が退院して屯所に戻ったのは、事件の後処理もほとんど済んだ一週間後のことだ。すぐに今まで通りの仕事に戻るには体力も落ちていたし、かえって周りに気を遣わせてしまうので、簡単な仕事から徐々に体を慣らしていくことになった。とはいえ、真選組の唯一の華がやっと屯所に戻ってきたとあって、隊士達はもちろん、女中達までほっと安心して浮足立っているようだった。
「まったく、しまりがなくて困ったもんだなぁ」
と、近藤は全く困っていなさそうな顔で豪快に笑った。
そんな中、土方が過労で倒れたのは、当然と言えば当然だった。なにせ、
が行方不明になってからはほとんど休みも取らずに働きづめだったのだ。このあたりでそろそろ限界が来ない方がおかしい。
副長の業務を代行することになった沖田が、悪魔のような顔で笑いながら、
「まぁ、ゆっくり休んでくだせぇよ。二度とこっちに戻ってこなくても別に困りゃしませんぜ」
と、嘘とも本気ともつかないようなことを言って、土方は冷や汗をかかされた。
寝間着姿で寝煙草を吸っている土方のそばで、
はいつものように縫物をして過ごしている。寝込んでいる土方を
が看病している、という名目ではあったが、こんな機会でもなければふたりきりで過ごすこともなかなかできないふたりだ。あんな事件の後ということもあるし、屯所に出入りする人間はみな、ふたりに気を遣って副長室のそばにはよほどの急用ができない限りは近づかないと無言の申し合わせをしている。障子の向こうの耳や目を気にする必要がないので、屯所の中でよくこんな話ができるものだなと思えることまで、ふたりは声を落とすことなく口にしていた。
「桂くんと、高杉くん、ねぇ」
土方は煙草の煙を吐き出しながら、遠い目をして呟いた。いつか叩き斬らねばならない攘夷浪士の名前を親しげに呼ぶ
の真似をしてみたのだが、まったくしっくりきていないらしい。
は苦笑いして言い訳をした。
「そんな風に呼んでいたんですもの。今更変えられませんよ」
「よく今まで隠しとおしてこれたよな」
「そうですねぇ。でも、土方さんだって聞かなかったじゃないですか」
「そりゃ聞くまでもなかったからな。お前がここに来たばっかりの頃、監察方に調べさせたから」
「あら、そうだったんですか」
「そこでなんで何にも出てこなかったんだかな」
「私はひとりで江戸に出てきたからだと思いますよ。こっちにはなんのつてもありませんでしたから何もかも一からでしたし、こっちで知り合った人にはそのこと話したことありませんもの」
「なるほどな」
は、この事件について事情聴取では話さなかったことまで、土方にはすっかり話してしまっていた。何を話しても土方は決して裏切らないという確信があったから、なんの不安もなく全てを話した。すべての秘密を明かしてしまった今となっては、ありのままの自分をまるごとさらけ出してしまえる。それがこんなに心地良く、肩の力が抜けることだとは、
も想像していなかったことだった。まるで雲の上に乗ってふわふわと中に浮いているような気分だ。温かな場所で心から安心できて、怖いことはこの先何も起こらないと無条件で信じられそうな気がした。
「そういえば、近藤さんや沖田くんはこのこと知ってるんですか?」
「何か聞かれたか?」
「いいえ。でも土方さんが気づくようなことなら、皆も気づくんじゃないですか? 山崎くんだって鋭いところありますし」
「たぶん、知っているとは思う。だが、まぁ俺が何か言わなけりゃ動くことはないだろ。あいつらもお前のことは信用してる。心配すんな」
「そうですか。良かった」
ほころぶように笑った
の頬をつついて、土方も目を細めて笑った。
は相変わらず、赤い糸で花ふきんを縫っている。使い込んだ裁縫箱の中にあの古びた巾着があって、土方はなんの気なしに手を伸ばす。
「あ、……」
と、土方の手が触れるより先に、
は裁縫箱ごとそれを土方の手の届かないところへ押しやった。
「なんだよ?」
「いえ、別に何でもないです」
「何でもなくねぇだろ」
土方はむっとして、体を起こして身を乗り出したが、
は裁縫箱の前に盾になるようにして土方に背を向けてしまう。その意固地な背中に土方はさらにむっとした。
「何でもねぇなら見せろよ」
土方は脅すような声を出して
の腰を掴むと、煙草の煙を
の耳元で吐き出した。急なことに
はげほげほと咳き込み、土方がその隙に手を伸ばして巾着を奪い取る。
の悲鳴が聞こえたが、構わない。
「ちょっと、土方さん! 返してください!」
「うるせぇな。いいじゃねぇか別に」
「良くないから言ってるんですけどっ」
「お前もう隠し事ねぇんじゃなかったのかよ」
「それとこれとは話が違いますから!」
手を伸ばして巾着を取り返そうとする
を煙草の煙で追い払って、土方は巾着をまじまじと観察した。何の変哲もない巾着だった。古い端切れでできていて、おそらく元は着物の一部だったものだろう。端の糸が少しほつれている。縫い目が粗く、子どもの手で作られたもののようにも見える。口を開いてみると、赤い刺繡糸でいくつかのボタンが連なっていた。それは真選組の隊服、上着の肩についている飾りボタンや、ベストの前を留めるボタンだった。
