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すみれの花とやさしいあなた 奇跡みたいに、いい天気の日だった。空には雲ひとつなく、気持ちのいい風が吹いていた。 塾の子ども達と缶蹴りをしようということになって、人数が多い方が面白いからと、銀さんや桂くん、高杉くんも誘った。3人とも、しぶしぶといった顔で付き合ってくれたけれど、なんだかんだいって一番白熱していたのもこの3人だった。松陽先生ははじめ、書きものをする片手間に庭を駆け回る子ども達を楽しそうに見守っていたけれど、近所に住む農家のおじさんが顔を見せに来て、話し込んでしまっていた。 私はまだ小さい女の子の手を引いて、植木の陰に隠れていた。鬼が近くを通ると必死に息を殺し、私たちに気づかないまま鬼が離れていくと、目を合わせてくすくすと笑いあった。 そろそろ隠れ場所を変えようかと、植木の影をこそこそ移動して、塾の敷地の外れで辺りの様子を伺っていたときだった。 突然、背中から羽交い絞めにされて口を塞がれた。はじめは、鬼が私達の後ろから回り込んできたのかと思って、ただただ驚いたのだけれど、そのまま体を持ち上げられて引き倒されて、違和感を覚えた。どうやら様子がおかしい。私の口を塞いでいた大きな手が少し横にずれたとき、すえた汗の臭いが鼻をついた。今までに嗅いだことのない臭いだった。「なに……」と声を上げようとしたら、こめかみに何かがぶつかったような衝撃を受けた。世界が揺れ、頭がぐらぐらして、殴られたのだと理解するまでに時間がかかった。定まらない視野、さっきまであんなにも清々しく見えた青空は、見上げるとほの暗かった。嫌な臭いがして吐きそうだった。体にのしかかってくるひどく重い何かは、抵抗しようと指先にほんの少し力を入れただけで私を殴った。自分の身に何が起こっているのか分からなかった。体を真っ二つに引き裂かれるような痛みを覚えて、失神しそうに気が遠くなった。頭の片隅で、さっきまで一緒にいたまだ小さな女の子が、この痛みを感じていなければいいと思い、それきり何も考えられなくなった。 その後に起きたことで覚えているのは、獣のような雄叫びを聞いたことと、熱くて真っ赤な液体を頭から浴びて気持ちが悪かったこと。そして、ほの暗い青空を背に、真剣をぶら下げて立ち尽くす高杉くんの情けなく歪んだ顔だけだった。 あれから、はずっと寝込んでいる。松陽がひとりで面倒を見ていて、誰もの部屋に近づかなかった。いや、近づけなかったのだ。どこの誰とも知れない浪人に強姦されたに、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。 けれど、ひとりだけ例外がいた。銀時だ。 「はどんな様子だ?」 の部屋から戻ってきた銀時に、桂は不安そうに尋ねた。銀時はいつもと変わらない様子で、鼻をほじりながら言った。 「目の上腫れてお岩さんみてぇになってっぞ。見ておいて損はねぇな」 「……お前、それに言ったのか?」 「悪ぃかよ?」 「銀時。お前は一度、“デリカシー”という言葉を辞書で引いたほうがいいと思うぞ?」 銀時は桂の言い分を鼻で笑い飛ばした。確かに、銀時の態度は気遣いに欠けていたし、が置かれた状況を考えればあんまりな言い様ではあったけれど、銀時がいつもどおりに振舞っていれば、の体の具合がそれほど深刻な状態ではないということも分かったので、桂をはじめとして塾の子ども達は銀時のそんな態度に救われていた。みんな、を心配するあまりに元気をなくしていたのだ。 「部外者は気楽でいいよな」 それとは対照的に、高杉は憔悴していた。近頃あまり眠れていないらしく、目の下にはくまが浮いていた。 「てめぇこそ、病人みてぇなツラしてんぞ。大丈夫か?」 銀時が全く心配していなさそうにうそぶくと、高杉は力なく口端を持ち上げて笑った。 「別に、大したことねぇよ」 「強がるなよ。