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 それからしばらく、心が休まらない日々が続いた。

 土方に話しかけられるたび、銀時や馬之助のことを問いただされるのではないかとびくびくしてしまうし、銀時の顔を見るたびに話をしたくてたまらなくなった。けれど、それを切り出す前にのらりくらりとかわされてしまう。銀時がを避けているのはもはや明白だった。ただ、銀時とふたりでゆっくり話をしたい、ただそれだけの願いが叶わないことで、銀時に対する不満は募っていった。

 それを相談できる人間といえば、馬之助しかいなかった。ときどき、人目を忍んでに会いに来る馬之助は、が聞けば当たり障りのないことは教えてくれたけれど、あまり深いところまでは踏み込ませないようにしているようだった。はそれを言葉ではないもので感じ取って、疎外感に胸がいっぱいになった。

 自分ひとりだけ仲間外れにされているような、置いてきぼりにされているような、虚しい寂しさに襲われてどうしようもなかった。

 そんな時は決まって、子どもの頃の記憶が蘇った。

 松下村塾の仲間には、男の子の方が多かった。男の子は男の子だけで集まって遊びたいものらしく、はその輪の中に入れてもらうことすらできず、楽しそうに笑い合うみんなの後ろ姿を羨ましい気持ちで眺めていた。もしも自分が男だったら、あの輪の中に入って一緒に大騒ぎすることができたのかと思うと、胸の辺りをかきむしりたくなるようなむずむずした気持ちになって堪らなく悔しかった。

 大人になった今でも同じ悔しさに囚われているのだ。
 そう思うと、ため息がこぼれた。



 ある夜。

 はなかなか寝付けず、布団の中でもぞもぞと身じろぎをしてはなかなか姿を見せない睡魔を探していた。その日も忙しく働いて、体はほどよく疲れていた。なのに目の奥が冴えてしまってどうしようもない。まぶたの裏に浮かぶ淡い光を追うことだけを繰り返している。

 しびれを切らして、は布団から抜け出すことにした。眠れない時に無理に眠ろうとしても仕方がない。寝間着の上に肩掛けを羽織って、裏口から食堂の厨房に入る。豆電球だけを付けて少し思案した後、スポンジを取り出してシンクを磨きはじめた。

 暗い厨房の片隅で、シンクが擦れる音だけが響く。無心に手を動かしていると、時間の感覚が曖昧になってくる。時計も目の届くところにはなかった。

 どれくらいそうしていたか、ふと物音を聞いては手を止めた。

 人の足音のような音が聞こえた気がする。誰か起きてきたのだろうか、それとも夜勤の隊士だろうか。耳をすませてみたけれど、それきり何も聞こえない。空耳だったのだろうかと思った時、食堂の扉から気配を感じた。

 何だろう。

 は濡れた手を拭い、足音が立たないように足を進めた。厨房を出て、食堂の引き戸にそっと手をかける。灯りをつけた方がいいのかもしれない、豆電球の明かりは入り口まで届かない。けれど、なぜかそうするのは憚られた。

 そっと引き戸を開けて、隙間から廊下の様子を伺ってみる。暗くて何も見えないが、変わったところはないように思えたが、何か嫌な臭いを感じては鼻に皺を寄せた。何か、とても親しみのある身近なものの匂いのはずなのに不穏な気配がする。

 引き戸の隙間を広くして、そこから一歩踏み出した瞬間。

 はふいに足を滑らせた。足元が濡れていて、床についた手が生温い液体で濡れた感触がする。どうしてこんなところにお湯が? と、濡れた手を見下ろして、は息を飲んだ。どろりとした粘性があって肌に張り付く。ちょうど人肌くらいの温かさで、暗くてよくは見えないが目の前に指先を近づけるとその暗い赤色が目を焼いた。血だ。

 混乱する頭で、はとっさに手を伸ばした。その指先が人の体に触れる。這い寄って手探りで確かめれば、確かにそこに人が倒れているのが分かる。触れた胸がばっさりと袈裟斬りにされていて、の手を熱い血液が濡らした。

 誰か、と声を上げようとした。けれど、ひゅうひゅうと息が漏れるばかりでちっとも声にならない。

 闇に目が慣れてくると、倒れている男は、近頃入隊したばかりの新入隊士だと分かった。名前は確か三倉と言って、馬之助と同期入隊ではなかっただろうか。うっすらと開いたまぶたの奥の瞳にはすでに光がなかった。

 と、その時だ。けたたましい音を立てて廊下の向こうから誰かがまろび出てきた。その人は背中から壁に激突すると、嫌な咳をしてその場に座り込んでしまう。馬之助だと、にはすぐに分かった。そして、その後を追うように姿を見せた銀時が、鈍く光る抜き身の刀を携えていることも。

