そして そして








 目覚まし時計に呼ばれて、は体の奥の方の意識が目覚めるのを感じた。深い海の底から呼吸をするために海面に浮上するくじらのイメージが脳裏に浮かぶ。夢を見ているのかと思う。くじらになって深い海を悠々と泳いでいる夢。けれど、まぶたと障子の向こうの朝日が眩しくて、その夢はすぐに覚めた。

 手探りでアラームを止めて、は重いまぶたをこすった。なんだか妙な気分だ。ずいぶん長い間眠っていたような気がする。頭の中に靄がかかったようにぼんやりしているけれど、体は不思議と軽い。なんだか心許ない気持ちがして寝返りを打ってみて、はぎょっとした。

 の隣で、土方が眠っていた。

 状況を飲み込めなくて、はぱちぱちと瞬きを繰り返す。ここは真選組屯所の離れで、にあてがわれた私室で、土方が定めた局中法度によって隊士はここに近づいてはいけないことになっている。人目を盗んで土方が忍んで来たことは一度や二度あったけれど、昨夜はどうしたのだったろう。一緒に眠ったのだったけ? 昨夜のことだというのに何も思い出せなくて、はむしろそのことに違和感を覚えた。何かがおかしい。

 土方が身じろぎをして、物憂そうに目を覚ます。と目が合うと、懐かしいものを見るような顔して瞬きをした。

「あぁ、おはよ」
「……おはようございます」

 なぜだろうか、土方から目を離せなくなってしまって、は自分のことだというのに訳が分からなかった。寝起きでぼんやりと焦点の定まらない土方の眼差しが、の目をじっと捕らえて離そうとしない。二つの瞳を交互に追いかけて、は泣き出したいような気持ちになった。なんだか、ものすごく長い間離れ離れになっていて、やっと巡り会えた時の切なさと嬉しさが混じり合ったような気持ちが体の奥の方から波のように押し寄せてくる。

 土方の片腕が伸びてきて、の腰を掴んでぐいと引き寄せた。

「体、平気か? どっかおかしいところねぇ?」
「おかしいところ? ですか?」

 は首をかしげる。どうしてそんなことを聞かれるのだろう、心配されるようなことがあったのだろうか、昨夜一体何があったと言うのだろう、どうしてそれをこれっぽっちも覚えていないのだろう。

 土方の手が、寝巻き越しにの体を撫でる。腰から背中、肩、二の腕。腹を登って胸、首、最後にたどり着いた頬を、土方は確かめるように撫でる。

「ひ、ひじかたさん?」
「ん?」
「何なんですか?これ?」

 は身動きが取れないまま、唇を引きつらせた。体を触る土方の手はなんだか事務的で、身体検査でも受けているような気分になる。土方もいたって真面目な顔をしているからなおさらだ。

「だから、どっか変なとこねぇかって聞いてんじゃねぇか」
「大丈夫と思いますけど……、なんでそんなこと聞くんです?」
「やっぱり何も覚えてねぇの?」
「何もって? 何かあったんですか?」

 やはり何かあったのだ。は不安にかられて弱気な声を出した。
 ところが、土方はひとりで納得したような顔をして、何も説明せずにの体の上に覆いかぶさってきた。

「わっ、ちょっ、土方さん!?」

 土方はの首筋に顔を埋めて呟いた。

「やっぱりこっちの方がいいな」
「はぁ? こっちって、何?」
「こっちはこっち」
「ちょっと、やめて……!」

 土方の筋肉質で重い体にのしかかられ、はかろうじて手足をばたつかせて抵抗したもののまったく太刀打ちできない。土方の手が身体中を弄って、体の輪郭を浮き彫りにしていく。裸を見られるよりこの方がずっと恥ずかしかった。凹凸の少ない胸や骨ばった腰、色っぽさのかけらもない貧相な体。それはにとって大きなコンプレックスだった。ところが、土方は夢中になっての胸元に唇を落として力一杯腰をかき抱いている。

 まったくそんな気分にはなれないのに体が熱くなっていくのを抑えきれず、は土方の寝癖のついた髪を撫でた。

「なぁ」
「え?」

 至近距離で見つめ合いながら、土方は大真面目な顔をして言った。

「ちょっと、口の中見せてみろ」
「は? なんで?」
「なんでもいいから」
「いや、いやです」

 はとっさに口元を手で覆い隠した。寝起きの口の中はべたついて気持ちが悪くて、とてもではないけれど見せる気にはなれない。

 土方は目尻を釣り上げて凄む。

「いいから、見せろって」
「いやだって言ってるでしょ、なんで急にそんなこと言うの?」
「言うこと気かねぇとこのまま起こしてやらねぇぞ」
「そんなことしたら土方さんだって困るでしょ」

