彼女に学ぶ 「栗子がよぅ、最近どうも元気がねぇみたいでな?」 語尾をだるくのばす独特のしゃべり方で、松平片栗虎は悲嘆に暮れて言った。その落ち込みようは傍目から見ても明らかで、少し顔色が悪い。その心労の種が年頃の一人娘だと言うのだから、何て心優しい父親かしらと思うのは、考えすぎかもしれない。松平様は人より多少、子煩悩で親馬鹿だ。 「と、言いますと?」 「近頃部屋に籠りがちでなぁ? 何かあったのかって聞いても答えねぇんだ。飯もあんまり食わねぇしよう、すっかりやせ細っちまって……。可愛そうだったらありゃしねぇ」 「奥様にもご相談なさってないんですか?」 「母ちゃんは『女にはそういう時もあるもんだ』って言って話もまともに聞いてくれねぇんだよ。栗子の事全部知ったような口利きやがってよぉ」 「それは、父親としては心配ですねぇ」 「そう言ってくれるのはちゃんだけだよぅ。忙しいところ悪ぃが、ちょっと話聞いてやってくんねぇか?」 何だ、頼み事というのは娘の様子見か。それならばお安い御用と、二つ返事で頷いた。 扉をノックをして、返事を待つ。くぐもった声が聞こえたので、部屋を覗き見た。栗子の私室は白い壁紙と熊のぬいぐるみが飾られた実に可愛らしい部屋だ。 小さな声で呼びかける。 「栗子さん?」 栗子はベッドにうつ伏せに倒れていた。胸にぬいぐるみを抱いていて、わずかに肩が上下している。どうやら眠っているようではないらしい。 部屋に入って後ろ手に扉を閉めたら、その音に栗子が振り向いた。 「……誰でござりまするか?」 「です。こんにちは」 その瞬間、栗子は驚くべき速さで飛び起きた。ぬいぐるみがベッドに取り残されて、栗子が駆け寄ってくる。 「さん! お久しぶりでござりまする!」 胸に飛び込んできた栗子を抱きとめて、は変わらず元気な栗子の髪を撫でた。体に触れてみても、栗子は特にやせ細っているようではない。 「お久しぶりです。元気になさってましたか?」 「はい! この通りでござりまする!」 栗子は満面の笑みを浮かべて拳を握って見せる。メイドが運んできたお茶とお菓子をテーブルに並べて、ソファーに座る。栗子は丈の短い着物を着た足をきっちりと揃えた。 「今日はどうして突然遊びに来てくださったんでござりまするか?」 「たまたま時間ができたんです。もしかしてお邪魔でした?」 「そんな事ございません! 栗子は嬉しいです!」 「良かった」 栗子と初めて出会ったのは、真撰組の家政婦として働き始めてからすぐの事だ。松平様に挨拶をするために自宅を訪れて、その時顔を合わせた栗子はまだ少女の域を出ていない子どもだった。 良かったら相手をしてくれないかと松平様に頼まれて、それからはまるで年の離れた姉妹のように付き合っている。お互いに敬語が抜けないのは癖のようなものだ。仕事の関係でなかなか頻繁に会いに来れる訳ではないけれど、これはこれで良い関係だと思っている。 「最近少し様子がおかしいって、お父様が心配してらっしゃいましたよ?」 栗子はティーカップを揺らして視線を落としている。伏せた睫が頬に影を落としていて、なんだか年齢に似合わず色っぽい。 ティーカップがソーサーに触れてかちゃりと鳴った。 「……私、つい先日失恋したんです」 「失恋」 「はい。失恋でござりまする」 栗子は笑っているけれど、それは未完成だ。うまく笑えていない。話を聞いて欲しいのだろうと思って、一つ頷いて待った。 「……とても、素敵な方だったんです。けれどあの方はお国に帰らなければならなくて、……私は、一緒に行けなかったんでござりまする」 「栗子さんは、一緒に行きたかったんですか?」 「もちろんでござりまする! でも……!」 