あの子の中の獣







が旅立ったのは、太陽も登りきらない早朝だった。

は誰も目を覚まさないうちに起き出し、そっと荷物をまとめて身支度を整えると、よだれを垂らしながら眠っている銀時の寝顔をしばらく眺めて別れを惜しんでいた。その後ろ姿は子どものように頼りなく、銀時のそばを離れるためにどれだけの勇気を振り絞ったのかは想像もできない。やっと立ち上がったに向かって、高杉は小さな声で言った。

「本当に行くのか?」

はびくりと肩を震わせ、くるりと視線を巡らせる。高杉が戸口のそばに立っているのを見つけると、呆れたような顔で微笑んだ。

「ずっと起きてたの?」

の言うとおりだった。高杉はその夜一睡もせず、銀時の隣で静かに眠るの寝顔を眺めていた。

「嫌だな。辛くなるから、黙って出ていこうと思ってたのに」

「挨拶もなしに出ていくなんて、随分だな」

「挨拶なら昨日したでしょ」

は必要最低限のものだけ詰めた小さな荷物を持って、迷いなく戸口を通り抜けようとした。高杉は思わず、戸口に手をついての行く手を遮った。

「行くなよ」

は高杉の腕をじっと見つめて押し黙った。

高杉は怒っていた。がここを離れていくという現実が受け入れられなかった。ここには銀時も、桂も、を慕っている子どもたちもいるというのに。これから松陽を救い出そうというときに、どうして他でもないが真っ先にここを去らなければならないのだ。

「お前がいなくなったら、困る」

高杉の声は、頼りなくかすれていた。は高杉を見上げて、困ったように笑った。

「お前なんか出て行けって言った口で、今は正反対のことを言うのね」

「そんなこと言ったか?」

「言ったわよ。私に養女にならないかって話があった時に。覚えてない?」

その話は、が浪人に強姦されたことをきっかけに、うやむやになってしまった。おそらくは、どこの誰とも知らない男に犯されたの価値が下がったのだろう。あの商家は身元のしっかりした娘を養女に迎えたらしいと、風の噂で聞いた。

確かに、あの時はその方がの幸せのためになると思っていたから、内心とは裏腹なことも言ったのかもしれない。けれど、が本心では、銀時のそばにいたいと思っていることは、高杉には分かっていた。それについての口からは何も聞いたことはなかったけれど、高杉には確信があった。

「本当はここに残りたいって思ってるんだろ?」

高杉は真っ直ぐにを見つめて問うた。これがを引き止める最後のチャンスだった。が行ってしまったら、仲間たちは泣くだろう。銀時や桂は顔に出さないだろうけれど、やりきれない気持ちを抱えて苦しむことになるだろう。高杉も同じだ。がいなければ、体から大切なものが抜け落ちてしまいそうに思えた。

は困ったように微笑んだまま、首を横に振った。

「思ってないわ。私がここに残ったら、皆の足でまといになるもの。私、戦えないもの」

「刀使えなくたってやれることはある」

「ないわ。分かってるくせに」

「分かんねぇよ」

どう言ったら、が本心を口にしてくれるか、高杉はそればかり考えていた。がいなくなるだなんて、耐えられなかった。銀時や桂を引き合いに出しては自分に言い訳をしていたけれど、本当は違う。誰よりも、高杉自身がと別れたくなかった。ここで別れてしまったら、きっともう二度とと会うことはできない。

「松陽先生がよく言ってたわよね。それぞれの武士道を胸に掲げて、それぞれの侍になれって。皆はきっとこれから、それぞれの思う侍になっていくんでしょうね」

「何だよ、急に?」

「私、皆が羨ましかったわ。身を立てる術があって。でも、私には何もないの。結婚が女の幸せらしいけどそれもできなかったし。だったら、松陽先生に拾ってもらった命を大切に生きていきたいって、思ってるのよ」

