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 夜のかぶき町は卑猥な桃色のネオンに彩られ昼のように明るい。きらびやかに着飾った男と女が行き交い、人目も憚らず体を寄せ合い睦言を交わす。客引きが看板を掲げながら大声を上げ、酔った男の下卑た笑いがそれに重なる。さらにそこに女の嬌声が重なって姦しいことこの上ない。

 は桃色の法被を着た客引きを無視し、金髪を逆立てたホストの強引な誘いを断り、なんとか目当ての店にたどり着いた頃にはすっかりくたびれてしまっていた。

 乱れた髪を手で押さえつけながら見上げた先に光っているのは、「スナックお登勢」の看板だ。店の目の前まで来ておいて今更だが、ここへ来て一体何をしようとしているのか、自身にも分からなかった。とはいえ、袖の下に隠したマッチ箱の存在はあまりに大きく、銀時に返すにしても、見なかったふりをしてゴミ箱に放ってしまうのにも無理があった。

 マッチ箱と目の前の店を見比べる。ここで間違いない。けれど、その暖簾をくぐるきっかけが掴めず、一歩が出なかった。このまま何も気づかなかったふりをして帰ってしまおうか、けれどそんなことをしても心配事が消えて無くなるわけでもない。

 うじうじと悩んでいた、その時だ。がらりと音を立てて店の扉が開いた。暖簾を押して姿を見せたのは、すっかり酔いが回って赤ら顔の男と、その腕を肩に回して支えている男、そして、黒い着物に日本髪結った壮年の女性だった。

「どうもごちそーさん、お登勢さん!」
「はいよ、また贔屓にしておくれ」
「そうさな、きれーな姉ちゃんの顔を見飽きた頃にババァの顔見に来てやるよ」
「そんな憎まれ口叩くんならもうサービスしてやんないよ、おととい来やがれ」
「はっはっは! そいじゃな! 次来るまでくたばるんじゃねぇぞ!」
「それはこっちのせりふだよ」

 女将と客がこんなに物騒なことを言い合う光景を見るのは初めで、は開いた口がふさがらない。こんな接客をしてよく客商売が務まるものだと思う。

 と、黒い着物の女性がを見とめた。

「何やってんだい? そんなところにぼーっと突っ立って。うちの店に用かい?」

 何と答えればいいのか分からず、は肩を強張らせて口ごもる。

「いえ、用というか、その……」
「なんだい、歯切れの悪い。若いんだからしゃっきりおしよ」
「あ、すいません……」

 はしゅんと俯いてしまった。初対面で、たった一言しか発していないのに叱られてしまったことが衝撃的で、何も言えなくなってしまう。目上の人に怒られたり注意されたりしたことがないわけではないけれど、出会った瞬間の第一声でなじられたのは生まれて初めてだった。このまま踵を返して逃げ帰ってしまおうかと思う。けれど銀時のことを思ってここまできたのだ、自分を奮い立たせて何とか言った。

「あの、このマッチは、このお店のもので間違いありませんか?」
「そうだけど。まぁ、一杯やりに来たっていうんなら歓迎するよ。お入り」

 うって変わって優しい言葉をかけられて、はほっとした。お登勢は困ったような顔で深い笑みを浮かべていて、その肌に刻まれた無数のしわや、まぶたを彩る青いアイシャドウは、人生のあらゆる荒波をいくつも超えてきたその深い人生経験を物語るようだった。自分が抱えている悩みなどとてもちっぽけで取るに足らないものだと思えてくる。

 がスナックに入るのは生まれて初めてだった。

 外観から想像するよりずっと広い店だった。テーブルが三つ、カウンター席が五つある。その半分ほどがすでに埋まっていて、酒とつまみを肴に歓談してた。部屋の隅にあるテレビが野球のナイター中継を流していた。

 カウンターの隅に腰を下ろしたに、お登勢はお手拭きを手渡してくれた。

「何にする?」
「それじゃ、ビールを」
「はいよ。つまみは適当に見繕おうか」
「お願いします」

 カウンターの中にはお登勢しかいなかった。調理道具や食器、酒瓶の配置を見ても、ひとりで切り盛りすることを前提に配置されている。カウンターの奥には暖簾がかかっていて、その向こうは居住スペースになっているようだった。

 つまみを盛りつけた皿と、グラス持ってきたお登勢は、のために瓶からビールを注いでくれた。

「うちみたいな店にこんな若いお嬢さんが来てくれるなんてね。珍しいこともあるもんだ」
「いただきます」

 は泡と金色の液体がちょうどいいバランスで注がれたグラスを軽く持ち上げてそっと口をつける。きんきんに冷えたビールは強い苦みを伴って喉を転がり落ちて、思わずため息がこぼれた。

「美味しいです」

 お登勢は満足げに笑った。

「ここらじゃ見ない顔だね。どっから来たんだい?」
「すぐ近くです。でも、こっちの方に来たのは今日が初めてで」
「へぇ、なんでまたかぶき町に? 女ひとりで物騒だろう」

