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 次の寅の日は、あっという間にやってきた。

「どうした? ちゃん。顔色が悪いな。具合でも悪いのか?」

 松平が気遣ってくれた言葉に、は曖昧に微笑んで首を振った。

「そんなことありません。元気です」
「そうか? 疲れがたまってるんなら無理するんじゃねぇぞ」
「ありがとうございます」

 ひととおりの報告を終えて、茶を飲みながら松平の他愛もない話に耳を傾けていた時のことだった。時間は午後のお茶の時間を少し過ぎていた。

 はいつも通りに振舞ってはいたが、正直に言って、朝からそわそわしてしょうがなかった。真選組は特に変わったところもなく、普段通りの朝を迎えていた。朝稽古に励む隊士の声、見廻りに出掛けていく隊士達のざわめき、事務仕事に精を出す隊士達は今日も忙しそうで、通報を受けてはパトカーが飛び出していく。

 不安になるほど、平凡な朝だった。

 今日になれば話ができると言った山崎は、朝から姿を見せていない。今日という日はまだ半日以上残っているけれど、一体いつ話をしてもらえるのかも分からず、気持ちばかりが焦る。

 少しずつ袋小路に追い詰められているのにも似た嫌な予感が、どうしても振り払えない。

 いっそのこと松平に全て打ち明けてしまおうかとも思った。けれどそうしたところで、銀時を助ける術が見つかるとは思えなかった。松平はどちらかと言えば、銀時に対して否定的な感情を抱いていることは、話の中から何となく察せられた。真選組の評判を落とす隊士、しかもそれが副長という立場にある男ならばなおさら、松平の心象が良くないのも当然だ。

 松平にはとても頼れなかった。

「ところで、今夜の宴会、ちゃんもいっしょにどうだい?」

 話の終わりに松平はそう言った。今夜は、松平と真選組の幹部が参加する宴会が予定されていた。真選組隊士の慰労が目的で、松平の主催である。

「いいえ、とんでもない。幹部の皆さんの慰労の席なんですから、私なんかお邪魔になります」
「そんなことはねぇだろうよ。お前さんがいたら宴席も華やぐ」
「お世辞はやめてください。素敵な女性がたくさんいらっしゃるお店に行かれるんでしょう? 聞いてますよ」
「せっかくだから、ちゃんに酌してもらいたかったんだがな」
「ありがたいお誘いですけれど、今回は遠慮させていただきます。仕事も残っていますので」

 そうかい、と、松平は仕方がなさそうに小さく頷いた。切なく下がった目尻が愁いを帯び、まるで何か取り返しのつかない失敗をしたような、ひどく悲しい表情に見えた。

「松平様? どうかされましたか?」
「いいや、何でもない」

 そして、は松平の屋敷を辞した。

 この日、土産に持たされたのは牡丹餅だった。将軍御用達と名高い有名店の包装紙を見て、は真っ先に銀時の顔を連想した。甘いものが好きで、ことの他あんこには目のない銀時にご馳走したらきっと喜ぶだろう。銀時が目を輝かせて笑う顔を想像しながら、は真っすぐ屯所に戻った。



 何事もなく、夜になった。

 真選組の幹部は皆、松平が用意した宴会に出掛けていた。屯所に待機している隊士も今日は少なく、いつも以上に屯所は静まり返っていた。

 は明日の朝食の仕込みをした後も、ひとりで厨房に居残っていた。山崎は今日には話ができると言った。それを信じるならば、日付が変わる前に会いに来るはずだ。宴会には幹部以外にも何人かの隊士が同席しているらしいから、山崎もそちらに行っているのかもしれない。

「まさか、約束を忘れているわけじゃないわよね……?」

 と、はひとりごとを言いながら、静かにシンクを磨いた。

 表玄関の方から騒がしい気配がしたのは、時計の針が夜の10時を回った頃だった。気配はあっという間に喧騒になって、酒に酔った人特有の無遠慮な大声が静かな屯所に響き渡った。