 の手を、土方の手が掴む。ふたりの力が拮抗してプルプルと震える。案の定、力で勝ったのは土方で、の手を力づくで布団の上に縫い止めてしまうと無理矢理口付けをした。けれどそれは愛情のこもったものではなく乱暴で一方的で、はほとんど呼吸困難になってしまう。土方の舌が口内に侵入してきて、歯列をなぞる。舌の付け根の奥の方まで丹念に舐めとられて、は頭がおかしくなりそうだとさえ思う。布団に押し付けられたの手は、いつの間にか抵抗する力を失ってぐったりと倒れ伏している。

 ようやく唇を離した土方は、満足げな顔をして呟いた。

「よし、ちゃんとそろってるな」

 は息も絶え絶えに言う。

「……そ、そろってるって、なにが……?」
「歯」
「は?」
「そうだよ、歯だよ」
「……なにそれ? なんなのよもう……」

 泣きそうな声でが言うと、土方は笑っての頭を撫でた。は寝起きで乱れた髪を恥ずかしく思ったけれど、朝から身体中弄られた上に熱い口付けをした後では、もうそんなことは何でもないことのようにも思えた。

 ふと、頭上から水音がして、は顎を上げて上を見た。枕元の畳の上に、なぜか丼が置いてあって、は眉をしかめた。

「……どんぶり?」
「あぁ、これか」

 土方はやっとの体の上から身を起こすと、の体の上にまたがったまま、丼を布団のそばに引き寄せた。ようやく体が自由になったは、土方の体の下から這い出して、乱れた着衣を正す。

 丼の中には水が張られていて、その中で赤と黒の金魚が二匹、円を描くように泳いでいた。
 土方はどこからか取り出した煙草に火を付ける。よく見ると、土方の着ているものは、寝乱れてしわくちゃだったが寝巻きではなかった。黒い麻の着物で、かすかに火薬のような焦げくさい匂いがした。

「お祭りにでも行ってらしたんですか?」
「あぁ、まぁな」

 土方は煙を吐きながら答えた。全て終わった後の満足げな雰囲気を漂わせていて、は拍子抜けしてさらに訳が分からなくなった。一体この人は何がしたいのだ。

「お祭りに行って、金魚すくいをしてきたんですね?」
「そうだな」
「……誰と?」

 土方はにやりと楽しそうに笑った。

「さぁな。それやるよ」
「え?」
「毎日水変えてやりゃぁ、丼でも育てられるってさ。屋台の親父が言ってた」
「えぇ? だからって、え? 何が言いたいんですか? なんなんですかこれ?」

 土方は声を上げて笑った。





 夏場の道場は、釜茹で地獄もこれほどではないだろうと思えるほど暑い。風が通りにくい構造をしているので熱気がこもるし、道場の裏手にある林から降ってくる蝉時雨がその暑さに拍車をかけて、竹刀を振るう隊士達はみな汗だくだ。

 佐々木鉄之介に稽古をつけているのは土方だ。鉄之介は未だに土方から一本も取ることもできないでいるが、何度倒れても果敢に竹刀を握り直して土方に向かっていく。隊士達も手に汗を握って見守っている。

 竹刀がぶつかり合う鋭い音、鉄之介の気合の入った声、土方の怒鳴り声、隊士達が息を飲む気配。

 は道場の入り口に正座して、こっそりと稽古の様子を見ていた。に気づいている隊士も何人かいたが、この張り詰めた空気を壊すまいとじっと口を閉じていた。

「あれ、さん!? え!?」

 と、そこへ、山崎がやってきた。道場に来るというのに隊服を着ていて、出先から戻ったばかりらしい。

 は唇に人差し指を立てて山崎を制した。山崎は慌てて口を閉じて、忍び足での隣に腰を下ろす。

 山崎はまじまじとを見つめると、声を落として言った。

「元に戻ったんですね。良かった」
「そうみたいね。よく分からないけど」

 は曖昧に笑いながら答えた。なにせ、今朝は誰かと顔を合わせる度に同じことで驚かれ、喜ばれ、懐かしがられ、安心されてきたので、もう何を言われても二番煎じもいいところだった。

 話によると、天人謹製の赤い飴玉を食べてしまったために、ひと月もの間子どもになっていた、ということらしかったが、はいまいちぴんときていなかった。そんな夢のような話をにわかに信じることはできない。

