17
は銀時の手当を終えると、ふたり連れ立って食堂に戻り、作業台の上に並べたままにしておいた塩むすびに海苔を巻いてアルミホイルで包んだ。一度くしゃくしゃに丸めて伸ばしたアルミホイルで包むと、海苔がホイルにくっつかない。銀時にそれを説明すると、アルミホイルを丸めて伸ばす作業をせっせと手伝ってくれた。
銀時はそれを三つ懐に入れて、午後の巡回に出かけて行った。
「足は平気なの?」
と、
は心配したが、
「どうせパトカー使うしな」
と、平然と銀時は言った。それならばと
は安心して見送った。
の手元には襟が裂けた道着が残っていた。午後の予定はまだ決めていなかったので、これを直すついでに繕い物の仕事を片付けてしまおうと思う。
ボタンが取れたシャツや膝に穴の開いたズボン、裂けた上着を女中部屋に運び込み、
はひとり黙々と作業に没頭した。たった半日でいろんなことがあって少しくたびれたから、静かに仕事に集中できる時間がありがたかった。
どれくらいそうしていたか、ほとほとと廊下をこちらに向かって歩いてくる足音がする。誰だろうと思って見上げれば、声もかけずに襖を開けたのは土方だった。
「ここにいたか」
頬に大きな絆創膏、隊服の袖口から包帯の白が見えている。部屋の中に入ってくる時、脇腹をかばっているようなそぶりを見せた。おそらく、銀時の木刀を受けて痛めたのだろう、土方がそばにくると、鼻の奥にスーッと抜けるような湿布の匂いがした。
「お怪我の具合はいかがですか?」
は座ったまま、手を休めてたずねた。
土方は断りもせずに
のそばに腰を下ろしてあぐらをかくと、長いため息をついて答えた。
「まぁ、なんとかな」
「お辛そうですね」
「これくらい、かすり傷だ」
「そんなにお顔を腫らして、綺麗な顔が台無し」
「あいつにも一発食らわせてやったんだから、これであいこだ」
「綺麗な顔、ってところは否定しないんですね」
がからかうと、土方はむっと唇を尖らせて拗ねたような顔をした。その子どもっぽいやり方に、
はほっと肩をなでおろす。殺気を纏って真剣を振るっていた時とは、まるで別人だ。近藤がどんな言葉をかけたのかは分からないが、おかげで気持ちが落ち着いたのだろう。
「よかったです、いつもの土方さんに戻ってくれて」
「いつもの俺ってどんなだよ?」
「今みたいな顔です。さっきまでの土方さんはなんていうか……、あんな顔してるところ見るのは初めてでした」
「お前が知らねぇだけで、仕事中の俺はいつもあんなもんだぞ。俺が攘夷浪士になんて呼ばれてるか知ってるか?」
「でも、今日は仕事中じゃなかったし、銀さんは攘夷浪士じゃありません」
は土方の言葉を遮って、きっぱりと言う。そして、土方の瞳を真っ直ぐに見つめ返してはっきりと言った。
「銀さんに聞きました。今回のこと、私が原因だそうですね」
土方は居住まいを正して答えた。
「あいつがどう説明したのか知らねぇが、そういうことにしとくか」
「前からお話ししようと思ってたんですけれど、こういうことになった以上、きちんとしておいた方がいいと思うんです。少しお時間いただいてよろしいですか?」
「あぁ、なんだ?」
「噂のことです」
「うわさ?」
「私と土方さんの関係についての噂です。ご存知でしょう?」
土方は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけながら素知らぬ顔をして答えた。
「なんのことだ?」
「とぼけないでください」
「とぼけてねぇよ。どんな噂だ? はっきり言え」
は強い違和感を覚えて鼻白む。この噂は土方の側近である山崎すら知っていたことだ。それが当の本人の耳に入っていないということがあるだろうか。知らないふりをしているとしか思えなかった。けれど、嘘をついている人間がこんなに真っ直ぐにためらいのない視線をぶつけてくるとも思えなかった。
は戸惑ったまま、なんとか続けた。
「私と土方さんが、いい仲だっていう噂です」
土方はくつろいだ仕草で煙草の煙を吐く。驚いたり戸惑ったり困ったりする仕草は、かけらも見せなかった。
「そんな噂があんのか?」
「本当に知らないんですか?」
「仮にそうだとして、それで何か困ることでもあるのかよ?」
「それはもちろん困りますよ!」
「一体何にそんなに困ってるっていうんだ?」
「何って、それは……」
はこの噂のせいで自分がいかに迷惑を被ったかを指折り数えようとした。自分の気持ちを誤解されるのは不本意だ、土方さんだってそれは同じはず、それから先を言おうとして、口ごもった。