 様子を見に行ってみると、そこにいたのは隊士に両脇を支えられてなんとか立っている銀時だった。

「あ、さん! 遅くまでご苦労様です」

 銀時の右肩を支えている田代が言う。

「おかえりなさい。大丈夫? 銀さん、つぶれちゃったの?」

 これには、左肩を支えている加納が答えた。

「はい。なんとかここまでは歩いてくれたんですけど……」
「銀時さん! 屯所に着きましたよ! 部屋までもうすぐですからちゃんと歩いてください!」
「銀さん? 大丈夫?」

 銀時は顔を真っ赤にしてうんうん唸りながら、ほとんど引きずられるようにしてなんとか歩いている。が顔をのぞき込んで尋ねても、赤ん坊が発するような意味のないうめき声しか口にしない。仮にも上司である松平の宴席でここまで深酒するだなんて、神経が図太いにもほどがあるなぁ、とはいっそ感心してしまう。

「他の皆さんは?」
「二次会で、スナックに行くって言ってましたよ」
「そう。私、水を汲んでくるわね。銀さんの部屋に持っていくわ」
「よろしくお願いします」

 厨房に戻って、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。中身を水差しに移して、タンブラーと一緒に盆に乗せる。銀時の部屋に向かう途中で田代と加納とすれ違った。ふたりはこれから飲み直しに行くと言って、意気揚々と出掛けて行った。

 一度盆を置いてから、廊下に膝をついて声をかける。

「銀さん、入るわよ」

 どうせ返事は帰ってこないだろうと予想していたので、返事を待たずに障子を引いた。銀時は、部屋の真ん中に敷かれた布団の上に大の字になって眠っていた。いや、倒れていたという方が正しいかもしれない。掛け布団の上を斜めに横断するように寝そべっていて、袴も脱いでいなかった。

 は呆れながら、その枕元に膝をついて銀時の肩をゆすぶった。

「銀さん、大丈夫? お水持ってきたわよ」

 銀時はうーんと唸り声をあげると、重そうに瞼を持ち上げてを見上げる。何度か瞬きをして、眠そうに目をこすった。

ちゃんか。どうした? こんな時間に」
「だから、お水持ってきたんだってば」
「後でな」
「ここに置いておくわね」
「おぉ」
「こんなになるまで飲んで、また誰かに迷惑かけてないでしょうね」
「失礼な奴だな、俺がそんなたちの悪い飲み方すると思ってんのか?」
「思ってるから聞いてるのよ」
「大きなお世話だっつーの」
「はいはい、すいませんでしたね、失礼なこと言って。それじゃぁね、おやすみなさい」

 笑いながらそうあしらって、立ち上がろうとした時だった。
 銀時の手が、の着物の袖をわしっと掴んだ。
 薄暗い部屋の中で、銀時の赤い目が妖しく光ったような気がした。

「どうしたの?」
「あのさ、ちゃん、」
「何?」
「いや、やっぱりいいや」
「なによ、気になるわ」
「いいって」

 銀時は投げ出すようにの袖から手を離し、その腕で顔を隠すようにする。照れ臭さを隠しているような仕草が愛おしくて、はふふふと声を殺して笑った。

「ねぇ、ずっと聞こうと思ってたんだけれど、銀さんはどうして私のこと、ちゃんって呼ぶの?」

 は銀時のくるくると巻いた銀色の髪を撫でながら問いかけた。

 子どもの頃、銀時はをその名前で呼び捨てにしていた。「おい、!」と、乱暴な言い方で名前を呼ばれるのがは好きだった。ふたりは松陽の元で完璧に対等な関係にあって、そこに一切の上下関係はなかった。喧嘩をしたとしても、が勝つこともあれば銀時が勝つこともあった。

 銀時がの呼び方を変えたのは、この屯所で再会を果たしてからのことだ。もっと早く聞けばよかったのに、なんとなく先延ばしにしてしまっていた。

 お互いにすっかり大人になったし、子どもの頃と同じ距離感のまま付き合うのはどうか、という気持ちがにもあった。けれど、そういう遠慮の気持ちや空気を読んで立ち回るのにはいい加減飽きてもいた。

