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目覚まし時計が3度鳴ったところで目を開けて、5度目のアラームを腕を伸ばして止める。時計の針は5時を指している。
は布団から出ると、伸びをしながら洗面所に向かった。顔を洗って、髪を整えて束ね、歯を磨いて軽く化粧をする。部屋に戻って手早く着物を着がえ、雨戸を開けると朝日が金色に光って空を染め上げていた。
この景色を見るのにももうすっかり慣れたものだ。
は時計を気にしながら、てきぱきとした足取りで食堂の厨房へ出勤する。袖をたすき掛けにしてから灯りを点けると、すでに3台の炊飯器がほのかに甘い匂いのする湯気を上げていた。電気ポットの電源コードを繋いで、昆布を浸して出汁をとっておいた鍋の中身を確認してから火にかける。昨夜仕込みをしておいた鮭の切り身、小松菜、油揚げ、豆腐を作業台の上に並べ、時計を見る。ちょうど、五時三〇分。朝は時間との勝負だ、さっそく調理に取りかかる。
出汁が沸騰するまでの間に野菜をきざみ、調味液がよくしみ込んだ鮭を焼く。三〇分ほど黙々と作業していると、パートの家政婦さんが出勤してきたので、食器と醤油さしと箸とお茶を準備してもらう。それから漬物を盛り付けるのと、付け合わせの海苔と卵と納豆を用意してもらって、その間に鍋の火加減を見る。味噌を溶いてひと煮立ちさせてから火を小させれば、それでひと段落だ。時計を見ると、ちょうどいい時間だった。
の読みどおり、廊下の方からどやどやと騒がしい気配がして、ほどなく姿を見せたのは朝稽古を終えた隊士達だ。中には汗のにじんだ着物のままで、額に汗を光らせているものもいる。
「おはようございます。お稽古、ご苦労様です」
「
さん、おはようございまーす!」
「あー、腹減ったー!」
元気がいいのは清々しくていいことだが、盆を手に取ろうとする隊士を、
は笑顔で制した。
「食事の前には手を洗ってきてくださいって、いつも言ってるでしょう」
「えー、いいじゃないですか、別に」
「そうですよ。別に手づかみで食べるわけじゃないんだし」
「だめなものはだめです。言うこと聞かない人にはご飯よそってあげませからね」
えぇー、と不満そうに抗議する隊士を、
は軽くあしらってしまう。しぶしぶ引き返していく隊士達を、すでに隊服を着て身なりを整えた隊士達がすれ違いざま笑ってからかう。みなひとりやふたり殺したことがあると言ってもおかしくない強面だが、その口元に浮かぶ笑みは穏やかだ。それにつられて
も笑った。
真選組の隊士は全部で三十名ほどで、全員分の食事を用意するだけでもひと苦労だ。それでも
はこの仕事をちっとも苦に思っていなかった。むしろ楽しんでいた。はじめこそ、この強面で屈強な男達を相手にうまく立ち回れるかどうか不安を覚えることもあったけれど、元々、幕府のために命を懸けようと集まった人達だ。根は素直で優しい人達なのだ、それが分かってからは不安の欠片もなくなった。
続々と食堂に集まってくる隊士達ひとりひとりに挨拶をしながらご飯と味噌汁をよそう。
は一日の内でこの仕事が一番好きだった。
食堂の席が半分ほど埋まって、ほどよく騒がしくなってきたころ。
ひと際騒がしい声と足音が外から響いてきて、
だけなく隊士達の目線が入り口に集まった。
「だぁかぁらぁー! 仕方がなかったって言ってんだろうが!!」
「何が仕方なかっただ! 言い訳すんな!」
扉を引いて姿を見せたのは、坂田銀時と土方十四郎だ。
銀時は隊服の襟をだらしなく開いていて、足元がおぼつかない。顔色が悪く、目の下にはくまが浮いている。その左手には刀を持ったままだ。一方、土方は稽古着で、竹刀の柄を握っていた。
「浪人三人も斬り殺しといて屯所に報告も入れず、隊服のまま飲んだくれるのがなんで仕方がねぇことなんだよ!」
土方の怒鳴り声に、銀時は耳をふさぐふりをしながら答えた。
「うるっせぇな。もう少し声押さえてくんない? 二日酔いで頭痛ぇんだよ」
「そんなことはどうでもいいからちゃんと説明しろ」
「何度も言ってんだろ。見回り中に突然襲われたから返り討ちにしてやったんだって」
「なんですぐに報告しなかったんだ? 今朝になってガキ共が遺体を見つけちまって大騒ぎになってるんだぞ」
「そんなことまで俺が知るわけねぇだろ。ったく少しは労われよな、ひとりで見回りしてたところで奇襲を受けたんだぞ? 生きて帰っただけでも褒めて欲しいもんだね」
「だからってその足で飲みに行っていい理由にはならねぇよ」
「これが飲まずにやってやれるかってんだよ、ったく、鬼の目にもなんとかって言うだろうが、お前には血も涙もねぇのか?」
「てめぇの勝手でしたことだろ。同情の余地なんか米粒ひとつぶ分もねぇ!」
「そんなんだからお前はモテねぇんだよ」
「誰がモテねぇだ!? それとこれとは関係ねぇだろ!?」
「あーうるっせぇ! いいからちょっと黙ってろよ!
