14
暖簾をくぐってガラス戸を開くと、湿度の高い温かな空気が体中を包んだ。
梅屋という店はてっきり居酒屋かと思っていた
は、小さくて上品な小料理屋のたたずまいにほっとした。カウンターには大鍋が三つ並んでいて、大きな炊飯窯も見える。店は味噌汁が煮える匂いとわずかに日本酒の匂いで充満していた。
「いらっしゃいませ。おひとりで?」
と、給仕の前掛けを付けた若い娘が言う。
「いえ、あの、真選組の土方副長が来ていると思うんですけれど……」
「
!」
が最後まで言い終わる前に、カウンターに座る客のひとりが背中をのけぞらせるようにして
を呼んだ。
「土方さん」
はほっと胸を撫で下ろした。なぜ土方の顔を見て安心するのか、自分の心が不可解だった。けれどその気持ちを深追いするより先に、胸の奥から温かいものが沸き上がってくる。
「遅くなってすいません」
が笑顔を向けると、土方は
のために椅子を引いてくれた。
「来たんだな」
「はい。来ちゃいました」
「気が向いたか?」
「はい」
土方の表情はいつもと変わらないように見えたが、心なしか嬉しそうだった。隊服を脱いだ土方はくだけた雰囲気がして、真選組の鬼副長という側面を知らない人が見れば粋で洒落た町人だと思うだろう。隣に座っていても堅苦しさを感じない。
「おごってくださるっていう話だったので、せっかくですから」
「おぅ、任せとけ。この店は安くて美味いことで有名なんだ」
「御馳走になります」
カレイの煮つけと小松菜の白和え、具沢山の筑前煮に、なめこと豆腐とわかめの味噌汁と、とても庶民的な献立だった。土方はそれをもう半分ほど平らげていて、日本酒をゆっくり味わっていた。
土方は御猪口に酒を注ぐと、それを
に持たせて乾杯した。
「ご苦労さん」
「ありがとうございます」
酒はぴりりと辛い味わいで、ほどよく疲れた体によくしみだ。
は箸を持って両手を合わせて「いただきます」とつぶやくと、初めに味噌汁をすする。かつお出汁に赤味噌、なめこのとろみが体を温める。煮つけも煮物もよく味がしみていてとても美味しい。自分ではとてもこの味は出せないなと思いながら、しみじみとそれを味わうと自然と頬が緩んだ。
土方は横目で
の様子を見つめていた。
「あんまり気乗りしなさそうだったのに、どうして来る気になったんだ?」
「細々したことも片付いたので」
「本当にそれだけか?」
「なんて言ってほしいんですか?」
「別に何でもいいけどよ」
「じゃぁ、いいじゃありませんか。あんまりしつこいともてませんよ」
「余計なお世話だ」
むっと口を尖らせた土方を、
はひそかに笑った。
店はほどよく混みあっていて、それぞれのテーブルから聞こえてくる雑談はちょうど耳に心地良い。
「土方さんは、いつもこういうことしてらっしゃるんですか?」
「こういうことって?」
「部下に御飯をご馳走したり、一緒にお酒を飲んだり」
「まぁ、たまにな。酒が入ると言いやすいこともある」
「みんなに目をかけていらっしゃるんですね」
「普通だろ。それに、こういうのは近藤さんの方が得意だよ。すっと他人の懐に入っていくって言うか、それに嫌味がないんだよな。俺には真似できない」
「近藤さんとは長いお付き合いなんですよね?」
「話したことなかったか?」
「一緒に江戸に出てきたとは伺った気がしますけれど、詳しくは。よかったら聞かせてください」
「別に大した話じゃないぞ」
「そんな風におっしゃると余計に気になりますよ」
土方は少し考え込むような顔をすると、懐から煙草を取り出して火を着ける。そして、どこか遠いところを見つめながらとつとつと語り出した。
「俺達は、武州っていう田舎の出でな。近藤さんの親父さんがそこで恒道館っていう道場をやってて、門下だった連中が……」
は食事と酒を口に運びながら話を聞いていたが、その手の動きはどんどん鈍くなっていった。土方の話に引き込まれて、口も手も自然と動かなくなってしまった。時折、土方が酌をしてくれたときには思い出したように唇を濡らしたけれど、ほとんど酔いも回らなかった。
土方と近藤との出会い、村の荒くれ者達とやり合って大怪我をしながらも近藤とふたりで何とか窮地を脱したこと、沖田は傲岸不遜で生意気で、神童と呼ばれるほど剣の腕に優れていたこと。大きな丸太を使った素振りの稽古を逃れるため、木の皮を巻いただけのものを振り回していた話には、
は声を出して笑ってしまった。
土方は決して話し上手というわけではなかったが、故郷や仲間達のことを語る眼差しは柔らかかった。厳しく隊士達を律する鋭い眼差しはなりをひそめ、まるで別人のように砕けた雰囲気がした。
子どもの頃の沖田はこんなに生意気でひどく手を焼かされた、あれ以上の悪ガキはきっとどこを探しても見つからないだろうと口汚く罵ったとしても、その表情は穏やかだ。口ではそう言っても、心の中には言葉とは裏腹な思いを隠しているんだろう。
