その人の背中が信じられないくらい心地良くて、久しぶりによく眠った。

声を掛けられて起こされたら夕方で、目を開けた時に見た夕日が眩しかった。ここがどこかは分からなかったけれど、そこには大きな古い家があって、畑があって家畜小屋があって、後は林と山だった。三百六十度見回しても鬱蒼とした緑だった。

おかえりなさい、先生。

声がして振り向いたら、小さな女の子が不思議そうな顔で首を傾げていた。短く切った髪に、地味な藍色の着物。可愛げのない出で立ちだった。

だぁれ? その子。

女の子が言う。何と答えればいいのか分からなくて、何も言えなかった。


何も、言えなかった。





誰にも言えないからせめて呟かせて






吉原の街は華美だ。照り光るような黒い瓦に、漆塗りの赤い壁、提灯の明かりは橙、広葉樹の葉のぽってりとした緑、女の白粉の白。それらの光を全て集めて、空気は乱反射する虹色。極彩色の街だ。

それが今は火事の後始末に忙しなく、女も子どもも皆総出で働いている。橙の灯りは点らずに、太陽の高い昼間は焼けた木材の灰色と焼け残った植物の緑のコントラストが新鮮だった。大工の男達の勇ましい声と高らかな女の声が、近くからも遠くからも響く。

ここは辛うじて焼け残った遊郭の一部屋だ。二階の出窓から焼けた灰色の道を見下ろす。灰色の街を、人々が活気と希望に溢れた笑顔で行き交っている。

は正座した足を斜めに崩して、窓枠に頬杖を付いて、いつになく体中の緊張を解いていた。浅い呼吸。微かに忍び込んでくる風から、焦げた木材の臭いがしている。は少しだけ昔を思い出したくて、ひたすらぼんやりする事に努めていた。

ふと、衣擦れと小さく呻くような声を聞く。銀時が目を覚ましたようだ。流水と蓮の花があしらわれた几帳の向こうで、人影が身じろぎした。

几帳を回り込んで、布団に横になっている銀時の顔を見下ろせる位置に正座する。布団は上質な羽毛で、幾何学紋様が刺繍された高価なものだ。枕元には硝子製の水差しと、凝った刺繍が施された手拭いと赤い漆塗りの桶、やけに卑猥な色と装飾の提灯が、きちんと並んでいる。元が遊郭なので、怪我人のための急拵えも不思議に淫靡な雰囲気になる。

銀時は怪我の痛みに表情を歪ませていて、額に油汗をかいていた。濡れた手拭いでそれを拭ってやると、まるで藁に縋るように虚ろな瞳が焦点を結ぶ。唇が震えた。

「……来てたのか?」

その声が予想外に気弱で、は思わず息を飲んだ。銀時は手のひらで額を押さえて何度も瞬きをする。自分が発した声に、自分自身驚いているようだった。

銀時の顔を上から覗き込む。小さな声に耳を傾けた。そして同じくらい小さな声で答えた。出来るだけ不安な顔を見せないように、少しだけおどけて。

「来てましたよ。調子どう? どこか痛い所とかない?」

「……誰に聞いたんだよ」

銀時は質問に答えず、掌の下から私を睨み上げた。瞳に影が落ちて、眼光が暗い。少しだけ胸が痛んだけれど、痛みを飲み下して耐えた。銀時に睨まれたくらいで、心を折るものかと思った。

「神楽ちゃんと、新八君が教えてくれた」

「仕事は?」

「私の事は大丈夫よ。心配しないで」

銀時の息が熱い。怪我の炎症のせいで発熱しているのだ。手拭いで頬を拭ってやったら、ため息が心地良さそうに流れた。

「……別に良かったんだぞ」

「え?」

「死ぬような怪我じゃあるまいし」

「これのどこが? こんな時くらい強がらなくったっていいのよ」

「そんなんじゃねぇって」

銀時は唐突に、勢いをつけて自力で上半身を起こした。どこにそんな力が残っているんだろう。驚く暇もなく銀時の体が傾いだ。両腕を伸ばしてそれを受け止める。銀時の体は重くて自分も倒れそうになったけれど、膝に力を入れてなんとか堪えた。

「ほら、やっぱり無理してるじゃない……っ」

「大丈夫だって……」

銀時の手が、私の着物の袖をぐいと掴んだ。怪我人とは信じられないくらいの力強さで、指が着物越しに肩に食い込むくらいの乱暴さで。肩に銀時の頭が圧し掛かってきて、その重みに体中が悲鳴を上げそうになるくらい軋んだ。銀時の体重を支えきれなくて倒れそうだった。けれど、銀色の細い猫っ毛が頬に当たる。それは呼吸の度に弱々しく震えた。

「……銀さん」

体中の力を振り絞って、指先まで神経を使って銀時を抱きしめ返した。銀時の重さに、銀時が抱えているものの重さに、押し潰されそうだった。けれど、そうなってたまるものかと意地になって踏ん張った。

歯を食いしばる。涙が出そうになるのを、必至で抑え込んだ。銀時の体に、自分自身もしがみ付きながら。






銀時は刀を手放さない。初めて松陽に連れられて家にやって来た時も、松陽の授業を受ける時も、攘夷戦争に赴く瞬間も、そして今も。腰に何か差していないと落ち着かないといって、廃刀令のご時勢に決してそれを手放さない。

それについて、どうしてと、聞いた事はない。何だか怖かったのだ。刀は、本来生き物を殺めるための道具で、それを手放す事のできない銀時は怖かった。銀時が私を傷つけるんじゃないかと思ったんじゃない。刀を持つことで精神の安定を図っている銀時の不器用さが、そんな銀時の生き方が切なかった。銀時の心に踏み込んでいく勇気のない自分が情けなくて、その意気地のなさに腹が立った。

どうして、私は銀時を助けて上げられないんだろう。銀時を抱きしめる事は出来ても、それだけだ。それしか出来ない。

銀時は眠っている。の膝を枕にして、規則正しい寝息を立てている。銀色の猫っ毛をゆっくり撫でながら、は銀時を起こさないように声を殺して泣いた。



20090710