖田の襟元のスカーフ、そしてその頬に飛び散った赤い返り血から。

「……銀さんに何をしたの?」

 沖田が子どものようにあどけない瞳でを見る。
 その口から飛び出てきた言葉は、まるで綿飴のように軽かった。

「斬りました」
「嘘でしょ。たちの悪い冗談はやめて」

 沖田が土方に目配せをする。
 はパイプ椅子を蹴飛ばして立ち上がり、沖田の腕に縋りついた。

「銀さんはどこにいるの? 会わせて!」

 沖田は後ずさっての手を躱そうとするが、藁にも縋る思いのの手の力は強かった。土方が無理矢理ふたりの間に割って入って、の肩を掴む。

「おい、やめろ。落ち着け」
「嫌です! ねぇ、どこにいるの!? 沖田くん、教えて!! ねぇ!!」

 金切り声を上げて叫ぶから逃げるように、沖田は身を翻して取調室を出ていく。土方は目配せをして、真鍋にその後を追わせた。は全力で身をよじって土方から逃れようとしたが、力の差は歴然だった。

「離して!! 銀さんに会わせて!!」
「駄目だ!!」

 土方に全身を抱え込まれるように抱きしめられて、身動きのできなくなったは、力尽きてその場に膝を折ってしまった。大声を出したせいで息が上がり、呼吸がどんどん激しくなる。泣きたいのかもしれないと思ったが涙は出なかった。胸が破裂しそうに痛んで息が吸えず、体が言うことをきかない。喉がぜぇぜぇと鳴って、まるで壊れたからくり人形になってしまったような気がした。息ができない。

 土方が名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、そのまま意識が遠のいて何も分からなくなった。



 目が覚めると、薄暗い天井が見えた。半分夢の中にいるような、ぼんやりとして定まらない意識に、かすかな消毒液の匂いが現実を引き寄せる。手に触れる布の感触は冷たく滑らかだった。おそらくここは医務室のベッドの上だろう。

 首を巡らせれば、目の前に土方の顔が飛び込んできた。

「気がついたか?」

 今までに聞いたこともないような優しい声で、土方は言った。

「過呼吸を起こして倒れたんだ。気分はどうだ?」

 土方の手がの額を撫でる。その指の驚くほどの冷たさに、はようやく意識をはっきりさせた。ベッドの縁に腰掛けてを見下ろしている土方以外、部屋には誰の気配もない。灯りはないが、不思議と土方の表情はよく見えた。体のどこかが痛むのにそれに耐えているような、苦しそうな顔をしていた。

「銀さんは?」

 何よりも先に、それを尋ねずにはいられなかった。

 土方は静かにの頬を撫でながら、ひと言ひと言を噛みしめるように答えた。

「あいつは死んだ。もう、戻らない」

 土方はの言葉は鋭い刃となっての胸を刺し、その晩、の心は赤い血を流して動くのを止めた。






第二部に続く







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