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 その日の午後、は真選組屯所を出てとある場所へ向かった。官僚やセレブ、資産家の自宅が密集している高級住宅街である。その中でも特に広大な敷地面積を誇るのは、警察庁長官・松平片栗虎の屋敷だ。

 は敷地の西側に位置する通用口の門をくぐると、顔なじみの門番に笑って会釈した。

「森田さん、お久しぶりです」
「あぁ、さん。いらっしゃい。お元気でしたか?」
「おかげさまで。いつものお部屋でいいかしら」
「はい、そのように仰せつかっています。旦那様もついさきほど戻られていましたから、お待ちだと思いますよ」
「ありがとう」

 使用人専用の土間から屋敷に上がり、廊下を何度か折れてその部屋にたどり着く。廊下に膝をついて声をかけたが反応がなかったので、は先にその部屋に入って待つことにした。飾り気のない質素な造りで、三方が壁に囲まれた部屋だった。卓が一脚あるきりだが、それはよく磨かれていての顔がくっきりと映るほどだ。

 ほどなくして、ほとほとと廊下を踏みしめる足音が聞こえてきた。は膝を引いて頭を下げて屋敷の主を迎えた。

「おぉ、ご苦労さん」

 暗い洞窟に響くような深い声の主は松平片栗虎だ。

「いたみいります」
「楽にしな」
「はい」

 顔を上げると、松平の後についてきた女中が卓の上に茶と菓子を並べていた。もよく知っている壮年の女性で、目を合わせると元気づけるように笑ってくれた。

「どうだい? 調子は」

 女中が退出してから、松平は口を開いた。

「はい。とてもいいです」
「そうかい。それじゃ、報告を聞こうか。どうだい、あいつらの様子は?」

 はお茶で喉を潤してから話しはじめた。

「皆さん、市中の見廻りと剣術の稽古で忙しくしているようです。特に近藤局長と土方副長は」
「局長と副長自ら見廻りか」
「はい。今日も朝一番に号令をかけて出て行かれました。ふたりを中心によくまとまっていると思います。もめ事がないわけではないですけれど、おおむねみんな楽しそうです」
「あんまり楽しそうにされても困るんだがな。もめ事って言うと、浪人を斬り殺したまま道に放り出してったっていうあれか?」
「ご存じだったんですね」
「あぁ。確か、坂田とか言ったか。あいつの噂はよく聞いてるよ」
「その件については、私からお伝えするより正式な報告書を読んでいただいた方が詳しいと思います」

 松平は煙草に火を着けて、渋い香りのする煙を吐く。

「その坂田って奴はどういう奴なんだ? 確か、その腕を買われて副長になったんだったな」
「はい。ひと言で表現するのは難しいんですけれど……、例えるならクラスにひとりは必ずいる問題児、っていうところでしょうか」

 松平は咳をするように笑った。

「まぁ、元々が悪ガキの寄せ集めだからな」
「みんな根は親切ないい方達ばかりですよ。外見で誤解されがちですけれど」
「そりゃ、お前さんみたいな美人に不親切な男がいるもんかよ」

 は照れくさそうに笑って、もう一口お茶を飲んだ。

 が真選組の家政婦として働き始めたのは、松平の斡旋があってのことだ。は元々、松平の屋敷で住み込みの下働きをしていた。屋敷の掃除、洗濯などを担当する雑用係のようなものだったが、人一倍よく働く生真面目な性格と人当たりのいい笑顔が幸いして、下働きの仲間達はもちろん、屋敷の主である松平にも気に入られていた。

 真選組が幕府お抱えの機関となり、専属の屯所を構えることになった時、は松平の頼みで住み込み家政婦の仕事を引き受けたのである。

「あんなごろつきの集まりの場所にお前さんを放り込むのは気が引けるんだがなぁ……」

 松平は葉巻を口に咥えながら、言い訳をするように言った。

「民間の家政婦斡旋所に依頼してみたんだが、あんな浪人上がりの連中が集まる場所に社員は派遣できないとつっぱねられちまってな。まぁ、心配する気持ちも分からなくはねぇし、将軍護衛の任務に成功して幕府の信頼は一応勝ち得たが、民間人にもそれを分かってもらうにはまだ時間がかかるんだろう。住み込みとはいえお前さん専用の離れをちゃんと用意してやるし、身の安全は保障する。悪いが、頼まれちゃくれねぇか?」

