愛も痛みも もっと







沖田がの部屋を訪れたとき、は机に突っ伏して眠っていた。傍らには、ボタンが外れたり裾がほつれたり生地が裂けたりした隊服が山積みになっている。どうやら繕いものの仕事をしていたらしい。

沖田はの許可なく部屋に入っていいものか迷ったので、しばらく縁側に座ってが目を覚ますのを待った。どうせすぐ起きるだろうと踏んでいたのだけれど、待てど暮らせどは目を覚まさなかった。

近藤に釘を刺された上、隊士達の責めるような目線を受け流すのにもそろそろ飽きてきたので、顔だけでも出すかと気まぐれに足を向けてみたのだけれど、どうもタイミングを誤ったらしい。手持ち無沙汰でかなわなかった。

沖田は意を決して、のそばにかがみ込み、口元に手を添えて小声で言った。

さーん。そろそろ起きやせんかー?」

はよほど疲れているのだろうか、熟睡している。無理矢理目を覚まさせることは諦めて、沖田は肩を落とす。

あの日以来、の顔を見るのは初めてだった。顔に傷ができたと話には聞いていたものの、想像より大きな絆創膏がの片頬をほとんど覆うように貼ってある。

沖田はため息をついて、眠るに向かって呟いた。

さん。あんたはもう少し、まっとうな人間らしく泣いたり怒ったりしたっていいと思いますぜ」

は穏やかな顔で眠ったまま、やはり目を覚まさなかった。

沖田はしばらくの寝顔を眺めたあと、ふと思い至って屯所の近くにある空き地に行き、その片隅に咲いていたすみれの花を何輪か摘んで、の机に無造作に散らしておいた。

その日の夕方、土方と連れ立ってどこかへ出掛けるの姿を見た。絆創膏はそのままだったけれど、表情は穏やかだった。ふたりで食事にでも出かけたのかもしれないし、そのまま外泊するつもりなのかもしれない。

沖田はそれを、冷ややかな眼差しで見送った。





宿で食事を済ませた後、一風呂浴びてきた土方が部屋に戻ってくると、は鏡台の前に座っていた。どうやら顔の傷の具合を確かめているらしい。薄物の浴衣が包む背中は少し丸まっていて、背骨の線が浮き出ている。照明は部屋の隅に行灯がひとつあるきりで薄暗い。

土方はの背後に腰を下ろすと、鏡越しにと目を合わせた。

「わっ。びっくりしました」

は鏡の中で目を見開き、片手で怪我をした方の頬を隠した。その仕草が気に食わず、土方は鏡の中のを睨んだ。

「隠すことねぇだろうが」

は少し迷ってから、恐る恐る手を外した。擦過傷はほとんどかさぶたになっていて、頬は全体が赤く腫れている。完治するにはまだ時間がかかりそうだった。

「もう少しかかりそうだな」

「そうですね」

は微笑もうとしたけれど、かさぶたが引きつってうまくいかなった。

土方はの腰を掴んで引き寄せると、その顔を覗き込む。鏡越しではなく、間近で見る頬の傷口は痛々しく、それでも土方に気を遣って微笑もうとするがいじらしくて、その口元を親指で軽くつまんで引っ張った。

「無理すんな」

は土方の手を取って、泣きそうに目を細める。何か言おうと口を開きかけて、けれど言葉が見つからず、開いた唇をきゅっと閉じた。

土方はの頬の傷を眺め、腫れた頬の赤みに魅入る。土方にとってこの程度の傷は珍しくもないのだけど、それがのものとなると不思議と胸がざわめいた。静かな波が胸の奥から押し寄せてくるような感覚を覚えて、どうしようもなく興奮している自己を認識する。生々しい傷痕をさらけ出して無防備なに、欲情している自分に気がついて妙な気分になった。

土方はの傷の上に口付けて、舐めるように顔を押し付けた。はとっさのことにバランスを崩して倒れ込みそうになったけれど、その背を土方の腕が支えて、ゆっくりと畳の上に倒れこむ。

「土方さん、ちょっと待って……」

土方はの声には耳を貸さず、の耳を舐め、首筋を舐め、鎖骨を舐め、浴衣の胸元を開いてそこに自分の額を押し付けた。きつくの胸を吸うと、それに反応しての体がびくりと跳ねた。