を楽しませるために話を盛っているのかもしれないし、酔って気を良くしているのかもしれない。何が理由であれ、こんなにおしゃべりな土方を見るのは
は初めてだった。こんな一面を見せてくれたことが、嬉しかった。
「そういうお前はどこの出なんだよ?」
「萩です。ここからずーっと西の方にあるんですけど、ご存知ですか?」
「名前を聞いたことはある気がする」
「すっごく田舎なんです。田んぼと畑ばっかりで電気が通ってないところもあるくらい」
「電気なら恒道館も通ってなかった」
「それから、ガスもなくて土間で毎朝火を熾してました」
「こっちは毎晩五右衛門風呂を炊いてた。洗濯は川だった」
「あ、それは私もやりました。掃除は箒とはたきですか?」
「道場の雑巾掛けはやったな」
「私は御手水の汲み取りもやりました」
「何張り合ってんだよ。っていうか、飯食ってる時になんつー話してんだ」
は腹の底から響く声で高く笑った。
「すいません、つい。下品でしたね」
「いいけどよ。元々上品でもねぇし」
「私もです。恒道館の皆さんはどうして真選組に?」
「江戸で浪人を集めてるって話を聞いて、それに乗ったんだ。元々、田舎でくすぶって一生を終えるつもりもなかった。いつかこの腕一本で身を立ててやろうって、全員が思ってた」
「それじゃ、皆さんは夢を叶えたんですね」
「いや、こんなんじゃまだまだだ。お前こそどうして真選組に?」
「前にもお話ししませんでした? 松平様にお声がけいただいたんです」
「それは確かに聞いた。けど、こんな男所帯で荒くれ者の集まりに女ひとりで乗り込んでくるには躊躇するもんじゃねぇのか?」
「まぁ、普通ならそうかもしれませんね。でも、私は平気ですよ。子どもの頃から周りには男の子ばっかりでしたし、慣れてるんです」
「慣れ、ね。その中に銀時もいたのか?」
「えぇ。銀さんとは一番付き合いが長いんですよ。本当に小さな子どもの頃から一緒でしたから」
土方は目を細めた。
「あいつが、どうして浪士組に志願したのかは知ってるか?」
「土方さんは知らないんですか?」
「あいつとそんな話しねぇよ」
「私は、人づてに聞きました。ついこの間」
「誰から?」
「ほら、土方さんが銀さんを探しに来たお店です。お登勢さん、覚えてます?」
「あぁ、あそこか。あいつとはどういう関係なんだ?」
「関係については詳しくは分かりませんけど……、志願したきっかけはお登勢さんだそうですよ。銀さんには向いてるんじゃないかって勧めたんですって」
土方はちっとも納得できなさそうに顔しかめた。
「あの婆、そんなことよく言えたな」
「集団行動どうこうではなくて、なんて言ったらいいか、銀さんの生き方とか、哲学とか、そういうもののことを言ってるんだと思いますけどね」
はお登勢が語ってくれたことをかいつまんで話して聞かせた。本人のいない場所でこういうことをべらべらと話すのはどうかという気持ちもあったけれど、土方にはできる限り銀時を理解してもらいたかった。
今、銀時の立場は危うい。
剣の腕は隊士の中でもずば抜けているが、それ以外の素行がすこぶる悪い。酒にギャンブル、怪しい連中とかかわっているという噂が市民の間にまで流れている。お登勢が知っていることを土方が知らないはずはないだろう。噂が本当ならば、銀時は局中法度に抵触する罪をもういくつも犯していることになる。
局中法度、それに違反した者は切腹。それを定めたのは他でもない土方なのだ。
今夜、
が土方の誘いを受けてこの店に来たのは、ひとえに銀時のためだった。銀時は噂されているような悪い人間ではない。確かに、その行動は褒められたものではないかもしれないが、必ず理由があるはずなのだ。
子どもの頃、近所に住んでいた武家の息子とその取り巻きと派手な喧嘩をしたことがある。銀時は武家の息子をぼろぼろになるまで殴りつけた悪童と呼ばれて、その評判は地の底まで落ちた。それからしばらくはまともに町を歩けないほどだった。
銀時がそこまでして相手を打ちのめした理由は、
にある。
は武家の息子に乱暴されたのだ。身寄りのない流れ者の小娘は虫けらも同然の扱いを受けるのが当然、そんな風潮がある町での出来事だった。
銀時は
を護るために、町中から嫌われる道を選んだ。大切なものを護るためならば、どんなそしりも受ける覚悟が銀時にはある。
は誰よりもそのことをよく知っている。
だから、今銀時がしようとしていることも、きっと理由があるはずだ。
には確信があった。
「……銀さんは、そういう人なんです」
土方にはそのことをどうしても理解してほしかった。
が話し終えて隣を見やると、土方は何か考え込むような顔をしてじっと一点を睨みつけていた。
20191231