「やっぱり、何にも覚えていないんですか?」

 山崎が気づかわしげに言う。
 はしゃっきりしない顔をして首を傾げた。

「そうなのよ。みんなに話は聞いたんだけどね」
「子どもになった時も、大人だった頃のことは全然覚えてませんでしたからね。そういうものなんですかね」
「あぁ、そうだったの?」

 他人事のような顔をして言うに、山崎は何か言いたげに眉をしかめた。

「何?」
「いや、あの、さん、気にならないんですか? 自分が子どもになってた時のこと」
「まぁ、気にならないと言えば嘘になるけど……」
「聞いてくれていいんですよ」
「うぅん、そうねぇ」
「何ですか?」
「……なんだか、ちょっと怖いような気がして」
「怖い?」

 は片手を頬に当てて、視線を床板の目に落とした。

 自分が本当に子どもだった頃のことは、よく覚えているつもりだ。松陽先生や銀時や、寺子屋の仲間達のこと。どんな顔をして笑っていたかとか、教科書を読み上げるときの声の調子や、教室の隅で古びた刀を抱えて眠る銀時の寝顔、繋いだ手の温かさ、一緒に野を駆け回って遊んだ青臭い匂い。今でもその記憶は、の胸の中で宝物のように光っている。

 けれど、不思議なことに、自分自身はどんな風だったかはよく思い出せないのだ。自分はどんな顔をして、どんな着物を着ていたのだっただろう。女の子のくせにあまり鏡を見ない子どもだったのか、そもそもあの寺子屋に鏡なんかなかったかもしれない。寺子屋に通う子はほとんどが男の子だったから、そんなことに気の付く人はいなかったのだろう。

 だからは、子どもの頃の自分にあまり自信が持てなかった。男の子に混ざって野山を駆け回っていたような子どもだ、きっと浅黒い肌をした野猿みたいななりをしていたに違いない。そういう自分をみんなに、ひいては土方に見られたのかと思うと恥ずかしくて、詳しいことを聞き出す勇気が持てなかった。

「良かったら、写真、見ます?」
「え?」

 山崎はポケットから携帯電話を取り出すと、の目の前に突き出した。は慌てて液晶に手をかざして遮った。

「ちょ、ちょっと待って!」
「どうしたんですか?」
「いや、だって心の準備が……」
「大丈夫ですよ、かわいいですよ、ほら」

 山崎は大きくうんと頷くと、の小さな手に携帯電話を握らせる。は両手で携帯電話を挟むように持って、不安な面持ちで山崎を睨んだ。

 写真なんか見たくはなかった。どうせ浅黒い肌をした男の子のような子どもが写っているのに決まっている。

 けれど、山崎は何やら生暖かい微笑みを浮かべて、どうぞ、と片手を差し出してくる。
 その笑みに背中を押されて、は目を細めて携帯電話を見た。

 そこに写っていたのは、白い歯を見せて笑う小さな女の子だった。七つか八つだろうか。伸ばした髪を頭の真後ろで簡単に結わいて、青い棒付き飴を持っている。

 はぽかんと口を開けてその写真に見入ってしまった。体の芯が震えるような衝撃が襲ってきて体が動かなくなってしまう。

 見かねた山崎が携帯電話の画面を指先で撫でると、写真が横に流れて別の写真が表れた。青い飴で頬が膨らんだ子どもの顔だ。山崎の真似をして、慣れないながらも画面を指で撫でみると、次に出てきたのは原田に肩車されてはしゃぐ写真だった。着物の裾がめくれて白い脛が丸出しになっていた。

 そうやって一枚一枚写真を見ていくと、溌溂とした、眩しい笑顔の子どもばかりが写っていた。ゆで卵のようにつるんと滑らかな白い肌、細い手足、小さな肩、鮮やかな色の朝顔の着物がよく似あっている。そして、が想像していたのとはまるで違う顔をして笑っていた。健康的で眩しいほどに元気な弾けそうなエネルギーに満ちた笑顔だった。
 
 なんだか拍子抜けしてしまって、はため息を吐いて肩を落とした。子どもは、素直で純粋な目をした愛くるしい女の子で、どこにでもいる同じ年頃の子どもとちっとも変わらなかった。

 屯所の近所に住んでいる子ども達のことを思い出す。道端や空き地で転げるように駆け回って遊んでいて、甲高い声を上げて笑っている子ども達を眺めては、はいつも心を和ませていた。そんな子ども達と、自分の子ども時代はなんら変わりがなかったのだ。