「まだ、手当て終わってないのに……」

「別にいいだろ」

「良くないですよっ」

はぐっと力を込めて土方の肩を押した。土方の頑丈な体はびくともせず、逆にその手を取って畳に縫い止めた。そのどうしようもない非力さ。ふいに、の手から力が抜けた。まるで、手のひらから砂がこぼれ落ちるように。

「……? どうした?」

土方は体を起こしての顔を覗き込んだ。は土方から顔を背けるように横を向いて、目を見開いている。その瞳から大粒の涙がこぼれたと思うと、それは止めどなく溢れ出して畳に大きなしみを作った。

「す、すいません……。なんだか、突然、涙が……」

は戸惑って言葉に詰まる。涙はの意思に反して、堰を切ったように流れ出して止まらなかった。

土方はの頭の両側に手をついてその体の上に跨り、じっとの泣き顔を見下ろした。傷を負い、大粒の涙を流しながら、無抵抗に組み敷かれているはどうしようもなく魅惑的で、はだけた胸元の肌の白さが土方の目を焼いた。

土方はの頬に手を添えて視線を合わせる。そして、飢えた獣のような気分での唇に噛み付いた。深く舌を絡ませると、は嗚咽をもらしてうめいた。

土方はどうにかなりそうに興奮した頭の片隅で、昼間聞いた銀時の話を反芻した。

銀時が言うには、は子どもの頃、どこの誰ともしれない浪人に襲われて処女を奪われたらしい。けれど、そのことを本人は覚えておらず、銀時はそれが面白くないようだった。銀時の話すことだからどこまで信用していい話なのか分からないが、いつになく真面目な顔をしていたから、冗談ではないのだろう。

土方はこの話を聞いて、「だからどうした?」と、銀時を突っぱねた。

土方はの子ども時代にまるで興味がなかった。桂小太郎や高杉晋助といった攘夷志士と共に過ごしたというの子ども時代なぞ、どうでもよかった。それを根掘り葉掘り聞き出すほど心の狭い人間ではないつもりだし、むしろそんな記憶は闇に葬り去ってくれた方が土方にとって都合が良かった。何しろ、の素性が幕府の上の人間に知られてしまったら、どんなことに利用されるか分かったものではない。

何よりも、今、この腕の中にを抱いているという事実だけで、土方は充分だった。

「……土方さん、いたっ……!」

の体が熱く火照る。頬の傷も赤みを増して艶っぽく、涙に濡れて光っている。は苦しそうに訴えて、弱々しく腕をよじらせた。つい見境なく手を出してしまい、捻挫をして包帯を巻いていた手首を力任せに掴んでしまっていた。いつの間にか包帯の結び目がほどけて、ゆるゆると白い線が畳の上に広がっている。

「わりぃ、大丈夫か?」

土方が上ずった声で問いかけると、は恨みがましく土方を睨んだ。

「いたいです」

「わるかったって」

は嫌気がさしたらしく、土方の体の下から抜け出そうと体を起こした。けれど、土方はその腰を掴んで逃がさない。は強か肩を打ち付けて痛みに顔を歪めた。

「もう、土方さん、いいかげんにしてください……!」

「お前が抵抗すっからだろうが」

「わたし、怪我人なんですけど……」

「分かってるよ」

「分かってません!」

は怪我をしていない方の手で土方の胸を叩いた。その腕には全く力がこもっておらず、土方は痛くも痒くもない。土方はがどんなに泣こうが喚こうが、一向に手を止めなかった。の足を開いて手をすべらせると、蝋のように溶けてしまいそうな熱が土方の指に絡む。は背中を仰け反らせ、唇を噛む。頬の傷が熱をもっているのか赤みが増していて、捻挫した手首は患部を固定する包帯がすっかり解けてしまった。

土方はの中に指を2本も差し込んでかき回しながら、力なく横たわるを見下ろして背筋を這い上がってくる優越感に酔う。は指を動かすたびに肩を震わせて泣いていた。

「土方さんっ……、ちょっと……、あっ……!」

は悲鳴に近い喘ぎ声を上げて、びくりと腰をはね上げた。

ぐったりと倒れこむを見下ろして、土方は自分の浴衣をはだける。ほどけてしまった包帯、たぶん悪化している頬の傷と、の頭上に死んだように投げ出された手は紫色に近い悪い色をしている。痛みを堪えて歪んだ表情と、熱に紅潮して薄い桃色に染まるの体。