はそう言うと、行く手を遮る高杉の腕を押しのけようとした。が踏み出す一歩に迷いはなかった。真っ直ぐに前を見つめる瞳は、高杉の姿さえ映していなかった。悪あがきだと分かってはいたけれど、気持ちを抑えることができず、高杉はの手首を掴んで引き止めた。

「行かないでくれ。頼むから」

それは懇願だった。自分が情けなくて仕方がなかった。けれど、他にどうすればいいのか分からなかった。

は言うことを聞かない子どもをなだめるような顔をして笑っていた。

「私、ずっと高杉くんには嫌われてるんだと思ってたわ」

「はぁ?」

「だって、高杉くんは意地悪だったんだもの。私は泣き虫で甘ったれだったから、だから高杉くんは私のこと嫌いなんだって思って、そんな性格は直そうって頑張ったのよ。強くならなくちゃって思ったの」

は高杉の手に自分の手を重ねる。そして、その手のひらの温度を確かめるようにぎゅっと力を込めた。

「引き止めてくれて、嬉しい。でも、私は行くわ。一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい」

高杉は、返す言葉が見つからなかった。強く真っ直ぐなの瞳に見つめられ、その力強さに体を縫いとめられてしまったようだった。の手から自分の手が引き剥がされるのを、まるで別の世界の出来事のような気持ちで眺めていた。

「さようなら」

別れの言葉を最後に歩き出したは、一度も振り返らなかった。その姿が消えて見えなくなるまで、高杉は呆然との姿を見送った。




松陽を助け出したら、が戻ってくるかもしれないという淡い期待もあった。天人を斬り、ただ戦いに明け暮れる日々を送りながら、がどこか遠い空の下で幸せに暮らしていることを想像して心を慰め、いつかまた松陽の元で仲間と笑いあえる日々を夢見て、高杉は刀を振るった。あの日殺した浪人に比べれば、天人を斬ることなどどうということもなかった。ただ、松陽を救う。あの懐かしい日々を取り戻す。それだけを考えて戦っていた。

そんな戦いの日々に終止符を打ったのは、銀時だった。松陽が死んで、高杉は銀時を恨んだ。それからしばらくは、体が焼けてしまいそうな恨みや憎しみを抱えて悶え苦しみ、真っ暗なトンネルの中で出口を探してもがき続けるような日々だった。

ある日、ぽっかりと空いた穴から見つけたのは、別れの日に見た、の困ったような笑い顔だった。

は、銀時が松陽の首をはねたことを知ったら、どう思うだろう。は銀時を人一倍大切に思っているから、怒ることも責めることもできず、悲しみのやり場を失って苦しむのかもしれない。それとも、銀時を慰めてやるのかもしれないし、銀時の代わりに泣いてやるのかもしれない。

が大切にしているのは銀時だ。けれど、高杉が銀時を殺そうと決意したとき、そこには一片の迷いもなかった。もし銀時が死んだら、は泣いて泣いて泣いて、精神を病み、壊れてしまうかもしれない。

高杉は、そうなるならそれで構わなかった。松陽を殺した銀時を憎めず、銀時を殺した高杉を憎めず、体の中にジレンマを溜め込んで爆発させてしまえばいい。そうすればきっと、松陽が地獄の底でを待っていてくれるだろう。そうなるまで、せいぜい人並みの幸せとやらを味わっていればいい。





高杉がうたた寝から目を覚ますと、一面に星の海が広がっていた。どちらが上か下かも分からない暗闇に飲まれて、足元がふらつきそうになる。何度か瞬きをして眩暈をこらえ、高杉は部屋に近づいてくる音のない足音に耳をすませた。

「あれ? ここにいたの」

貼り付けたような笑顔と芝居がかったせりふで現れたのは神威だった。

「女がそばにいないなんて、珍しいね」

神威が女と呼ぶのは、来島また子だ。高杉の護衛をすると言って、付かず離れずそばにいるのが常で、姿が見えなくともその銃弾が届く範囲に必ず身を潜めている。けれど、神威がいないと言うのなら、その必要最低限の防衛ラインの内側にはいないということだ。

