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 その男の名前は、荒木田馬之助と言う。かつて、や銀時とともに松下村塾で学んだ学友である。

 と言っても、馬之助は10近く年が離れていて、や銀時が塾で一番年かさだった頃に入塾してきた時はまだほんの子どもだった。塾の近くに住んでいた農家の末の息子で、他の家の子どもに手を引かれてやってきたのが最初だった。松陽から手習いを教えられ、初めて自分の名前を書けるようになった時の嬉しそうな顔を、は今でもよく覚えている。少年の頃の馬之助は、まるで女の子のような顔立ちのかわいらしい男の子だった。笑った時にくっきり頬に刻まれるえくぼは、つい指でつついてみたくなる魅力があって、はよくそうやって馬之助をからかったものだ。そのおかげかどうか、馬之助もによく懐いてくれていた。

 松陽が投獄され、塾を焼き払われて以来、その混乱に紛れて消息が分からなくなっていた。

「まさかこんなところで会えるとは思わなかったわ」

 と、は感慨深い気持ちで言った。女の子と見間違うほど小さく愛らしかった男の子が、今はを見下ろすほど背も伸びて、十分に大人と言っていい好青年に成長している。ただひとつ、子どもの頃から変わらないえくぼを浮かべて、馬之助は笑った。

「僕もだよ、姉ちゃん」
「姉ちゃんはやめて。もうそんな年じゃないんだし」
「なんで? 姉ちゃんは昔と全然変わらないよ。僕、すぐに分かったもの」

 馬之助は濡れた皿を拭き重ねながら言った。

 晴れて真選組隊士となった馬之助は一番隊に配属され、沖田にしごかれながら任務に勤しんでいる。ろくに睡眠時間も確保できないほど忙しいらしく、選抜試験の日以来、とゆっくり顔を合わせたのは今夜が初めてだった。

 ひとり厨房で仕事をしていたの元に、馬之助がひっそりと忍んできたのは、夜もすっかり深まった頃だった。馬之助は屯所内にある大部屋で同期採用の隊士達と共同生活をしている。同室の隊士達が寝静まったのを見計らってこっそり抜け出してきたらしい。

 馬之助は洗い上がった皿を乾いたふきんで拭き、食器棚に収めている。は明日の朝食のための下ごしらえに、大根と人参を銀杏切りにしながら会話した。

「人目なんか気にせずに、もっと気軽に会いに来てくれていいのに」

 が言うと、とんでもないと言わんばかりに馬之助は首を横に振った。

「そんなことしたら士道不覚悟で切腹になっちゃうよ!」
「えぇ? 何それ、どういうこと?」
「知らないの? みだりに婦女と交際することは士道に反するって、幹部から注意が出てるんだ。入隊してすぐ釘を刺されたんだよ。あれは姉ちゃんに手を出すなって言ってるようなものだよ」

 それはには初耳だった。

「まさか、私のことなんか誰も興味ないでしょ。ちょっと口うるさい家政婦としか思われてないわよ」
「そんなことない。姉ちゃんはきれいだよ」
「そう言ってもらえると、お世辞でもうれしい」

 馬之助は肩をすくめて唇を尖らせた。

「そのおかげで、今日までゆっくり話もできなかった」
「そういう事情じゃ仕方なかったんでしょう」
姉ちゃんは、どうして真選組に?」
「元々、松平様のお屋敷の下働きをしてたんだけれど、ここで家政婦の仕事をしてくれないかって頼まれたの」
「これだけの人数の食事の世話をひとりで、大変だろ」
「初めのうちはもっとこじんまりしてたから何とかなってたけどね。でも、近々、人を増やしてもらえそうよ。隊士も増えたしね」
「そうしたら少し楽になるね」
「私のことより、ねぇ、馬。銀さんとは話したの?」

 に懐いていたほどではないけれど、馬之助は銀時とも仲が良かった記憶がにはあった。銀時はどちらかというと一匹狼なタイプだけれど、小さな子どもに向ける眼差しがとても優しい人だった。きっと松陽に似たのだろう、弱く儚いものを大切に包み込むように接していたことを覚えている。子どもに付き合って一緒に遊んでやるというよりは、隣にすっと寄り添ってあげるような、友達に置いて行かれてべそをかいていた馬之助の背を叩いて、黙って一緒に隣を歩いてあげるような人だった。