土方はの体を自分の膝の上に抱え上げ、深く抉るように抱きしめた。小さく細いの体はびくびくと震え、その両腕を土方の首に巻きつけるようにしてしがみついてくる。

「……もう、ちょっとまって……っ」

小さく首を横に振っては訴えたけれど、土方はそれに構わず腰を突き上げた。

「お前が泣き止んだらな」

土方は塩辛い味のするの唇にキスをして、の細い腰を力任せに抱きしめた。






鏡に映る私の顔は、半分がかさぶたと治りきっていない傷に覆われていて、つるりと平たい反対側の頬とは別人のもののようだった。この傷を負ってから、鏡を見る回数が増えたような気がする。薬を塗るために毎日朝晩に必ず鏡台の前に座ることが近頃の習慣だった。その度に傷の具合を確かめて、少し口元を緩めただけで突っ張ってしまう皮膚にやきもきする。顔の半分だけ様子の違う私の顔は、まるでゲルニカのようだ。傷のある方のこめかみあたりに目を描いたら、きっとそっくりになるだろう。そう思って前髪をかきあげてみると、そこからのぞいたのは目ではなく、細く白い一本の傷痕だった。

子どもの頃についた傷痕が突然目の前に現れて、ぽっかりと胸に穴があいたように空虚な思いに襲われた。何か、大切なことを忘れているような、喉元まででかかった言葉がどうにもこうにも出てこないときのような、そんな気持ちがする。

この傷を負ったとき、私は少し寝込んだ。目が腫れた上にめまいがひどくて、布団から起き上がれなかったのだ。転んだ時に打ち所が悪かったのかもしれない。あんなに長いあいだ寝込んだのは初めての経験だった。先生や銀さんが看病をしてくれて、桂くんがたんぽぽとしろつめくさを摘んでお見舞いに来てくれた。

ある朝、目が覚めたらいい匂いがして、何かと思えば枕元にすみれの花が散らばっていた。眠る前には確かになかったものだから、夜中に誰かが見舞いに来て、私はそれに気がつかなかったのだろう。何の手がかりもなかったけれど、私には直感的に理解できた。すみれの花の犯人は、私が寝込んで以来一度も顔を見せに来ない高杉くんだった。どうしてそう思ったのかは今となっては分からない。誰かに確認したわけでもないし、ましてや高杉くんが何か言ったわけでもなかったと思う。ただ、分かったのだ。それだけだ。あのすみれの花は、教科書に挟んで押し花にして、台紙に貼ってしおりにした。ずいぶん長く使ったような覚えがあるけれど、松下村塾が焼けてなくなった日に、私の教科書といっしょに燃えてなくなってしまった。

今となっては私のかんも鈍ってしまって、いったい誰がすみれの花を持ってきてくれたのかは分からなかった。けれど、少しノスタルジックな気分になってしまう。昔と今の傷痕。同じ傷ではないのに、どこか似ている傷痕。

土方さんは、私の体に残った傷痕に意外なほど興味を示す。こんな傷とは比べ物にならないくらいの重傷を負ったことがあるくせに、私の頬の絆創膏を見るたびにまるで自分が痛みを引き受けているかのような顔をするし、かける言葉もふとした仕草も、私に向かうすべてがとても優しかった。気遣ってくれることは嬉しい。けれど、ほんの少し申し訳なくもある。こんなに土方さんに優しくしてもらいながら、私は今、高杉くんのことを考えている。

だから、なんとなくこめかみの古傷を手で隠してしまった。気取られやしないかとひやひやしたけれど、土方さんは気づかなかった。

あんまりじろじろと傷を見るからどうしたのかと思えば、手当も済ませていないというのに押し倒された。考えていなかったことではなかったけれど、今日のそれは少し荒っぽくて、背筋がひやりとした。高杉くんのことを考えているとばれてしまったのかもしれない。けれど、土方さんはどちらかというと鈍い方だからきっとそれはないだろうと思い直す。薄暗い部屋、組み敷かれて見上げた土方さんは獲物を前にした狩人のようで、硬くなったそれが私の太ももに押し付けられているのが分かる。どうして今日に限ってこんなに興奮しているのか、私にはさっぱり分からなかったけれど、きっとそういう気分なのだろう。形ばかり抵抗してみせながら、私は押し付けられた両手を握り返そうとした。