神威はスキップするような足取りで部屋を横切ってくる。高杉は神威のアホ毛の先から足のつま先までを睨めあげて、眉根をひそめた。

神威はそれを目ざとく感じ取って、小首を傾げて言った。

さんに会ってきた」

高杉は帯に差していた煙管を手にとって、くるくると回して弄んだ。

「どうりで女くせぇと思った」

「あれ? 驚かないんだね?」

「最近、攘夷志士の間で噂になってるそうじゃねぇか。お前が興味示すのも時間の問題だと思ってたさ」

「そうなら言ってくれればいいのに。シンスケの昔の女なんだろ?」

「違ぇよ。あいつは昔から銀時のもんだ」

「ふぅん。今は別の彼氏がいるような口ぶりだったけどね」

「なら銀時とも終わったってことだろ」

「冷たいなぁ。何をそんなにかりかりしてるのさ?」

神威は踊るようにくるりと身を翻し、壁に背を預けて腕を組む。桃色の長い三つ編みが、神威の肩に引っかかって揺れる。下手な芝居を見るのに飽きて、高杉は星の海に視線を投げた。眩暈を覚える暗闇。

神威は楽しそうに、ひとりで口を動かした。

「かつて、高杉と白夜叉が奪い合った女だって噂は聞いてたけど、拍子抜けするくらい普通でびっくりしたよ。一見しただけじゃちょっと分からなかったな。けど、俺がどういうものかはすぐに理解したみたいだよ。それを分かっていながら、怯えるでも逃げ出そうとするでもなかった。バカに耐性があるのかな? シンスケや白夜叉と一緒にいたんだからありそうなことだけど、強い女だね。どんな子を産むのか楽しみだ」

強い女。その言葉を聞いて、高杉の脳裏に、汚らしい浪人に犯されてその血を全身に浴びたの姿がフラッシュバックした。あの時、は一度死んだのだと、高杉は思っている。高杉が振り下ろした刀はを傷つけ、を犯した浪人を殺した。その出来事は高杉の胸の内にも深い傷を残していて、どれだけ天人や幕府の犬を斬り殺そうが、その傷は癒えるどころか深みを増した。

はきっと、幸せになるのだと思っていた。養女に出るにしろそうでないにしろ、誰かいい人を見つけて、松陽の元からそこへ嫁いでいくのだと思っていた。けれど、そうはならなかった。そうさせなかったのは、高杉だ。あの時の刀傷は、今も消えずにのこめかみに残っている。その傷を抱えたまま、は今、幕府の犬に抱かれている。

高杉は、腹の中から湧いている笑いをこらえようとして、喉をくっくと鳴らした。

「強い、なんてもんじゃねぇ。あいつの中にも俺たちと同じ獣がいるのさ。俺達がそうしたんだ」

高杉は口元をにやりと歪ませて、宇宙の深い闇を睨んだ。神威はそれを、にんまりと笑いながら眺めていた。






は怒っていた。他でもない、土方に対してだ。

隊士達は、「怪我の原因を作った沖田にはちっとも怒らなかったのに、副長は一体さんに何をしたのだ?」と、小さな騒動になった。

「いい加減、機嫌直せよ」

土方は救急箱を片付けているの背中に向かって言った。はついさっきまで、神楽との決闘で怪我をした沖田の手当をしていて(何ともなさそうなかすり傷に絆創膏を貼ってやっていた。)、その間ずっと土方を無視していた。

話の内容が内容だっただけに、土方にもやましい気持ちがないわけではない。けれど、そもそもあれは銀時が言い出したことだったし、その話を聞いたところで土方はなんとも思わなかったのだ。そもそも、はなぜその記憶を思い出したことを沖田に話すのか、土方にはまるで意味が分からないし、少し様子を見に来ただけのつもりがタイミングが悪く立ち聞きするような格好になったことも単なる偶然だった。