ちゃん、ちょっと、味噌汁だけくんない?」
カウンターに肘をついてうなだれながら言った銀時に、
は目を細めた。
「それよりも薬を飲んだ方がいいんじゃない?」
「じゃぁそれも一緒に」
土方が口を挟む。
「馬鹿野郎。ここは医務室じゃねぇんだよ。こんな奴にかまうことねぇぞ、
」
「味噌汁は出せますけど、その前にちゃんと手を洗ってよ、銀さん」
「えぇー、別にいいじゃんー」
「だめなものはだめ。昨夜そんなことがあったならお風呂に入ってきてほしいくらいよ」
「そんな冷たいこと言うなよー」
ぐずぐずと駄々をこねる銀時の背中を、土方が掴むと銀時の耳元で怒鳴った。
「飯なんか後にしろ! 近藤さんの前で全部話せ!」
「だから、今話したことで全部だって! 勘弁してくれよ、全然寝てなくて疲れてんだよ俺……」
「知るか! 一晩徹夜したくらいで生言ってんじゃねぇ!」
土方は銀時の胸倉を掴んでゆすぶる。
「ちょっ、やめろそんな急に揺らすなって……!」
その瞬間、銀時は青ざめて口元を押さえる。そして、とっさに
が差し出したどんぶり茶碗の中に勢いよく嘔吐した。
驚きと嫌悪感とでとっさに手を離して飛びのいた土方は、かろうじて飛沫を浴びなかった手をそれでも不快そうにぶんぶん振った。
「銀さん? 大丈夫?」
コップ一杯の水を差し出しながら、
が言う。
「ぎぼぢわりぃ……」
と、銀時はうなるように呟いた。
土方は仕方がなさそうにため息をつくと、「山崎」と声を張る。それに答えたのは、中肉中背のこれといって特徴のないひとりの隊士で、土方の無言の言いつけに従って銀時を食堂から連れ出していった。そこにいた全員が、床を引きずる銀時の足が扉の向こうに消えていくのを見ていた。
銀時は何かにつけていつもこうだ。見た目も行動もやけに目立って、粗野で下品な物言いは聞くものに強烈な印象を埋め込んでしまう。その一挙手一投足を見逃してしまうのを惜しいと思わせるほど、無様でみっともなくて、けれどなぜか憎めない。銀時を見送った隊士の顔には、もれなく笑顔が浮かんでいた。
やがて元の喧騒が戻った食堂で、土方はただひとり呆れた顔をして頭を振った。
「ったく、とことん手の焼ける野郎だぜ」
「朝からご苦労様です」
は言って、酸っぱい匂いのする吐瀉物を生ごみ入れに落としてどんぶりを水にさらす。両手を念入りに洗ってアルコール消毒してから配膳に戻ると、土方がまだ同じ場所に立っていた。
を見つめる、そのまなざし。まるで的を狙う射手か、獲物をねらう獣のようだ。つま先から頭のてっぺんまで観察されているような気がして、
は体を強張らせた。
「何か御用ですか?」
土方はとぼけた顔で答える。
「いや、別に」
「朝食を召し上がるんなら、手を洗ってからいらしてください」
「分かってるよ」
その時、ちょうど食堂にやってきたのは、つい先ほど
に追い返された隊士達だった。着物と袴の稽古着のままだったが、手と顔を洗って小ざっぱりしている。襟と袖が水に濡れているのが彼らの大雑把な性格を物語っているが、
はそれを咎めなかった。
「
さん、言われたとおり洗ってきましたー」
と、まるで子どものように見れば分かることを報告してくるものだからおかしくて、
もつい、
「はい、よくできました」
などと保護者めいたことを口走ってしまう。それでまた笑いが起こって、なごやかな雰囲気がふんわりと広がった。
話の腰を折られた形になった土方は、しかつめらしい顔をして食堂を出て行く。からっぽの腹を抱えた隊士達は真選組の副長に向かってずいぶんとなおざりな挨拶しかしなかったが、土方はそれを気にした様子もなく部下達のために竹刀を持ち直して通路を空けた。
は、なんとなくその後ろ姿が見えなくなるまで目を離せなかった。
なぜ土方はあんな目をするのだろう。何か土方の気に障るようなことをしただろうか、思い出そうとしたけれど、ぞくぞくとやってくる隊士達の配膳に追われて、忙しさに紛れてしまった。
20190505