優しかった母の冷たい手のひらを覚えている。

 母は優しかった。膝の上に抱き上げられて見上げた、太陽のように眩しい母の笑顔。温かな胸のふくらみ、穏やかな声、慈しみをもって頭を撫でてくれた冷たい手。
 
 母は豪農の妾だった。村中の誰もが知っていることだったが、子どもだった俺には理解の範囲を超えていた。母はただ優しい人で、それだけで絶対的に完璧な存在だった。ただそばにいてくれるだけ、それだけで幸せだった。

 豪農の父は大層な遊び人だったそうだが、幼い俺にとっては優しく頼もしい、大きな人だった。その逞しい手に支えられ、空高く体を持ち上げられればまるで鳥になったようで、両腕を広げて空を舞う自分を見上げて、大きく笑う父の顔。逞しいその腕を覚えている。

 母が父の一族の人間から疎まれていたことを知ったのは、母が死に父が死んで、天涯孤独の身になってからだ。父の一族の口から語られる母の話は自分の知る母とはまるで別人のようで、まだ幼い子どもだった俺はその事情をうまく呑み込めなかったが、つまり、世間にとって母は豪農をたぶらかしたあばずれで、そんな母が孕んだ自分はこの世の中に存在してはならない人間らしい。

 誰もがそう言って、まだ幼い俺を冷たくあしらい、煙たがった。まだ何も分からない小さな子どもに向かって大人げない連中だったと、今なら分かる。小さな村の狭い人間関係の中で育つ者は狭量な人間になるものらしく、それはどうにも仕方のないことではあったが、理不尽だった。ただ生まれてきた子どもには何の罪もない。

 年の離れた兄の優しさだけが救いだった。母と父を失った寂しさを忘れられたのは、ただただ器の大きな兄のおかげだ。

 世界中の誰もに存在を疎んじられ、行き場のない子どもの手を取り、優しい眼差しを向けてくれた兄。半分しか血のつながらない兄。母のように、父のように、自分に笑いかけてくれた兄。

 手を繋いで歩いた夕暮れのあぜ道の青い草の匂いを覚えている。

 そんな兄も、自分のせいで目の光を失った。
 この時ばかりは、俺はこの世に存在してはいけない人間だというのは、どうやら本当のことらしいと本気で思ったものだ。

 俺はこの世の中に存在するだけで、大切な人を傷つける。
 唯一、優しくしてくれた人はみな、俺のせいでこの世からいなくなってしまった。
 ほんの一握りの、心から大切に思う人だった。
 ほら、だから言っただろう。お前なんかこの世に生まれてこなければよかったのだ。
 村中の人間から、後ろ指を指されているように思えた。

 けれど、そんな風に俺を疎む村中の人間は、自分にとって他愛もない有象無象だ。誰に何を言われようが、理不尽な人間の言うことを聞いてこの世の中から消えてやる気には到底ならなかった。

 母の優しい手、父の逞しい腕、兄の温かな眼差しを覚えている。
 母も父も兄も、俺がこの世の中から消えることを望まない。
 それだけは、考えるまでもなく分かっていた。





 土方が目を覚ますと、蔵の天井に開いた大穴から抜けるような青空が見えた。

 桂が仕掛けた時限爆弾が天井を吹っ飛ばしたのだと思い出すのにしばらくかかって、咳き込むと喉から黒い煤が出た。どうやら爆発から逃げ遅れたらしい。隊士達の声が四方八方から響いてきてうるさい。

「土方さん? 気が付きました?」

 冷たい手のひらに頬を叩かれて、土方は目をしばたいた。青空を背に、土方の顔を覗き込んできたのはだった。

「お前、こんなところで何してんだよ。危ねぇだろ」

 土方はほとんど反射的に毒づいた。屯所の敷地内とは言え、攘夷志士が仕掛けた爆弾が爆発した事故現場だ。蔵が崩れるかもしれないし、まだどこかに爆弾が仕掛けられているかもしれない。こんな場所にには近づいて欲しくなかった。

「こんなところで寝っ転がってる人に言われたくありませんよ」

 土方の俺の心配をよそに、濡れた手拭いで土方の汚れた顔を拭っている。煤や埃にまみれた肌に、濡れた手拭いとの手は確かに心地良かったが、よくよく神経を研ぎ澄ませてみて土方ははっとした。

 今、自分が枕にしているのはの膝ではないか?

