|
音は空気の振動だという。それはこそばゆく優しく、まるで肌の産毛を撫でるようだ。 「……何だっけ? それ」 「さぁ。何だったかしら。覚えてないわ」 思い出さない方がいいのかもしれないと、銀時は思った。 ひとりでに愛の歌 「あらまぁ銀さん。可愛い子抱いちゃって」 会うなり、は挨拶もせずうっとりと笑って頬に片手を添えてみたりなんかした。もちろんそれは銀時にばったり会えた事を喜んでいる仕草ではなく、その腕の中にいる赤ん坊に見惚れているのだ。銀色の猫っ毛、ふてぶてしい瞳。銀時はしまったと眉根を寄せた。 「どうしたのこの子? 昔の彼女に押し付けられたの? 私はもう疲れたのーとか言われて?」 「……なんでどいつもこいつもそう俺に対して懐疑的なのか俺には心底分からんよ」 「あははっ。嘘よ。で、どうしたの?」 は赤ん坊の小さな頭を包み込むように撫でながら言う。銀時はの白い手を見下ろしながら、心地良さそうに瞬きをする赤ん坊を抱き直した。 銀時とそっくりなこの赤ん坊を拾ったのは今朝方の事だ。この事件に危機感を覚えているのはどうやら銀時だけだと言うことが最大問題で、今現在銀時はすっかり途方に暮れていた。 だって神楽も新八もお登勢もキャサリンも、赤ん坊にめろめろなのだ。このままではシングルファザーに職業転向する羽目になってしまう。そればかりは避けねばならない壁だった。 「朝家の前に捨てられてたんだよ。神楽達が騒ぐから出てきた。親探さねぇと」 銀時が疲れ果てた表情で言うと、は案外あっさりと納得して頷いて見せた。 「あぁ、なるほどね。それで」 の素直さには、本当に頭が下がる。今日町で出会った知り合いは誰一人信じてくれなかった話を、はたった一言で信じてくれる。銀時はつい、その優しさに甘えてしまいたくなった。ため息と共に愚痴をこぼすと、それだけで疲労が少しだけ和らいだ。 「ちょっと俺、腕疲れたから。パス」 は躊躇いなく赤ん坊を受け取って、手馴れた様子で胸に抱く。赤ん坊は銀時に抱かれていた時よりも肩の力が抜けた様子で、無表情にも嬉しそうに片手をぱたりと動かす。は体を揺らして赤ん坊をあやした。 「ずいぶん静かな子ね。これは確実に銀さんの遺伝子じゃないわね」 「おいこら。どういう意味だそれは」 「褒めてるのよ」 「ていうかさ、こういうのってそっちの仕事だろ? さっき沖田くんに思いっきり無視されたんだけど」 「あぁ、沖田くんじゃぁね、ちょっと頼りないわね。近藤さんか山崎くんならいいかもしれないけど。私から相談してみる?」 「あぁ是非頼む。即座に頼む。そして早く俺をこいつから解放してくれ」 「じゃぁちょっと待っててね」 と、遠い子は赤ん坊を抱えたまま踵を返す。驚いた銀時を尻目に、近くにあった電話ボックスに入ったは器用にも片手でダイヤルを回した。 それを離れた場所から見ていた銀時は、一種大胆なその行動に何の突っ込みを入れることも出来なかった。 「こっちにパトカー回してくれるって。少し待っててね」 「え、パトカーで来んの? ちょっと大袈裟じゃないそれ? 身代金の掛かった誘拐事件じゃあるまいし」 「まぁそうだけど、いいじゃない細かいことは」 は「ねぇ?」と赤ん坊にわざとらしく返答を求めたら、まるで分かっているみたいに「ばぁ」とか相槌が返ってきた。 「じゃぁ銀さん、待ってる間に飲み物でも買ってきてくれる?」 この子にはちゃんとミルクね、と、は笑顔で念を押す。三人分の飲み物代は結局銀時が支払う羽目になった。 