 は何と答えていいものかとっさに思いつかず苦笑いした。銀時の胸ポケットからくすねたマッチ箱を頼りにここへ来たと正直に答えたら、お登勢はどんな顔をするだろう。銀時と深い仲にあると誤解されるだろうか、事実ではないことをそうだと思い込まれるのは困る。けれど、深い仲でもないのにマッチ箱ひとつにこだわってこんなところまで来てしまった自分はそもそもどういうつもりなんだろうか。昔馴染みとして銀時の行動を知っておきたいという言い訳は通用するだろうか。
 自分自身の気持ちすらだましきれていないのに、上手な嘘をつけるとはもはや思えなかった。

 興味深そうに自分を見つめているお登勢の、何もかも見透かしているような瞳を見つめ返して、はこの人の前ではどんな建前も誤魔化しも通用しないことを痛感した。

「すいません、こんなことを聞くのは何なんですけれど、坂田銀時という人はここにはよく来るんですか?」

 その名前を聞くなり、お登勢は片方の眉をはね上げた。

「あんた、あいつの知り合いかい?」
「はい。彼が副長を務めている真選組で、私は屯所の家政婦をしています」
「そうかい、それならそうと早く言えばいいのに」
「すいません」
「あいつにこんなに美人の彼女がいただなんてねぇ、全く水臭いんだから」

 想像通りの誤解が生まれたことに、は苦笑した。

「そういう誤解をされたくなくて、言いづらかったんです」
「なんだ、違うのかい?」

 お登勢はからかうような顔をして首を傾げる。
 はビールで唇を湿らせてから答えた。

「お互いの子ども時代を知っているだけです。幼馴染なんです」
「どっちにせよ、あいつにそこまで親しい人間がいただなんて初耳だよ」

 お登勢の赤く塗った唇が弓形にしなり、袖の下から煙草を取り出す。視線で許可を求められたので、はひとつ頷いた。マッチを擦って火を着け、紫色にけぶる煙を吐き出しながらお登勢は続けた。

「なんであいつと一緒にこなかったんだい?」
「実は、銀さんにはないしょなんです」
「へぇ、そうかい」

 それを聞いて、お登勢は何もかも察したように訳知り顔で笑った。その笑顔にかなう気がしなくて、はつまみを口に頬張って黙り込んだ。きっとお登勢は自分の考えていることなぞ全てお見通しなのだ。銀時がどんな女の子のためにこのスナックに通っているのか、それが気になっていてもたってもいられなくなったこと。そんな動機でたったひとりスナックの暖簾をくぐった自分を、お登勢はどう思うだろう。それを知るには勇気が足りなくて、は汗をかいたグラスを見つめるふりをして黙った。

 スナックのカウンターでひとりビール飲んでいるというのに、ものすごく子供っぽいことをしているような気がして恥ずかしかった。

「よぉ、こんな若いねーちゃんがいるなんて珍しいこともあるもんだな!ちょっとこっちで酌してくれよぉ」

 と、頭にネクタイを巻いた薄毛の男が、横から突然にゅっと顔を突っ込んできた。は背中をのけぞらせて飛び退いた。

 酒臭い息が鼻先を襲って、は思わず眉をしかめる。黄ばんだすきっ歯が目の前にあって、鯨が小魚を飲み込もうとでもするようにそれは目の前に迫ってくる。酒臭い息を吸い込まないように息を止めるだけで精一杯で、それがいっそうの体を縮こまらせた。

 助け舟を出してくれたのはお登勢だった。

「こら、この子は大事なお客なんだ。あんななんかの相手はさせらんないよ」

 お登勢は煙草の煙を男に吹きかけ、男は煙にむせてげほげほと咳き込んだが、咳はそのまま笑いになって店中に響き渡った。

「はっはっは! なんでぇ、相変わらず冷てぇな、お登勢はよぅ!」
「酌してほしいなら私がしてやるよ」
「ババァに注いでもらってもうまかねぇんだよ」
「ほぅ、そうかい。そんならあんたに出す酒はもうないね」
「そいじゃ、ババァの出汁がきいた握り飯でも出してもらおうか。あればっかりはお登勢が握ってくれねぇとな」
「分かったから、大人しく座ってな」

 犬を追い払うようにしっしと手を振ったお登勢に従って、男は大人しく席に戻っていった。

「堪忍しておくれ、悪い奴じゃないんだよ」

 と、お登勢は煙草の火を潰して手を洗いながら言った。
 はまだ少しどきどきしながら首を振る。

「いいえ、そんな」
「せっかく来てくれて悪いけど、あんまり遅くならないうちにあんたもお帰りよ。若い娘がひとりでふらふらしていい時間じゃない」
「すいません、ご迷惑おかけして」
「迷惑だなんて思ってないさ。ただ、次に来るときはあいつと一緒においで。そうすりゃ変なのに絡まれなくて済むからね」

 変なのとはなんだ!? とカウンターの反対側から大声が聞こえて、客が一斉に笑った。お登勢も声は出さずに微笑み、やんちゃな子どもを見守る母親のようだった。それを見て、はこの店へ足を踏み入れて初めて心からおかしくて笑った。胸の奥からふわりと暖かい気持ちが湧いてきて、その心地良さに酔いがまわる。気がつけばグラスが空になっていた。

 お登勢はの目の前で握りたてのおむすびと漬物が乗った皿を差し出した。

「それを食べたら帰りな」

 はおむすびを手にとって、その形の良さに見惚れた。にぎり立てのおむすびは温かく、巻きたてののりはまだぱりぱりだった。







20190825