栗子は言葉に詰まると黙り込んで、静かに瞳に涙を溜めた。零れ落ちないよう瞬きを我慢している。そんな無理をしなくてもいいのにと思う。けれど、栗子は栗子なりに自分の気持ちに整理をつけようとしているのだ。慰めるのは、もう少しだけ先。 「……さん。ひとつ質問してもいいでござりまするか?」 「えぇ。もちろん」 「叶わなかった恋を忘れるには、どうすればいいんでしょう……」 栗子はぎゅっと目を閉じる。その瞬間、大粒の涙が頬をぽろりと転がった。声を押し殺して泣きながら、ぎゅっと膝の上に拳を握っている。抱えきれない気持ちをどう発散すればいいのか、方法が分からず持て余している。 いっそ大声を出して泣けばすっきりするのだろうけれど、そんな事をしたら私を困らせてしまう。それに、泣き声を聞きつけて松平様が部屋に飛び込んで来かねない。だから我慢している。じっと、波が過ぎるのを待つように。 なんて優しい栗子。誰にも心配を掛けたくなくて、ずっと我慢していたのね。 「栗子さんは、その方の事を忘れたいんですか?」 「……忘れたくはありません。けれど、もうお会いできない方でござりまするのに……」 「例えもう会えなくても、……忘れたくないなら忘れなくてもいいと思います」 栗子は泣きながら顔を上げる。ぐっと噛みしめている唇が震えていた。 「失恋は、どんな形であれ人を成長させるものです。栗子さんがその恋を忘れたくないと思うなら、それは栗子さんにとって、きっと大切な意味を持つんじゃないでしょうか?」 もう我慢しなくて良いのだと言い聞かせるように笑い掛けたら、栗子は待っていたように私の胸に飛び込んできて、それでも声を殺して泣いた。 静かにその髪を撫でてやりながら、松平様になんと報告したらいいかを考える。娘が失恋して落ち込んでいたと知ったら、娘を傷つけた男の命を奪いに行くかもしれない。松平様はそれくらいしかねない人だ。 「今日、松平のとっつぁんに呼ばれてたらしいな」 と、土方が言う。 「栗子さんに会いに行ってたんですよ」 と、答えたら、土方は唐突に煙草に咳き込んだ。一体何事かしら。土方は背中を丸めて、情けなく俯いている。背中を擦ってあげたら、照れくさそうに視線を逸らした。 「大丈夫ですか? どうかしました?」 「……何でもねぇよ。ていうか、何、知り合い?」 「まぁ。松平様に仲良くしてやってくれと頼まれているので」 「いつから?」 「ここに勤め始めてからです」 「最初からじゃねぇかっ」 「そうですね。栗子さんがどうかしましたか?」 土方は不機嫌な顔で煙草を咥え直す。どうやら私には言いたくない事があるようなので、詳しくは問いたださない事にした。 別に、どうしても知りたい事ではない。重要な事はそんな刹那的なものではない。 栗子は、もう会えない誰かを思って泣いていた。例えばもし私がこの仕事を辞めるか、もしくは他の止むを得ない理由で、土方と二度と会えない状況に陥ったら。私は、あんな風に泣けるだろうか。 けれど重要な事は、そんな空想的なものではない。 「……とっつぁんには気をつけろよ」 「はい?」 土方はいつの間にか顔を上げていて、いつも通りにすぱすぱと煙草を吸っていた。どうやらもういつもの調子に立ち直ったらしい。 「とっつぁん、あぁいう人だろ。あんまり無理な事頼まれたらちゃんと断れ。近藤さんが尻拭いしてくれかっら」 「近藤さんがですか」 「その近藤さんの尻拭いを俺がするんだよ」 「あぁ、なるほど。そういう事ですか」 重要な事は、もっと現実的なもの。目の前に差し出された優しさに、心ときめかせる事。感謝とか、小さくて大切な事を忘れない事。 もしも恋が終わる時が来ても、子どものように泣かないように。 20090506 |