 馬之助は曖昧に笑った。

「それが、まだちゃんと話せてなくて……。僕は一番隊所属で、銀時さんは副長だろ。接点もあまりないし、特に銀時さんは屯所にいないことも多くて、なかなか捕まらないんだ。姉ちゃんの方がよく話してるんじゃない?」
「私もそうしょっちゅう話せるわけじゃないの。ときどきふらっと食堂に現れて、時間も過ぎてるのに何か食べるものはないかって言うの。その時いろいろ聞こうとするんだけど、どうも要領を得ないことしか答えてくれなくてね。心配してるのよ」
「そうなんだ」
「同じ隊士なんだし、馬の方が話すチャンスがあるんじゃない? 男同士、きっと銀さんも話しやすいんじゃないかしら」
「銀時さん、そんなに心配するような様子なの?」
「うーん、うまく言えないんだけれど……。そうね。よく夜中に出かけてるみたいで、隊服をぼろぼろにしてることもあるの。一体何してるのって聞くんだけれど、教えてくれなくて。任務のことなら私なんかにそう易々と話しちゃいけないのかもしれないけれど、でも、それにしても隠し事が多いような気がする。昔はあんなんじゃなかったのに」
「銀時さんが何をしてるのか、本当に心当たりはないの?」

 ふと、馬之助は緊張感を増した声でそう言った。が目を上げると、馬之助は重ねた椀を両手で抱えたまま、神妙な顔をしてを見ていた。

「どうしたの? そんな顔して」
「銀時さんが何かしてるなら、ちゃんと知りたいんだ。大事なことだから」
「大事って?」

 馬之助は考え込むような顔をして俯いた。
 は人参を刻みながら辛抱強く待った。

「……姉ちゃん、実は僕……」

 と、馬之助が言いかけた時だった。

 ばんっ!! と、何かが勢いよくぶつかる音が響いて、ふたりは同時に肩を跳ね上げる。音は、屯所の裏庭に通じる勝手口から聞こえた。

「何かしら?」
「僕、見てきます」
「誰か呼んだ方がいいんじゃない?」
「僕だって真選組隊士の端くれなんだから、大丈夫」
「でも」
姉ちゃんは下がってて」

 馬之助はを手をかざして制する。足音を立てないように勝手口に近づき、取っ手に手をかける。一度に目配せをしてから、馬之助は勢いよく扉を内側に開いた。

 倒れこむように内側に倒れてきたのは、銀時だった。

「うわぁ!」

 と叫んで、飛びのいた馬之助に対して、は包丁を放り出して倒れた銀時に駆け寄った。

「銀さん!? どうしたの?」

 膝の上に抱え上げるように体を転がすと、途端に酒の匂いが強く香った。ふたりは思わず袖で鼻先を押さえる。

 銀時は着崩した隊服姿で、スカーフが緩んで端が首の横に流れている。隊服は相変わらずあちこち汚れていて、飾りボタンが緩んで糸の先で揺れていた。元からの天然パーマが絡んで、鳥の巣のようになっている。

「銀時さん、酔っぱらってる?」
「……みたいね」

 の膝の上で、赤ら顔の銀時がううんと唸る。
 は馬之助を振り返りながら苦笑いをした。

「馬、悪いけど、水を一杯汲んできてくれる?」
「うん」

 言われて、馬之助は食器棚から湯呑を取り出し、流しに立って蛇口をひねった。こぼさないように気をつけて両手で持つ。

 馬之助はふと足を止めた。
 開いたままの勝手口から体の下半分を投げ出したまま、の膝の上に倒れている銀時は、かつて白夜叉と恐れられた伝説の攘夷志士と同一人物とはとても思えなかった。に名前を呼ばれながら頬をぺちぺちと叩かれて、あーとかうーとか声にもならない声を上げていて、その白い髪もあいまってまるで白痴の老人だ。

 馬之助は内心、がっかりしていた。裏切られた気分だった。攘夷戦争が終結してもうずいぶん経つ。けれど、仮にも真選組副長として働いているくせに、この体たらくはいくらなんでもあんまりだ。

「馬? どうしたの?」

 声をかけられて、慌てて湯呑を持っていく。湯呑の淵まで注いだ水道水はその勢いで少しこぼれて、銀時の頬に飛んだ。

「もう、こんなになるまで飲むなんて、飲み方知らないわけでもないのに」
「しかも隊服のままだ。これ問題になるんじゃないかな」
「銀さん? 水飲める?」

 は銀時の後頭部に手を入れて口元に湯呑を持っていって傾ける。少しだけ口の端からこぼしながら、銀時はそれでもひと口それを飲んだ。

「……こんな銀時さんを見たら、桂さんはなんて言うかな……」

 馬之助の言った言葉に、は思わず顔を上げた。何か、聞き捨てならない名前を聞いた気がした。

「馬? 今なんて言ったの?」

 馬之助は神妙な顔して銀時を見下ろしながら答えた。

姉ちゃん、本当のことを言うね。僕は桂さんに言われてここへ来たんだ。銀時さんを桂さんのもとへ連れていくために」

 何を言われているのか、はすぐに理解することができなかった。

 膝の上で酔いつぶれている銀時と、それを見下ろす馬之助の澄んだ眼差しの狭間に立たされて、足元に突然亀裂が現れて足をすくわれるような、そんな気持ちを覚えていた。







20191124