銀の夜を忘れるための術
気が付いたら、知らない場所にいた。
夢を見ているのかと思った。頭の中がふわふわして、目に見えるもの全ての輪郭が滲んでいる。まるで水の中に沈んで外の世界を見ているみたいだった。
私の目の前に真っ先に飛び込んできたのは、白いふわふわの髪をした、私の大切な幼馴染のびっくり顔だった。
「銀さん?」
声を出してみる。少しのどに張りついて、出しにくかった。寝て起きたばかりのときみたいな声だ。でも、私は今まで眠っていたのだったっけ? 記憶がかすんでうまく思い出せない。
「……
?」
銀さんは私を指差して、震える声で言う。
人を指差すなんて失礼ね、そんなことしちゃだめだって、先生に教わったじゃない。
そう言おうとして口を開きかけ、あれ、と思う。
銀さんの声が、私が知っている銀さんの声と違う。なんだか、大人の男の人みたいに太い。
よく見れば銀さんの背はやたらに高いし、顔立ちもずいぶん大人っぽい。肩幅が広くて、見たことのない着物を着ている。死んだ魚のような目だけは変わらないけれど、こんな銀さんを私は知らない。
「……本当に、銀さん?」
次の瞬間、銀さんらしき人と、私の隣に座っていたらしいサングラスの男の人が大声を上げて飛び上がった。
私は何が何だか分からなくて、ばかみたいにぽかんと口を開けて成り行きを見守ることしかできなかった。
夢を見ているんだと思うことにした。
だって、そうでもしないと理解ができなかった。
大人の私が赤いキャンディを二粒食べたら子どもになってしまって、大人だった頃の記憶をすっかりなくしてしまった、だなんて。そんなおかしな話ってあるだろうか。
そもそも大人だった、ってなに? 私はまだ子どもで、これから大きくなって、これから大人になっていくはずでしょ。それが、ちょっと前まで大人だったんだなんて。そんなこと言われても信じられるはずがない。
やっぱり、これは夢だ。
夢だから、いつか目が覚めるはず。
訳が分からなくて不安だけれど、夢だと思えば大丈夫。
目が覚めたら、松陽先生や桂くんや高杉くんに話を聞いてもらおう。
きっとみんな、変な夢だと言って笑ってくれるだろう。
「ねぇ、銀さんは本当に銀さんなの?」
大人の銀さんの隣を、小走りでついて行く。
私が着ていた着物はぶかぶかだったので、煙草を咥えた怖い顔をしたおばあさんが貸してくれた着物を着せてもらった。朝顔の柄で、帯はきれいな浅黄色。こんなにかわいい着物を着るのは初めてで嬉しかった。
「そうだよ。お前の知ってる銀さんの、二十年後の銀さん」
「ふぅん?」
「なんだよ、その顔は。さては信じてねぇな?」
「そんなことはないけど」
夢だとは思ってるけどね。
銀さんの顔を見上げながら歩いていたら、前から歩いてきた人に危うくぶつかりそうになってしまう。慌ててよけるけれど、次々に鮮やかな着物の裾が目の前に押し寄せてきてどうしたらいいか分からない。困っていたら、銀さんが私の手を掴んで引いてくれた。
「ほら、ちゃんと前見て歩け」
銀さんの手は、私が知っている銀さんの手よりずっと大きくて骨ばっている。
その手は、松陽先生の手にそっくりだった。
「俺が銀さんだって証拠、教えてやろうか?」
「何?」
「お前、もっと小さい頃、ひとりじゃ怖くて寝れねぇってよく先生の布団にもぐり込んでたろ」
「そ! そんなこともうしないもん! 一人で寝れるもん!」
「怖い夢見たっつって、俺が便所ついていってやったこともあるな」
「それは! 銀さんだってそうでしょ!? 肝試しした日の夜なんてひとりでぷるぷる震えてたくせに! 高杉くんと桂くんが笑ってたわよ!」
「あいつらはあの後シメてやったよ。立ち合い百本勝負で俺の圧勝だったな」
「よく覚えてるのね」
「一緒に寺子屋の屋根の上で花火を見たよな」
「屋根の上には乗ったらいけないのよ。危ないからだめって、先生が言ってたわ」
「覚えてねぇんならこれからの話だな。お前はその言いつけを破って屋根に上るんだよ」
「私はそんなことしないもん」
「いやするんだって。それで、はしゃぎすぎて屋根から落ちかけるんだ」
「えぇ、私そんなドジなことしないよ」
「するんだよ。元に戻ったら怪我しねぇようにちゃんと気を付けるんだぞ」
「だからしないってば」
銀さんは、高いところから私を見下ろして笑った。