とっさに何も浮かんでこない。気づいてしまった。噂が流れるようになってからとそれ以前のことを比べてみると、以前よりずっとやりやすくなったことのなんと多いことか。
手を洗って来いと言っただけで文句を言っていた隊士たちが素直に言うことを聞いてくれるようになった。下品な隊士に絡まれなくなった。男所帯で女ひとり過ごすことの居心地の悪さはいつの間にかなくなっていた。
が副長である土方と関係がある女だとみんなが思っているから、
に一目置くようになったのだ。
土方は煙草を持つ手で口元を隠すようにしながらじっと
を見ていた。その射るような眼差しに、
の心臓が跳ねる。
銀時は決してこんな風に
を見ない。いつも明後日の方を見て、
に何を聞かれてものらりくらりとかわしてしまう。銀時の眼差しは宙をひらひらと舞う蝶のようで、
はそれを捕らえられた試しがなかった。
それに比べて、土方の眼差しは
の体を絡め取る縄のようだ。その瞳に見つめられると、逃げ道もない袋小路に追い詰められたような気分になる。まるで蜘蛛の巣にかかったように、身動きが取れない。
黙り込んでしまった
に代わって、土方が言った。
「そういう噂があったとしても、それはそれだ。他人が勝手にあれこれ言うことに、俺は興味がない」
そう言って、短くなった煙草の火を携帯灰皿で潰した。それを胸ポケットにしまうと、土方は拳をついて
に体を寄せる。
はとっさに繕っている途中の道着を胸のあたりまで引き上げた。ついさっきまで銀時が身に着けていた道着で、土方がその刀で襟を裂いた道着だ。
土方はそれを見逃さなかった。
「あいつのか?」
「そうです。裂けちゃったので……」
「俺が斬った奴だな。手間かけさせる」
「いいえ、これくらいのことはなんでも」
「
」
土方の手が、道着を握りしめる
の手を取った。
はどうしたらいいか分からず、体を強張らせて土方を見つめることしかできない。心臓が早鐘を打ってうるさいほどで、その勢いのまま口から飛び出していきそうだった。
土方の口元から、煙草の煙たい匂いが香ってくる。それくらい土方が近くにいることに気づいて、
はますます体を固くした。頬が、手が、体が熱くて仕方がなかった。
「何か言いかけてただろ。何を言おうとした?」
「いえ、あの、大したことじゃ……」
「大したことじゃなくてもいいから、言えよ」
「なんでもないです、本当に」
「それじゃ、俺の話を聞いてくれ」
聞きたくないとは言えなかった。
土方の瞳、決して獲物を逃がさない、獣のような瞳。目を反らしたらその瞬間、喉笛に噛みつかれて命を取られる、そんな想像すらしてしまうほど強い光を宿した瞳。
胸の内を何もかも見透かされているようで、怖くてたまらない。けれど、その恐怖の中に身も心も投げ出してしまいたい欲求にもかられてしまう。
決心が揺らぐ。
どうしたらいいか分からない。
はとっさに銀時の道着を鼻先に押し付けた。そこにはまだ銀時の体の匂いが残っている。それでかろうじて理性を保つ。
けれど、土方の瞳からは逃げられなかった。見つめられて、目を反らせない。
「あいつが……、銀時が話すお前の話が、俺は我慢ならねぇ。今日のことは我ながら大人げなかったとは思うが、どうしてもあいつをぶちのめしてやりたかった」
「……銀さん、私のことなんて?」
「聞かせたくない」
「それは、どういう意味なんですか?」
土方の手に力がこもり、瞳が鋭くぎらりと光った。
「俺は、お前に惚れてる」
「……土方さん」
「俺の女になれ、
」
突然、喉が腫れ上がったように急に痛み出して、鼻の奥がつんときな臭くなる。心臓が狂ったように暴れて、そのせいで息まで上がってきた。自分の体に何が起きているのかさっぱり分からない。もう頭もうまく働かなかった。
はほとんど無意識に、首を横に振った。
「だめです、できません」
「あいつに惚れてんのか?」
「違います! 銀さんは大切な幼馴染で、家族みたいなもので、前にもそう言ったじゃありませんか……!」
「俺のことはなんとも思わねぇか?」
「……素敵な方だと思ってます。でも……」
「おい、泣かないでくれよ。頼むから」
土方の手が頬を撫でたことで、
は初めてそこが涙で濡れていることに気がついた。一体何の涙なのか、混乱する頭で考えてもさっぱり分からなかった。息を吐いたら嗚咽になって、
はそのまま声を上げて泣いた。
土方はその胸に
を迎え入れ、背中を撫でて慰めてくれた。
「変なことを言って悪かった。本当に、すまん」
土方はそう言ったが、
はそれを許すどころか、もはや会話もままならなかった。
20200124