子供は泣くのが仕事だと桂は言っていたけれど、同時に寝るのも仕事である。赤ん坊はミルクを飲んだ後、腹が満たされて眠ってしまった。すやすやと、穏やかな寝息はの後れ毛を揺らしている。 そのと並んでベンチに座った銀時は、そんな呑気な赤ん坊を眺めて呆然と吐息した。 「ったく。いいよな、何にも分かってねぇ奴は」 はくすくすと笑いながら、相槌のように小さく答える。赤ん坊を気遣った声音だ。 「別に何も分かってない訳じゃないと思うけど。きっとこの子も疲れたのよ」 「この俺が一日中抱っこしてやってんのに。疲れたとはいい度胸じゃねぇか」 「銀さんも疲れてるみたいね。少し寝たら?」 「俺はそいつと同レベルか。よりにもよって乳幼児?」 「あははっ。ごめんなさい。言い過ぎたわ」 の笑い声に反応して、赤ん坊が少しだけ身を捩る。が腕を揺らしてあやしてやると、再び寝息が穏やかになった。少しだけの胸の頬を寄せていて、銀時にはそれが甘える仕草のように見えたので、赤ん坊は女にはこういう風に懐くのかと、思った。 「銀さんは子どもにモテるわね」 「どういう意味だよ? それ」 「そのままの意味よ。神楽ちゃんも、新八くんも、銀さんの事が好きで一緒にいるでしょ? この子も一緒なんじゃないかしら」 「子どもにばっか好かれてなんの生産性があんだよ。くだらねぇ」 「下らなくないでしょ。大事なくせに」 風が過ぎた。 例えば、昔の事を思い出してみる。自分の周りにいた子どもってどんな奴がいたっけ。考えてすぐに出てこなくて迷った。記憶が彼方過ぎて霞む。子どもって、どんな物だったっけ。今近くにいる子どもは眩しすぎて見えないから、少しだけ目を逸らしていたからよく分からない。 ふと耳をすませると、静かな歌が聞こえた。目をやると、が歌っている。消え入りそうな小さな声が、風に乗って銀時まで伝わってきた。子守唄。 音は空気の振動だという。それはこそばゆく優しく、まるで肌の産毛を撫でるようだ。 「……何だっけ? それ」 「……さぁ。何だったかしら」 覚えていないわ、と、は言った。思い出さない方がいいのかもしれないと、銀時は思った。 子どもは、どんなものだったったけ。今ここにいる子どもは、健やかに寝息をたてながら親指をしゃぶって涎でべたべたにしている、柔らかい、生まれ立ての生命体。命そのもののような、とろとろに甘ったるい生き物。 こんな時期が人間の誰にでもあったというのなら、なんて笑い話だ。今の自分はこんな、だと言うのに。 「銀さんは、子どもが嫌い?」 問われて、銀時はすぐに答えられなかった。 神楽も新八も、この赤ん坊も、好きというにはあまりにこっ恥ずかしい。けれど嫌いと言うには少しだけもったいない。 命の危機なら絶対に守ってやるし、いつか幸せな場面を迎えることがあるなら心から祝ってやりたいと思う。何だかんだで、万事屋の汚いソファの定位置に二人が座っていてくれると心なし安心するし、の腕にすっぽり収まった赤ん坊の寝顔は平穏だ。それは、安堵というものだと、銀時は知っていた。 「……別に、そういう訳じゃねぇけど」 「素直じゃないんだから」 「うるせぇよ」 そして、の笑顔もひとりでの歌も、確かにそんな安堵の内一つなのだ。眩しくていつも目を逸らしてしまうもの。だからこそ大切なもの、大切であるはずのもの。 が呼んだらしいパトカーがやってきたのはそれから五分ほど経った頃で、助手席から顔を覗かせたのは土方だった。と銀時は心中で同時に「あぁあ」と嘆息した。 20080617 |