それをすべて説明したというのに、はへそを曲げたまま土方の話を聞こうともしなかった。

「悪かったって言ってんだろ?」

「放っておいてください。今、土方さんとお話したくありません」

はちらりと土方を睨みつけ、つんとそっぽを向いた。そのあんまりな言い方に苛立ちが募って、土方はの手首を力任せに掴んだ。

「おい、

「痛っ! ちょっと、土方さん……!?」

は土方に顔を覗き込まれ、ぐっと声を詰まらせる。なんとか顔を背けて知らんぷりを決め込もうとしたけれど、土方は掴んだ腕をぎゅっと握りしめて圧力をかけた。

「言いたいことがあるならはっきり言え」

は何も言うまいと口を引き結ぶので、土方は煙草の煙をの顔に吹きかけた。は唐突なことに驚いて大きく咳き込んだ。

「ちょっと! 何するんですか!?」

「てめぇが何も言わねぇから悪ぃんだろうが」

「話したくないって言ってるでしょう」

「餓鬼の頃に強姦されたって話がそんなに恥ずかしいかよ?」

は頬を殴られたような顔をして、呼吸を止めた。煙草の煙が滲みたのか、涙目になっている。土方はの手首を握った手の力を緩めないままその瞳を睨みつけた。

「お前がそれを気にすんのは勝手だけどな、俺はそんなことどうでもいいんだよ。それでも気がすまねぇことがあるんならちゃんと言え」

は複雑な顔をして、じっと土方を睨みつけた。じりじりとした沈黙が続く。も土方も、どちらも引かなかった。

結局折れたのはで、喉から絞り出すような声で言った。

「……土方さんには、知って欲しくありませんでした」

「もう知っちまったもんはしょうがねぇだろうが」

「そうですけど……」

「それを責めるなら万事屋の野郎に言え」

は土方から視線をそらし、ため息をついた。銀時はどうして土方にあのことを話したのだろう。そんなことは、には考えなくても分かっていた。

これは、銀時の仕返しだ。高杉のことを忘れていたに、銀時の中の獣が爪を立てたのだ。この世で一番高杉の気持ちを分かっている銀時は、そうやってを困らせている。

だから、が土方に腹を立てることはただの八つ当たりだ。土方が怒るのも無理はない。

けれど、は困り果て、土方に何をどう話せばいいのかまるで分からなかった。高杉との思い出は、きらきらと輝く宝石のようにの宝箱の中で眠っている。それを引っ張り出して土方に話して聞かせようという気にはならなかった。土方だって、昔の男の話をたんたんと聞かされても腹が立つだけだろうし、相手は超一級の指名手配犯だ。そんなもの笑い話にもならない。

は途方に暮れて、力なく土方を睨みつけた。泣き出しそうな気分だった。

「……ごめんなさい。ただの八つ当たりです」

「あぁ?」

「でも、本当に、なんて言えばいいのか分からないんです。頭の中がぐちゃぐちゃで……。だから、少し放っておいてくれませんか? ひとりになって頭冷やしてきますから」

土方は少し考え込んだ後、胸ポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草の火を消した。の手は、力を入れて握り締めたままだった。

「土方さん。手、離してください」

は握られた手を振りほどこうと力を込める。もちろん土方の腕力に敵うはずもなく、手はびくともしなかった。

高杉がを引き止めたあの手は、ほんの少し力を込めただけでするりと外れてしまったことを思い出して、は胸を詰まらせた。あれはまだ頼りない、つるりと滑らかな少年の手だった。けれど今、の手を捉えて離さないのは、無骨で傷だらけの、大きく乾いた手のひらだ。

土方はぐいと手を引いての体を引き寄せると、いっそ攻撃的な眼差しでの瞳を射た。

「誰が離すかよ」

荒っぽく唇を塞がれて、は目を閉じる。土方の手がこめかみの傷痕に触れ、それで全てが許された。

土方の中の獣がを貪る。それは独占欲にも似ていてを傷つけもしたけれど、の柔らかな爪先が土方の胸元に残した痕に比べれば、どうということもなかった。





20150629