まぁ、いきなり生で本番見ちまうのは刺激が強かっただろうけどよ、見慣れりゃそのうち良くなるぜ?」 銀時の言葉に、桂は頬を赤くして軽く耳を塞ぐ。銀時は慰めるように高杉の肩を叩くと、いやらしい目つきをして耳元で囁いた。 「まぁ、お前みたいなぼんぼんはまずは少年誌のグラビアからだな。今度貸してや」 銀時が最後まで言い終わる前に、高杉は銀時を殴り飛ばした。縁側から庭の隅まで吹っ飛んだ銀時は、土埃にまみれて咳き込んだ。 「この下衆野郎」 高杉は低い声で銀時を罵り、肩をいからせて立ち去った。 桂はその背中を見送って、「痛ってぇなぁちくしょう」と愚痴をこぼしながら、すりむいた腕に唾をつけている銀時を見やる。桂には、銀時の気持ちも高杉の気持ちも分かっていた。 銀時が、の身の上に起きたことは大したことはない些細なことのように振舞うのは、を傷つけないためだ。まるで妖怪のように目が腫れ上がろうが、見知らぬ浪人に体を汚されようが、はだ。本質は何も変わらない。こんな事件が起きても、これまでずっとと過ごしてきた自分たちととの関係は変わらないし、むしろ、これまで通りに振舞うための努力をしなければならない。銀時は何も言わずに、そういう努力をしているのだろう。 けれど、が襲われた現場を目の当たりにした高杉はそうもいかなかった。 と一緒に植木の陰に隠れていた少女は、が見知らぬ汚らしい男に襲われるのを見て、助けを呼びに駆け出した。一番最初に見つけた年かさの塾生が、缶蹴りの陣地に捕まっていた高杉だった。少女の訴えを聞いた高杉は、松陽の部屋の床の間にあった真剣を手にとって一も二もなく駆け出した。 塾の敷地の裏手、植木の影になったそこに、前かがみにうずくまって腰を振っている男の背中があった。男の腰の辺りから白く細い足が2本飛び出ていて、そばに草履が転がっていた。使い古した刺し子模様の手ぬぐいを卸して鼻緒にした、のものだった。 その瞬間、高杉自身は何も考えていなかった。松陽の刀を抜き、何も考えずに男の首を切り落とした。男の体は力を失っての体の上に倒れこみ、首から吹き出した血潮がの体を濡らした。高杉が振り下ろした刀は、のこめかみに傷をつけた。 「銀時。あまり、高杉をからかってやるなよ」 桂はそう言って、高杉とは逆の方向に踵を返した。 残された銀時は、少し迷ってからの部屋へ戻った。 高杉はひとり、道場の片隅に座り込んでいた。竹刀をかけた壁をぼんやりと眺めながら、ぐったりとして力の入らない自分の体を持て余していた。 銀時を殴ったのは、腹が立ったからだ。があんな目に遭っているのに、平気そうな顔をしてあんな下世話なことを言うからだ。桂はデリカシーがないと言ったけれど、あれはそんな生易しいものではない。他でもない銀時が、をあんなふうに、性欲のネタのように扱うなんて許せなかった。は銀時のことをあんなに慕って、大切にしているというのに、ひどい裏切りだ。あいつは人間のクズだ。 そこまで考えて、高杉はぎゅっと唇を噛み締めた。クズはどっちだ。のことを心配しているふりをして、もっともらしい言い訳をして、言い逃れをしているのは誰だ。を助けることができなかったのは、一体誰だ。責められるのが怖くて、顔を見に行くこともできない臆病者は誰だ。 高杉は自分の両手を見下ろして、微かに震えているそれを胸の前でぎゅっと握り締めた。男の首を切り飛ばしたあの瞬間を、この手ははっきりと覚えていた。あまりに生々しく、脈を打つ生き物のように、指先に記憶がこびり付いて離れない。眠ると、現実と区別がつかないくらいはっきりとした悪夢を見た。刀を握る感触も、首を刃が通り過ぎる時の重い切れ味も、何もかもが鮮やかに蘇って眠っていられなかった。 高杉は、が汚されたことに傷ついていたのではなかった。初めて人の命を奪ったことに傷ついて、それと同時に興奮していた。そんな自分が、高杉は許せなかった。だから、銀時を殴ったのはただの八つ当たりだ。