不意に、見上げた天井にほの暗い青い色が見えたような気がして、私は土方さんから視線をそらした。瞼の裏に情けなく歪んだ誰かの顔が浮かんで、記憶の底から血の匂いが蘇ってきた。視界が揺れたと思ったら、涙が溢れた。

自分の体に何が起こっているのか、分からなかった。頭の中の片隅の窮屈な場所にしか私の居場所はなく、そこから私の体に起こっていることをただ観察することしかできない。主導権を握ろうとなんとか指先だけでも動かすと、抵抗するなと言わんばかりに、主導権を握る男は私を殴った。痛みを感じることもできなかった。私の体はあの瞬間にあの男のものになって、私は全てを奪われたのだ。

全てを失って寝込んだ私を救ってくれたのは、松陽先生や銀さんや桂くんだった。私の中に何もなくなってしまっても、皆の中に私はいた。松陽先生はただひたすら甘えさせてくれた。思えば、子どもの頃からそうだった。夜泣きをして布団に潜り込む私を、先生は一度も拒んだことはなかった。赤ん坊のまま体だけ大きくなってしまったような私をただ黙って見守っていてくれた。銀さんといるとあんなにも心が落ち着いたのは、きっと境遇が似ていたからだろう。松陽先生に拾われて、親代わりになって育ててもらった。生き別れた兄と妹が松陽先生の元で再会したような、そんな懐かしさがはじめからあった。馬鹿なこと言って笑わせてくれて、泣きたい時には肩を貸してくれて、怒りたい時には殴られてくれた。桂くんはそんな私たちを黙って見ていた。自分の手を汚してでも、私を助けてくれたのは高杉くんだ。ほの暗い青空を背負って、初めて人を斬ったことに自分自身も傷つきながら、血に濡れた私をただ見ていた。

どうして、今まで忘れていたんだろう。辛い記憶だからだろうか。だから忘れて笑って生きようとしたのだろうか。いや、違う。別れが辛かったから、楽しかった思い出だけ抱えて生きて行きたかったのだ。だって、子どもの頃は幸せだったのだ。大好きな松陽先生に守られて、みんなと一緒で、何の心配も不安もなかった。あの日々はもう戻らない。だから、大切な思い出は胸の奥にしまって、傷つかないようしっかり鍵をかけていた。その思い出があれば、きっと強くなれると信じていた。

けれど、あんなに大切なことを忘れて今まで生きてきたなんて。

包帯はすっかり外れてしまい、患部を固定する支えを失った手首はじわりと内側から痛みが湧き上がってくる。まだ手当を済ませていなかった頬の傷は発熱して重く痛み、涙が傷口にしみる。土方さんが力任せに腰を抱きしめていて、皮膚に食い込む指先が痛い。体に刺さった土方さんの一部が、私の中を深く抉る。体中の痛みに神経を研ぎ澄ませ、私はなんとか自由になる方の手で土方さんの胸に爪を突き立てた。

土方さんは少しだけ眉をひそめて、私の手を取ると指を絡めてぎゅっと握り締めた。

「……土方さん」

吐息で名前を呼ぶのと同時に、涙がこぼれた。土方さんは動きを休めず、唸るように相槌を打った。

「いたいです」

土方さんの目が私を射る。その眼差しは、それだけで獲物の心臓を真っ直ぐに射抜いてしまえそうに鋭くて、眩暈を覚えた。その目に見つめられるだけで、体が震えるほど気持ち良かった。爪で引っ掻いた土方さんの胸に赤い線がうっすらと滲む。その美しさに見とれて、私は微笑んだ。

「もっとして」

土方さんの口元がにやりと歪む。その唇に、私は私の唇を押し付けた。





すみれの花は砂糖漬けにした。押し花にしても良かったのだけれど、最近では本もあまり読まないので使い道がなかったし、仕事を休んでいるから時間が有り余っていたので、手の込んだことをしてみたくなったのだ。

水で綺麗に洗って、花びらに卵白を塗り、丁寧に砂糖をまぶして2、3日乾燥させる。花びらを白っぽい結晶で覆われたすみれは、陽の光を浴びてきらりと光ると神秘的だった。口に含むと、ほのかな香りが口の中に広がって、ほろ苦く甘かった。






20150615