「おい、お前! こんなところで何してやがる!?」

 誰かがの肩を強く掴んだが、はそれどころではなかった。
 どうして銀時が馬之助に刀を向けている?
 馬之助の唇が動いた。

「……銀時さん、どうして?」

 銀時はわずか唇の端を持ち上げながら言った。

「どうしてって、自分が何をしたかくらい分かってるだろう」
「そんな、でも……」
「悪いな。俺には俺の事情ってもんがあるんだ」
「銀時さん……!」

 すがるようにそう言った馬之助が、に気づいた。目が合った瞬間、助けを求めるように手を伸ばしてくる。銀時もそれに気づいたのだろうか。横目でちらりとを見た。

 その視線から何かを感じる間も無く、銀時は刀を上段に振り上げる。
 は強く肩を掴んでくる腕を振り切って、金切り声を上げて叫んだ。

「銀さん!! やめて!!」

 その叫びは、届かなかった。の目の前で振り下ろされた刀は馬之助の体を貫き、の目の前で馬之助の瞳から光が消えた。



 がようやく正気を取り戻したのは、それから丸一日経った昼過ぎだった。

 離れの私室を訪ねてきたのは土方で、山崎がその後に着いてきていた。は三人分の茶を淹れたが、山崎は開け放したままの玄関の外に立ったままで、ちゃぶ台の前に腰を落ち着けたのは土方だけだった。

「調子はどうだ?」

 土方は茶で喉を潤してから口火を切った。

「はい。おかげさまで。今日はお休みしてしまってすいませんでした」
「いや、通いの家政婦達がやってくれてるし、かまいやしねぇよ」
「ご迷惑おかけします」

 昨夜、を血の海から引き上げてくれたのは土方だった。粛清の現場に居合わせてしまい正気を失ったを部屋まで抱えていってくれたらしい。はそのことをほとんど覚えていなかった。銀時が振り下ろした刀の残照がまぶたの裏に焼きついたようになって、気がついたときには自分の部屋に戻っていた。膝から下と両袖、そして両手がどす黒い血を吸ってぐっしょりと重かったことだけがやけに記憶に残っている。

「一応、説明した方がいいかと思ったんだが、聞きたくないならやめる。どうする?」

 と、土方はの顔色を伺いながら言った。

 正直、真実を知るのは怖かった。けれど、何も分からないままでは心の整理がつけられない。は首を横に振った。

「いえ、聞かせてください」

 土方は言葉を選んで話し始めた。

「お前も知っての通り、真選組の任務は内容も範囲も広がっている。新入隊士を集めるのは急務だった。だが、少し急ぎ過ぎたらしい、その中に攘夷党の間者が紛れ込んでいた。昨日斬ったふたりがそれだ」

 はとっくにそのことを知っていた。馬之助から直接話を聞いていたのだ。けれど今更それを土方に伝えたところでもう何の意味もない。

 はひとつ頷いて先を促す。

「お前は何であんな夜中に食堂にいたんだ?」
「昨夜は、なんだか寝付けなかったんです。それで気晴らしにシンクを磨いていたら、物音が聞こえて、様子を見に行ったら……」
「そうだったか。嫌なものを見せたな。まさかあんな時間にお前がいるとは思わなかったんだ」
「どうして屯所の中であんなことに?」
「攘夷党の間者に易々と侵入を許したと世間には漏らせねぇ。市民の信用を失うわけにはいかないからな、内々で処理したかったんだ」
「どうしてあのふたりがそうだと分かったんですか?」
「厳正な調査の結果だ。それ以上は言えん」

 が考えているよりずっと、土方は賢い。が馬之助が入隊した目的を告げ口する必要もなく真実を調べ上げた。玄関の外にいる山崎も、見張りをしているふりをしてしっかりの言うことに聞き耳を立てているのに違いない。

 今までひとりで悩んでいたことが馬鹿らしかった。馬之助の目的が露見したらどうなるかと、土方の目に怯えて、不安を募らせて、なんの行動も起こせずに右往左往していただけだ。自分の無力さや浅はかさがいっそ恥ずかしい。

 頭を抱え込むようにして俯いたを、土方は親身に労った。

「なんなら、しばらく仕事は休んでもいいぞ」

 は慌てて首を横に振った。

「いいえ、仕事はやらせてください。大丈夫です」
「無理することない。お前だけじゃなく、昨夜の一件で屯所中ぴりぴりしてる。攘夷浪士が隊士の中に紛れ込んでいたんだからな。局長とも話してるんだが、今より一層隊を引き締めてかなきゃならない。それが落ち着いてから戻ってきてもいい。松平公に頼めば下働きにだって戻れるだろう」
「いいえ、隊が大変な時期ならなおさらです。せめて身の回りのことで皆さんを煩わせないようにしたいです。最近働き始めた家政婦さんはまだ慣れてませんし、私がこれからいろいろ教えてあげないと」
「お前がそう言うならかまわねぇが、無理はするなよ」
「お気遣いいただいて、ありがとうございます」

 喉が乾いて、は湯呑に手を伸ばす。その手を、土方の武骨な手が掴んだ。目を丸くしたを、土方は何もかも見透かしたような鋭い瞳で見つめ返す。

「……何ですか?」
「他に何か言うことはないか?」

 土方の手は大きく、の手のひらがすっぽりと納まってしまうほどだった。肌は熱く、ごつごつと骨張った感触がする。ふと、頭の隅にふたつの鉄製の輪を鎖でつないだ影が思い浮かんで、はとっさに自分の手を引っこ抜いた。

「……いいえ、何も」
「そうか」

 土方はため息をひとつつくと、立ち上がって山崎に目線を送る。その背中に、は言った。

「あの、土方さん。ひとつだけ」
「なんだ?」
「銀さんと話をしてもいいですか? ……ふたりで」

 肩越しに振り返った土方は、かすかに眉根に皺を寄せる。そして、土方は肩を落としてため息をついた。

「同じ屯所にいるんだ。好きな時に話せばいい」








20191202