銀時はきっと、高杉のために、殴られてくれたのだ。それが分かってしまうから、余計に腹が立った。銀時にではない。自分自身にだ。 「晋助」 名前を呼ばれて、高杉ははっと顔を上げた。 「こんなところにいたんですか」 松陽はにこやかに微笑んでそう言った。高杉は驚きのあまりとっさに声が出ず、松陽が自分の隣にゆったりと腰を下ろすのをただ眺めていた。 「今日の稽古はもう終わりましたよ? 何をしていたんですか?」 「……べ、別に……。ちょっとぼーっとしてただけだ」 「そうですか。じゃぁ、私も一緒にぼーっとさせてもらいましょうか」 そう言うと、松陽は壁に背中をもたせかけてぐんと伸びをし、首を傾けてぱきぱきと小気味のいい音をさせた。あのことがあって以来、何も様子が変わらないのは銀時だけではなかった。 松陽は、高杉が男の首を切り飛ばした直後に姿を現した。高杉はその時、気を失ったと首のない男の死体を見下ろして呆然と立ち尽くしていた。松陽は高杉の肩を優しく叩くと、なんの躊躇いもなく首なしの死体をひっくり返して、を助けおこし、自分の上着を着せかけ、それで体を包むようにして抱き上げた。そして、高杉に穏やかに微笑みかけ、 「刀をひと振りして、血振りをしなさい。その後、血糊を拭ってから鞘に収めなさい」 と言った。高杉はそのとおりにして、刀を松陽に返した。 松陽がただの優男ではないことは分かっていたつもりだった。何しろ、剣の腕前はずば抜けていたし、銀時、桂とともに役人に歯向かおうとした時には、瞬きの合間に十数人の大人を一網打尽にしてしまったこともある。けれど、人を斬った自分に当たり前のように刀の処理の仕方を伝授してくれると、違った緊迫感があって高杉はぎゅっと背筋に力を入れた。 「実は伝言があって、晋助を探していたんですよ」 松陽は言った。 「伝言? 誰から?」 「からです」 高杉はその名前を聞いただけで怖気づいた。びくりと顔が強ばったので、松陽にもその気持ちは伝わったのだろう。松陽は笑った。 「あっはっは。そんなにびくびくしなくてもいいじゃないですか」 「びくびくなんてしてねぇよ!」 「そうですか? なら、のお見舞いにでも来てくれればいいのに」 「あいつ、妖怪みたいに目ん玉腫れ上がってるっていうから、遠慮してやってんだよ」 「それ、銀時が言ったんですか?」 「そうだよ。あいつの言いそうなことだろ?」 「後でに伝えておきましょう。なら3倍返しくらいやりそうですね」 松陽はそう言って、ひとしきり笑った。あんなにも傷ついているが銀時に仕返しができるほど力が余っているのか、高杉には疑問だったけれど、ひとまずそれは後回しにすることにする。 「で? 伝言ってなんだよ?」 「あぁ、そうでしたね。『助けてくれて、ありがとう』だそうですよ」 高杉は、何を言われたのか理解ができず、目をパチクリさせた。そもそも、助けることなんかできなかったのに、どうして礼などいうのだろう。は見知らぬ男に処女を奪われ、殴られ、高杉が振るった刀で傷を負ったのだ。高杉は思ったままのことを口にした。 「……礼を言われる筋合いねぇんだけど」 「君がどう思っているかどうかはともかくとして、は確かにそう言ったんですよ。まぁ、明日にでも顔を見に行っておやりなさい」 高杉は口を開きかけたけれど、松陽はそれを遮るように立ち上がり、「今日の夕飯は筑前煮ですよ」とか言いながら道場を出て行った。 松陽は食えない男だ。けれど、高杉は松陽を信頼していた。だから、思い悩んだ末、その日の真夜中にの部屋を訪れた。案の定は眠っていて、腫れた片目には眼帯をし、頭に包帯を巻いていた。枕元には小さな花瓶があり、たんぽぽとしろつめくさがいけてあった。誰かが見舞いに摘んできたのだろう。 高杉はしばらくの痛々しい寝顔を眺めてから、持ってきたすみれの花を無造作に置いて部屋を出た。 