「ね、かわいいでしょう?」

 山崎が自分のことのように嬉しそうに笑って言うので、もつられて笑った。

「そうね、かわいいわね」

 液晶をもう一度撫でて、ははっと息を飲んだ。

 それは夜に撮った写真らしく、全体が青くくすんでいた。土方と子どものが並んで写っていて、ふたりとも空を見上げてぽかんと口を開けている。頬に写る赤や緑の明かりは、花火の反射だろうか。は青い着物に真っ赤な兵児帯を締めて、簪で髪を結い上げておめかしをしていた。

「あ、それ、実は隠し撮りなんですよ」

 山崎が携帯電話を覗き込んで解説した。

「隠し撮り?」
「よく撮れてるでしょ? こういうの得意なんですよね、仕事がら」
「一緒に行ったんじゃないの?」
「まさか。さんと副長がふたりで行ったんですよ」
「えぇ? 土方さんが?」
「はい。さんにねだられて」
「わたしから!?」
「そうですよ。僕、遠くから見てただけですけど、楽しそうでしたよ、ふたりとも」

 は改めて写真を眺め、ため息を吐いた。あの丼の金魚は、この時に取ってきたのものだったのだとやっと合点がいった。

 写真の中の土方は、山崎の言う通り、本当に楽しそうだった。子どもののように顔全体を使って笑っている、というのではないけれど、空に咲く花火に見入っているのが分かる。元々嘘を吐くのが下手な人だ、考えていることが全て顔に出てしまっている。

 土方は、隣に子どもがいるということ自体を楽しんでいるように見えた。顎をのけ反らせて空を見上げる子どもが、後ろに倒れてしまわないように背中に添えられた腕。

「良かったら、これプリントしましょうか?」
「え、いいの?」

 つい飛びつくように言ってしまって、は頬を赤らめた。
 山崎は温かく笑って頷いた。

「いいですよ。記念になりますよね」
「ありがとう、山崎くん」
「いいえ」

 道場から、竹刀がぶつかり合う鋭い音がする。
 土方の竹刀捌きに足を取られ、鉄之助は道場の壁際まで投げ飛ばされた。土方は顔色ひとつ変えずに言う。

「ほら、立てよ。実戦となればこんなもんじゃ済まねぇぞ」

 鉄之助は痛みに顔をゆがめながらもふらふらと立ち上がり、竹刀を上段に構える。そして、獣のような声を上げて再び土方に向かっていく。

 鉄之助が、土方に敵うほど剣の腕を上げることはおそらくないだろう。それはみんなも、鉄之助自身も分かっている。けれど、それでもなお、鉄之助は土方に向かっていくことを止めない。強くなるために、決して諦めることをしない。

 そんな鉄之助と対峙する土方は、瞳孔の開いた恐ろしい顔をしてはいたが、内心では嬉しがっているように、には見えた。

 今、この真選組の中で、たとえ鍛錬の場であっても、本気で土方から一本でも取ってやろうという気概を持つ隊士はほとんどいない。何せ、鬼の副長と世間から恐れられる男だ。胸を借りようという人間は何人かはいるだろうが、当たって砕けろという気持ちで土方と対峙する人間は鉄之助の他にはいない。

 それは土方にとって、喜び以外の何者でもないのだと、は思う。

 土方はきっと、子どもと相性がいいのだろう。話に聞くところによると、武州にいた頃は幼い沖田に振り回されながらもつかず離れず、よく面倒を見ていたそうだ。鉄之助も子どものも、土方にとってはそれと同じなのではないかと思う。

 疎ましく思うこともあるだろうし、子どもなどに煩わされずひとりでのんびんり暮らしたいと思うこともあるだろう。

 けれど、子ども達の方が決して土方を放ってはおかないのだ。あれだけ土方を嫌い恨み呪いながらも、そばを離れることを選ばない沖田がいい証拠だ。鉄之助もきっと、沖田と同じ轍を踏むのだろう。

 子どもに戻っていた時どんな風にふたりで過ごしたのか、は何も覚えていない。土方に聞いてもきっとはぐらかされてしまうだろう。

 けれど、土方のことだ。きっと、鬱陶しく適当にあしらいながらも、土方なりのやり方で優しく支えてくれたのだろう。

 またひとつ、土方の好きなところが増えた。

 は胸に浮かんだ温かい気持ちを、何かに紛れて消えてしまわないよう、深く息を吸いこんでしっかりと自分の体の中に落としこんだ。

 蝉時雨がやんだら、もう夏も終わりだ。







20170904