私が知らない笑い方だった。
今、私が手を繋いでいるこの人は、間違いなく私の知っている銀さんが大人になった姿なのだろうけれど、子どもの頃の銀さんと今ここにいる大人の銀さんが一本の線で繋がらない。
私が知っている銀さんはもっと意地悪で乱暴で、いつも鼻くそほじってばかりで、汚い言葉ばっかり使って、ときどきひとりでふらふらとどこかに行ってしまう癖があって、どこか掴みどころがない人だった。それに比べて大人の銀さんは落ち着いているし優しい。
大人になると、人はこんなにも変わるものなのだろうか。それともこれは夢だから、私の願望がこうやって現れてきているのかもしれない。
「あのな、これから行くところは、大人のお前が働いてるところなんだけどさ」
「私、どんなお仕事してるの?」
「住み込み家政婦」
「ふぅん」
「住み込みなわけだから、とりあえずそこには事情を説明しとかないと、お前の雇い主も心配すると思うんだよね」
「それでそこに向かってるわけね。どんなところ?」
「おまわりさんの屯所」
「おまわりさん?」
銀さんは首の後ろをぼりぼりと掻いて、唇をへの字に曲げた。何か言いにくいことがあるようだった。
「まぁ、行けば分かるよ」
黒い制服に腰には真剣、咥え煙草に低い声、そして何より、瞳孔の開いた獣のように光る瞳。
その人を一目見て、私は背筋に冷たいものが走るのを感じて、銀さんの着物の裾にしがみついてしまった。
怖い。
目が合うと体がすくんで何もできなくなってしまいそうで、絶対にその顔を見ないようにした。そうすると、その恐ろしい人は黒い体をした顔のない化け物のようにも思えていっそう私の恐怖心をあおったけれど、もうどうしたらいいか分からなかった。
土方くん、と銀さんが呼んだその人は、怒っているような顔をしてじろりと私を睨む。
私が何をしたって言うの。大人の私のことがよっぽど嫌いだったのかしら。それにしても、私はこんなに小さくてか弱い子どもなのに、こんな怖い顔をして睨みつけるだなんてどういうつもりだろう。
真選組というのは、幕府お抱えの警察機関だそうだ。つまり、頭の固いお役人ということだ。松陽先生を目の敵にして、根も葉もない噂を流して評判を落としてみたり、何かと理由をつけては村から追い出そうとするひどい人達。
どうして大人になった私はそんなところで働くことになってしまったんだろう。
嫌な夢。
本当に、嫌な夢。
松陽先生と暮らしていた田舎とは、違う蝉の鳴き声がした。
舗装されたアスファルトの道は、熱した鍋の上を歩いているみたいに暑い。
日差しが強すぎて肌を刺すようだ。
世界中が真っ白に光って眩しくて、目を開けていられなくなる。
首筋を汗が流れていくくすぐったい感覚。
これが全て夢なのなら、あんまり生々しすぎるような気がしたけれど、深くは考えないことにした。
化け物について行くと、敷地の隅に建てられた離れに通された。
「お前の部屋だ、好きに使いな」
てっきり、屋根裏部屋か物置のような暗く湿った場所につれていかれると想像していたのだけれど、そこはかわいらしい小さな家だった。和室がひとつきりしかない狭い家だけれど、小さいながら台所もついていたし、掃除も行き届いていて清潔だ。床の間には名前を知らない花が一輪挿しにいけてあった。
「ひとりで使っていいんですか?」
「いいもなにも、元々お前の部屋だよ」
私は部屋をぐるりと見回して、ため息をついた。あんなに怖かった化け物とふたりきりで、ついさっきまで取って食われるんじゃないかと思っていたのが嘘みたいだ。こっそり振り返ってみると、化け物は私には手の届かない場所にある窓の鍵を開けてくれ、台所から蚊遣豚をとってきて蚊取り線香に火をつけてくれた。
私は好奇心に勝てず、机の引き出しを上から順に開けてみた。
筆記用具と裁縫道具が入っていて、私が寺子屋で使っている指貫があって驚いてしまう。まだ私の指には合わなくて、大人になったらきっと使おうと大事に持っていたものだ。その小さな決意を、大人の私は忘れていなかったらしい。何だか誇らしいような気持ちになる。
化粧品と道具を入れた巾着の中には、宝石の用につやつや光る赤い紅やおしろいがきちんと収められていて、これは私のような子どもが簡単に触っていいようなものではないような気がしたので、そっと引き出しに戻した。