その日もまた悪夢にうなされてほとんど眠れなかったけれど、翌朝、銀時が誰かに殴られたように片方のまぶたを紫色に腫らしているのを見て、久しぶりに腹を抱えて笑った。 は、男に犯されて泣き寝入りするような、か弱い女ではなかったのだ。 長い夢を見ていたような気がする。 机に突っ伏して眠っていたは、ぽっかりと目を開けてそんなことを思った。どんな夢を見ていたかは、全く思い出せなかった。 怪我のせいで仕事は休んでいるものの、かといってすることもなく、街に出れば顔見知りに怪我について問いただされ、それが一度で済めばいいもののそうもいかず、道端で会う人会う人に「一体なにがあったのだ?」「ひどい話だねぇ、女の顔に傷つけるなんて」「これだから真選組は荒っぽくていけない」「いい医者を紹介するよ」「むしろ新しい就職先を紹介するよ」と、心配やらおせっかいをやかれてしまい、気疲れしたは外へ出るのも嫌になって、屯所の離れにある自室にこもって繕いものの仕事をこなしていた。それにしても、手を捻挫しているからこういう手仕事がなかなか進まなくて嫌になってしまう。 ついうとうとしてしまって、気がついたらもう夕暮れの時刻だった。どうやらすっかり寝過ごしてしまったらしい。は強ばった肩を揉んで深呼吸をした。 ふと、机の上に見慣れないものを見つけて瞬きをした。いかにも空き地の片隅に咲いていそうなすみれの花が、無造作に散らばっていたのだ。 「……何かしら? これ」 「誰か見舞いにきたんだろ」 ひとりごとに返事が返ってくるとは思いもよらず、は肩をすくめて飛び上がった。我が物顔で煙草を吸っていたのは土方だ。 ひとりごとを聞かれたばつの悪さに、は頬を赤くする。 「……いやだ、いつからいらしたんですか?」 土方の手元にある携帯灰皿には吸殻が4本入っていた。土方は時計をちらりと見やって平然と答えた。 「一時間くらい前か」 「起こしてくださったらいいのに」 「随分気持ちよさそうに寝てたからよ」 はさらに顔を赤くして、両手で頬を包み込むようにして隠した。こう油断している顔を見られるのはたまらない。なんとか気まずい気持ちをごまかすように、はすみれの花を一輪持ち上げ、話をそらした。 「誰が来てくれたんでしょう?」 「さぁな。俺が来た時にはもうあった」 土方は煙草の煙を吐き出しながら答えた。は、自分の部屋がやに臭くなるのを恐れて、煙草の煙が天井に昇って消えていくのを恨みがましく眺めた。 「そうですか」 「飯でも食いにいかねぇか?」 土方はそう言って、5本目の煙草の火を消した。 「これからですか? お仕事は?」 「今日はもう終わった」 はすみれの花を眺めながら、口の中で言葉を探した。 正直、顔に怪我をしたまま外出することには気が引けた。すれ違う人がいちいち振り返る視線は居心地が悪かったし、顔見知りには必要以上に心配されてしまうことに辟易していた。休暇をもらっているといっても、心は全く休まらなかった。こんなことなら、毎日家事に追われてばたばたと忙しく過ごしている方がどんなにいいだろう。 は、無意識のうちに傷ついていた。街ゆく人から同情の目で見られることに、心配のあまり、真選組、ひいては怪我の原因であるところの沖田や土方が悪者にされてしまうことに。 「俺の行きつけの宿、覚えてるか?」 土方の言う宿とは、土方が武州から上京してきた折から懇意にしている小さな宿だ。一見民家のようにしか見えず、幕府や攘夷志士とも縁のない素朴な宿だ。は一度だけそこに泊まったことがあった。 「えぇ、覚えてます」 「もう話はしてある。幸い今日は他に客もいねぇらしいし、人目は気にならねぇだろ」 「まぁ。用意周到ですね」 「外で待ってるから、さっさと準備しろよ」 そう言うなり、土方は立ち上がって部屋を出て行った。それを言うためだけに一時間もここで待ちぼうけをくっていたのかと思えば、随分可愛らしいことをしてくれるものだとは思い、穏やかな気持ちでひとり、くすくすと笑った。 20150608 |