「松平様からのご命令なら、お断りする権利は私にはありません」

 は畳に両手をついたまま、顔を上げずに答えた。松平にはときたま仕事中に声をかけられて他愛のない世間話をすることはあったが、一対一で顔をつき合わせたのはこの時が初めてだった。使用人を通じて呼び出しを受けた時は一体何を言われるかとびくびくしたけれど、心配していたあらゆる最悪の事態と比べればなんてことのない話だった。むしろ、松平が何をそんなに心配しているのか、にはいまいち理解できなかったくらいだ。

 松平は心配そうに眉をしかめて言った。

「けどな、浪人上がりのおっかねぇ野郎どもの世話をしなきゃならねぇんだぞ? 一応、攘夷浪士を取り締まる特別警察ということにはなっているが、生まれも育ちもお世辞にもいいとは言えねぇ連中の集まりだ。お前さんみたいな若い女がひとりで中に入って行ったらどうなるか」

「それでも私にお声がけなさるということは、他の使用人には断られたということではないんですか?」

 どうやら図星だったらしい、松平はむっと口を噤んで俯いてしまった。

 は松平の愛娘である栗子を溺愛している。おそらく、娘と年の近い娘が男所帯でひとり働くということを本心から心配してくれているのだとは推測した。松平の表情からはその心遣いが十分すぎるほど伝わってきた。

 は松平を安心させてやるため、笑顔を作って顔を上げた。

「松平様。私は幼い頃、寺子屋と道場を持つ方に育てられました。そこは身寄りのない子や貧しい家に生まれた子ばかりが通っていて、こういっては何ですが、悪がきばかりが集まっていた場所です。私は十代の後半までそこで育ちました。男所帯には慣れています。大丈夫です」
「本当に行ってくれるのか? 俺も無理強いはしたくねぇんだ」
「はい、もちろんです」

 松平は葉巻を灰皿に押し付けて火を消すと、両膝に手を置いて改まって言った。

「ありがとうな。お前さんが働きやすいように、できるだけのことはしよう。何かあったら遠慮なく俺に知らせろよ。それから、定期的にここへ来て、あいつらが屯所でどんな様子か知らせてくれ。俺も常に目を光らせているが、千里眼を持っているわけじゃねぇからな、どんなに些細なことでもいいからな」

「分かりました。必ず、お知らせします」
「感謝する。よく働いてくれ、お前さんを頼りにしているよ」

 松平の言いつけを守って、は寅の日ごとに松平の屋敷を訪れている。一介の家政婦であるが知りえることはたかが知れていたが、松平はどんな些細な情報にも真摯に耳を傾けてくれた。隊士達の仕事や稽古の様子はもちろん、食堂の人気メニューや隊士達の休暇の過ごし方まで、松平は幅広い分野に興味を示した。旧型のガスコンロが不調だと訴えれば、次の日には最新型のコンロを設置してくれた時にはもさすがに恐縮しきりだった。

 けれどそれは裏を返せば、松平がそれほどまで真選組に、ひいてはに目をかけてくれている証拠だ。身分違いも甚だしい自分達にここまでしてくれる松平はとてもよくできた為政者なのだとは素直に信じて慕っていた。

 そして、が松平の屋敷に足しげく通う理由はもうひとつある。

さん、これ、松平様からです」

 屋敷から去る際、馴染みの家政婦が帰り際に持たせてくれる紙袋には、庶民にはとうてい縁のない高級な菓子が包まれているのだ。

「ありがとうございます、では遠慮なく」

 ほくほく顔でそれを受け取るは年相応に若々しい表情で笑う。

 真選組の家政婦など誰もやりたがらない仕事を進んで引き受けたの苦労を押しはかるだけの想像力のあるものは皆、その笑顔に同情したが、はそんな心配はどこふく風、大きな紙袋を手に提げて軽やかな足取りで家路についた。








20190729