その奥に大切そうにしまってあった薄い冊子は、銀行の預金通帳だ。少し迷って、そっと開いてみる。見たことのない桁の数字が並んでいて、私は息を飲んだ。
「お前も混乱してるだろうから、今日はゆっくり休めよ。仕事は明日からな」
化け物に声をかけられて、はっとした。ひょっとしたら、私は今ものすごく下品なことをしているのではないだろうか。人の机の引き出しを勝手に開けて、通帳を盗み見るだなんて。でも、これは大人の私の名義だし、子どもとは言え私は私に変わりがないわけで……。
「このお仕事は、お給料がいいんですね」
怒られるかな、と思いつつも聞いてしまった。
「別に普通だと思うけど」
化け物は表情を変えずに答えた。
「でもこれ……」
「お前がびっくりするぐらい貯まってんなら、それはお前が頑張って貯金したんだろ」
ということは、大人の私は真面目にコツコツ働いてきちんと貯金をするような、きちんとした大人だということだ。そう思うと、自然と背筋が伸びた。記された数字を目に焼き付けて、大切に元あった場所にしまった。
「この部屋には隊士は近づいたらいけねぇことになってるから、安心して休めよ」
化け物が言う。
「近づけないって、どうしてですか?」
「大人にはいろいろあんだよ」
「でも、おじさんは部屋の中に入ってますよね、いいんですか?」
と、化け物の体から一気に力が抜けた。どうしたんだろう。何か悪いことでも言ったかしら。
でも、こんなに簡単にダメージを与えられるくらいなら、いくら顔の怖い化け物と言えど恐れるに足りないのかもしれない。少し勇気が湧いてきた。
「? どうかしましたか?」
「……いや、別にっ……。俺のことは、土方さんって呼べ」
「ひじかたさん」
「何だよ?」
「大人の私って、どんな人だったんですか?」
そう質問すると、土方さんという名前の化け物は考え込むように目を伏せた。なんだか、悲しげな目だった。どうしてそんな顔をするのか分からなくて、どう声をかければいいのかも分からなかった。だって、大の大人がこんな顔をするところを、私は一度も見たことがなかった。
しばらく続いた沈黙の後、土方さんは静かに言った。
「しっかりした奴だよ」
「しっかりって?」
「なんていうかな。料理も掃除も洗濯もちゃんとこなして、俺達にもすげぇ気ぃ遣うし、いつも機嫌いいし。そういうしっかりした奴」
「へぇ」
なんだかやけに褒めてくれて、嬉しくなる。
大人になった私。二十年後の私。まったく上手に想像できないけれど、きっと今よりずっと背が伸びて、胸が大きくなって、落ち着いて穏やかで、きちんとしっかりした立派な大人になるのだ。
そう思うと、俄然楽しみになってきた。
料理も掃除も洗濯も、頑張ろう。いつも寺子屋でやっていたし、きっとうまくやれる。未来の私にできることだもの、今の私にだってできるはず。
きっとこれは夢だけれど、夢なりに楽しまなくちゃ損よね。
「ま、ガキのお前にはそこまでの期待はしてねぇから。無理せずやれよ」
せっかくいい気分だったのに、土方さんの一言が私の出鼻をぽきんとくじいた。かちんときて、私は土方さんの手を振り払って大声を上げた。
「む、無理じゃないもん!」
「無理だよ。ガキのくせに生意気言ってんじゃねぇ」
「できるもん! いつも寺子屋でやってるんだから!」
なによ、馬鹿にして。私のことなんか何も知らないくせに、どうしてこんなことが言えるんだろう。これだから頭の固いお役人は嫌いだ。
勇気を振り絞って、土方さんの顔を真正面から見上げて睨んでやる。さっきまで怖くて仕方なかったのに、こんなことまでできるようになるだなんてすごい進歩だ。どうせ敵わないことは分かっているけれど、少しでも私の意地を見せてやりたかった。
「なぁ」
ふと、土方さんは腰を屈めて私と目線を合わせると、静かな声で言った。
「お前、本当に何も覚えてねぇの?」
驚いてしまった。
化け物のように怖い顔した人が、大人の男の人が、私みたいな小さな子どもの前でこんなに悲しそうな眼をするだなんて。
私は何も言えなくなってしまう。なんだかとても悪いことをしてしまったような気になる。
風に吹かれて、風鈴が鳴る。
私が知っているのとは違う、蝉の鳴き声がずっとしている。
「……ごめんなさい」
私は途方に暮れて、ただ一言そう言った。
20170709