 そう気付いた途端、土方はやかんが沸騰するように頬を赤くして体を起こそうとしたが、すぐに眩暈を起こして倒れ込んでしまう。爆発をまともに食らったせいで体の感覚が麻痺しているのだ。

「……気持ち悪ぃ」
「無理しないでください。さっさと逃げないからこんなことになるんですよ」
「俺が逃げるわけにいかねぇだろ。危うく屯所まるごと吹っ飛ばされるところだったんだぞ」
「そのおかげで、土方さんが一番重症ですよ」
 
 土方はの膝の上でどうにか首を巡らせた。
 崩れた蔵の壁を片付け、爆発物を検証する隊士達、その指揮を執る近藤、崩れた壁に寄りかかって風船ガムを膨らませている沖田。そこら中がやがやと騒がしいが、こうして見る限り、動けずにいるのは土方ひとりだけのようだった。

「……誰も、怪我しなかったか」
「えぇ。倒れたのは土方さんだけですよ」
「……みっともねぇ」

 は何も言わず、静かに土方の頬についた煤を拭い続けた。
 隊士達の目の前での膝枕を借りるなど、普段の土方であれば絶対に許さないことだが、いかんせん体の自由がきかない。ありがたいことに、そんな土方を気に留める余裕のある隊士はひとりもいないようだった。

 の冷たい手のひらが頬に触れる。

 お前など、この世に生まれてこなければよかったのだ。
 そう言って、まだ幼い子どもを罵ったのは誰だったろう。あの息苦しい家に出入りしていた一族の誰かだろうが、もう顔もよく思い出せない。

 確かに、自分はこの世に生まれてこなければよかったのかもしれない。そうすれば、母や父はあんなに早死にすることもなかったかもしれないし、兄は目の光を失うこともなかったかもしれない。

 優しかったあの人達はみな、自分のせいで死んだ。
 何より大切な人達だった。
 死んでほしくなかった。
 守る力が欲しくて無我夢中に強さを追い求めてきたけれど、強くなったつもりで実際はどうだ。

 攘夷志士に易々と屯所への潜入を許してしまった。しかも相手は第一級の指名手配犯だ。こんなことがあって許されるのだろうか。内部情報を持ち出されたかもしれないし、松平からどんな小言を食らうことになるのだろう。むしろ、小言で済めばまだましな方だろうか。

 お前など、この世に生まれて来なければ良かったのだ。
 誰かが土方の耳元で囁いたような気がした。
 まったく、その通りだ。

「……俺はいつもこうだな」
「いつも?」
「またお前を危ない目に遭わせちまった」

 はわけの分からない顔をして土方の顔を覗き込んできた。そうやって、じろじろと顔を見ないで欲しい。みっともなくて情けなくて、蔵を爆破されるまで何もできなかった自分の無能さを突きつけられているような気がする。

「私は危ない目になんかあってませんよ」
「屯所中に爆弾が仕掛けられてたんだぞ」
「でも、結局爆発しなかったじゃないですか」
「爆発してたらお前も巻き込まれてた」
「だから、巻き込まれずに済んだじゃないですか」

 土方は目元を手のひらで覆って、の顔から必死に目を逸らした。みっともなくて恥ずかしくて、穴があったら入って埋まって、二度とそこから出て来ずにいられたらなんだってするのにと思う。

「そろそろ立てますか? 立てそうだったら行きましょう」
「行くって、どこに?」

 まだ現場検証も済んでいないのに、と手のひらの下から言いかけた土方に、は何とも言えない力のこもった顔で笑った。

「ちゃんと休める場所に、ですよ」





 連れてこられたのは、が私室として使っている屯所の離れだった。

 玄関はガラスの引き戸で、土間の片隅に小さな台所がある。和室がひとつあるきりで、畳は日に焼けてくすんだ茶色をしていた。あまりものがない。部屋の隅に小さな机と箪笥があるだけ、机の上には置き時計と本が何冊か重ねて置いてあった。

 は慣れた仕草で土方の上着を脱がすと、土間に降りてどこかへ行ってしまった。と、思ったら、奥の方から何か電子音が鳴る。
 戻ってきたは、土間から土方を見上げてテキパキと言う。

「お風呂、入ってください。タオル出しておきました、着替えは鉄くんが持ってきてくれます。何か食べますか? お腹空いてます?」
「いや、別に」
「じゃぁ、夕飯までここで休んでてください。近藤さんには言ってありますから」
「俺が休むわけにいかねぇだろ。桂を追わねぇと……」
「沖田くんと原田くんが出動したみたいですよ。きっと土方さんが出る幕はありませんよ」
「だけどなぁ……!」
「もし眠かったら、襖に布団入ってますから敷いてお昼寝でもどうぞ。それじゃぁ、私仕事があるので」
「あ! おいてめぇこら……!」