 局中法度では、みだりに婦女と交際してはならないと定められている。けれど、銀時の今の立場を考えれば、これ以上どんなことをしたって、もう誰も驚いたりはしないだろう。

 は身を乗り出して銀時の顔をのぞき込む。の体が影になって、銀時の周りだけ夜の闇が深くなる。

「昔みたいに、呼び捨てにしてくれたら嬉しいのに」

 銀時の髪を撫でるの手を銀時が掴んだ。

「怪我は?」
「え?」
「治ったか?」

 銀時は砂利で擦りむいた手の傷のことを言っているのだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。

「あぁ、もう平気よ」
「痕、残ったりしなかったか?」
「うん。大丈夫」
「よかった」
「あのね、今日松平様から牡丹餅をいただいたの。いろは堂のよ。銀さん、好きでしょ。明日、一緒に食べましょ」
「そりゃいいな」
「でしょ」
「もう寝るわ」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」

 銀時が目を閉じて寝息をたてはじめたのを確認してから、は音を立てずに立ち上がって部屋を出ようとした。襖を引く。月灯りが部屋に差し込んで、銀時の寝顔を優しく照らし出す。銀色の髪、銀色のまつげに月の光がきらりと瞬いて、月に住むという仙人はきっとこんなだろうと思えるほど美しかった。その正体はただの酔っ払いだと分かっている。けれど、この夜と月灯りが見せる幻にの目が眩んだ。なぜか、涙が出そうだった。



 銀時が名前を呼んだ。
 は涙につまって苦しい喉からなんとか声を絞り出した。

「ん?」
「ごめんな」

 銀時が何を謝ろうとしたのか、は分からなかった。いかんせん、心当たりが多すぎた。けれど一体どのことを言っているのと問いただすには、この夜はあまりにも美しすぎる。

 はひと言だけ言った。

「いいよ。しょうがないからもう全部、許してあげる」

 銀時は目を閉じたまま、かすかに微笑んだように見えた。



 障子を閉じて、真っ直ぐに厨房に戻る。時計を見ると、10時30分を少し回ったところだった。山崎は戻ったのだろうか。確かめるすべはなかった。

 約束の時間まではまだ1時間半ある。は日付が変わるまでここで待つことに決めた。眠気覚ましに水でも飲もうかと湯呑みを取り出して、蛇口をひねろうとした時のことだった。

 けたたましいサイレンが鳴り出して夜の闇を裂いた。パトカーのサイレンだ。音が近い。きっと、屯所に停めてあるパトカーだろう。近くで何かあったに違いない。サイレンの音は屯所から遠ざかっていく。

 厨房の扉がガラリと開いた。照明がつく。白い蛍光灯の光が眩しくて目を焼かれる。

 姿を見せたのは土方だった。その後には山崎と原田が控えていた。

「土方さん、お戻りだったんですか?」

 の問いには答えず、土方は語気も強く言った。

「ここで何してる? 仕事はとっくに終わったはずだろ?」
「明日の仕込みですけど、それが何か?」
「本当にそれだけか?」
「土方さん? 何かあったんですか?」

 その時、ははっとした。

 三人ともきちんと隊服を着て、帯刀している。今夜は松平主催の宴会ではなかったのだろうか? それにしては誰からも酔いの気配を感じない。よく思い出してみれば、銀時もそうだった。顔は赤く火照り千鳥足になっていたけれど、体から酒の匂いはちっともしなかった。

「もう一度聞く。ここで何をしていた?」
「土方さんこそ、何をしてらしたんですか? 今日は松平様の宴会じゃなかったんですか?」
「答えないならそれ相応の覚悟をしてもらう」

 そう言った土方の瞳は、今までに見たことがないほど鋭く冷たかった。は背筋がぞっとするのを感じて、土方の背後に立つ山崎に助けを求める。

「山崎くん、どういうことなの? 説明して」

 山崎は目を合わせない。
 土方は顎をしゃくって原田に命じた。

「連れて行け。尋問する」
「尋問って、私が何をしたっていうんですか?」

 土方は答えず、原田が一歩前に出ての腕を取った。はそれを渾身の力で振り払おうとしたが、原田は真選組一の力自慢だ。逃れることはできなかった。

「土方さん!! どうして!?」

 大声を上げたに向かって、土方は冷たく言い放った。

「銀時が脱走した。お前には、脱走幇助の疑いがかかっている」












20200127