 目の前でぴしゃりとガラス戸を閉められ、伸ばした腕がむなしく中を泳ぐ。

 なんなんだ一体、突然こんなところに押し込んで、大体この離れに隊士は立ち入ってはならないと局中法度に定めているのだし、それを決めたのは他ならぬ土方自身だ。ばれたら切腹ものだ。ばれては困るから、うかつに外に出ることもできないではないか。近くを通りがかった隊士に姿を見られでもしたら言いわけができないし、そもそもここに来るまでに誰にも気づかれなかっただろうか。なぜだか何も思い出せなかった。

 部屋の真ん中に突っ立ってモヤモヤしている間に、部屋の奥からまた電子音がした。『お風呂が沸きました』と、女の声。

 爆発に巻き込まれてかぶった煤が足元を黒く汚していた。髪の中に手を入れると、黒い煤がはらはらと落ちる。煤で部屋を汚してしまうのは悪いような気がして、仕方がなく風呂へ入った。

 シャワーを浴びると、足元から流れ落ちる湯が真っ黒に染まる。こんなに汚れていたか、自分では意外と分からないものだ。
 全身を洗い流して湯船に浸かってぼうっとしていると、玄関のガラス戸が開く音がした。が戻ってきたのかと思ったが、甲高い男の声がして、あぁ鉄之助かとがっかりする。がっかりした自分に気まずくなって、頭の先まで湯に浸かってみる。いかん、のぼせる。

 バスタオルだけ巻いて外に出ると、上がり框に浴衣と帯がたたんで置いてあった。鉄之助はもういない。浴衣を広げると、音を立てて何かが落ちた。煙草とライターだ。鉄之助にしては気がきくことだ。煙草に火をつける。深く深く、胸の奥いっぱいに煙を吸い込む。吐く。

 しばらくそうしていたら、ずいぶん気分がすっきりしてきたので、ぐるりと部屋を見回してみた。

 この離れは元々は茶室で、風呂場や台所は後から増築したのだ。が屯所で働き始めて、この離れを当てがって、その頃のは確か近所の銭湯に通っていたのだが、それをどこで聞きつけてきたのか、松平が突然、施工業者を連れてきてあっと言う間に風呂場と台所を増築してしまったのだ。曰く「こんな野郎だらけの所に女一人だけで住まわせるというならこれくらいのことは当然」だそうだ。金はどうにか幕府から絞り出した。

 煙草と一本吸い終わって、重力に任せて横になった。畳の上に大の字になる。

 静かだ。蔵を爆発される騒ぎがついさっき、同じ敷地内であったばかりだというのに、ここは驚くほど静かだった。

 ふと目線を上げると、床の間に花が飾ってあるのが見えた。一輪挿しに、たんぽぽが一輪。屯所の庭に唯一自生する野の花。

 ……なんだ、俺、疲れてたのか。

 それに気づいたら、急に体の力が抜けた。
 少し眠ろう。そう思った瞬間、まぶたが降りた。





 次に目を開けたら、薄青い空気の真夜中だった。
 どのくらい眠っていたのか分からない。今何時だろう。起き抜けに体に力が入らなくて、首だけぐるりと回してみて、土方はぎょっとした。

 土方の左腕を枕にしてが添い寝していた。いつからそこにいたのだろう、全く気が付かなかったことに自分で驚いて、土方はぽかんとしてしまう。

 夢を見ているのかと思った。

 はどこか遠くを見るような目をして、じっと土方を見ていた。その瞳はしっとりと黒く濡れていて、まるで真珠のようだった。深い海の底で、固く口を閉じた貝の中でじっと息を潜めている大きな黒真珠。人の手に渡れば目の飛び出すような高額の値を付けられる立派な真珠。今はまだ誰のものにもなっていない、ただそこにあるだけで美しい真珠。

 見つけたのは自分だから、これはもう自分のものだ。

 土方は手を伸ばして、の頬を手のひらで包んだ。真珠の瞳をしたは不思議そうに瞬きをして、暗闇の中で小さく笑ったようだった。

「生きててよかった」

 土方は呟いた。何も考えずに、自然とそんな言葉がこぼれてきた。何を言いたいのか、自分でも分からない。ただぽろりと、唇から剥がれ落ちるようにそれはこぼれてきた。

「生きててよかった」

 は土方の手のひらの中で微笑むと、小さな声で土方の言葉を繰り返した。

 の声を聞いて、なんだか無性に切なくなった土方は、そのままを抱き寄せてキスをした。の唇の熱を自分の唇で感じ取って、そして本気で、生きていてよかったと思った。
 
 生まれてきてよかった。
 この夜を迎えるまで、生きてこられてよかった、と。






20170529