なんでこんなものを後生大事にしているのか、まるで理解できない土方が振り返ると、
は両手で顔を覆って俯いていた。耳の先が真っ赤だった。
「なんだよこれ?」
「……聞かないでください」
「桂くんか高杉くんにもらった思い出の品、とか?」
「いえ、子どもの頃に私が着物の端切れで縫ったんです」
「これは隊服のボタンだろ」
「そうなんですけど、あの……」
指の隙間から土方を見上げた
は、土方の鋭い目に睨まれ、ようやく観念したように嘆息する。土方は煙草をぷかぷか吹かしながら、ひと時も
から目を逸らさずに見つめていた。
「……土方さんのです、それ」
「ボタンが?」
「……はい。隊服が傷んで取り替えた時に取っておいて、あの……」
なんでそんなこと、と土方が言う前に、
は開き直ったように声を上げた。
「あぁもうすいませんでした、勝手に取ったりして! 御守りにしてたんです、勝手に! 笑っていいですよもう!」
「いや、どうしたよ、急に?」
「私だって分かってるんですよこんな小娘みたいなことして何の意味があるのかなんて、意味なんてないですよ。でも欲しかったんですもの! 怒るなら怒ればいいじゃないですか!」
「いや別に怒ってねぇし」
怒っているのだか泣いているのだが、それとも恥ずかしがっているのか照れているのか、それが全部入り混じったような顔をして、
はぷいと土方に背を向けた。が、耳どころか首筋まで赤く染まっていて、隠そうとしているところはまるで隠れていないように土方には見えた。
ボタンのひとつやふたつ隠し持っていたところで一体何をそんなに恥ずかしがることがあるのか、土方には分からない。ただのボタンが御守りの効力を持つものだろうか。こんなものに頼るくらいなら、道端の地蔵に供え物でもした方がよほどご利益がありそうなものだ。
赤い糸でつながったボタンは、よくみると細かい傷がついている。真っ二つに割れてしまったものを接着剤でくっつけているものもあった。派手な喧嘩をして隊服に穴が開いたり布地が裂けたりすれば、当然ボタンも傷む。
はそれをひとつひとつ集めて、糸で結び付けていた。
欲しかったと言った。
土方のものが欲しかったのだと。
土方には
がどうしてこんなことをしようと思いついたのか想像できなかったし、どうしてそんなに腹を立てる必要があるのかも分からない。けれど、身につまされることはあった。土方はこれまで
に何かを贈ったりしたことがなかった。これだけ長い付き合いになるというのに、だ。
土方は
の顔を覗き込む。
は顔を背けようとしたものの、あんまり土方がじっと見つめてくるものだから耐えられなくなって、やっと目を合わせた。恥ずかしさのあまり潤んだ瞳に、土方の顔が映る。
「そんな顔すんなよ。別に怒ってねぇし」
「……それは分かってます。すいません、大声出して」
「ボタンくらい、いい。お前に任せてる仕事だしな」
土方は
の赤く染まった首筋を大きな手のひらで撫でる。大声を出して興奮したのか、肌が熱い。
「何か、欲しいもんでもあるか?」
はきょとんと眼を見開いた。
「欲しいもの、ですか? なんですか? 急に」
「いいから、何でも好きなもん買ってやる。何でも言えよ」
はよほど思いがけないことだったらしく、ぱちくりと瞬きをして考え込んだ。土方は
のうなじの辺りを優しく撫でながらじっと待った。
「本当に、なんでもいいんですか?」
「あぁ。いいよ」
「じゃぁ、土方さんの持ち物、何かくださいませんか?」
「はぁ?」
「何でもいいんです。ハンカチでも、ライターでも……。土方さんのものを御守りに持っておきたいんです」
は遠慮がちに目を伏せて、膝の上で組んだ両手をもじもじと開いたり閉じたりする。
「そんなもん御守りにして、なんか意味あるか?」
心底意味が分からなくて、土方は首を傾げたが、
は力強く頷いた。
「ありますよ。私にしかご利益ありませんけど」
そんなものか、と納得した土方は、少し考えて隊服のポケットから携帯灰皿を取ってきた。外での喫煙に厳しい目が向けられるようになってからずっと愛用しているものだ。近頃外出していなかったから、中はきれいに掃除してある。そこに
の巾着の中から赤い糸で繋げたボタンを移してやる。
「ほら」
子どものように目をきらきらさせて携帯灰皿を受け取った
は、それを胸に押し抱いて泣きそうな顔で笑った。
「ありがとうございます」
土方は空になった巾着を手のひらで握る。
「そしたら、これはもういらねぇな。もらっていいか?」
「あら、女物の巾着ですよ。何に使うんですか?」
「そうだな。お前の真似して御守りにでもするか」
土方は煙草を咥えたまま何も考えずに呟いたのだが、
が驚くほど嬉しそうに笑うので拍子抜けてしまった。喜ばせようとして出た言葉ではなかった。
――こんなことでこんなに喜ぶのか、こいつは。
「それじゃ、護符代わりにこれでもどうぞ」
は裁縫箱の中から何やら小さな布切れを取り出した。赤い糸で角亀甲の模様が刺してある端切れで、どうやら試し縫いに使った布らしく、それは巾着の中にちょうど良く収まった。
「角亀甲は、縁起の良い模様なんですよ」
は自信たっぷりに微笑んだ。
がそう言うならそうなのだろうし、何よりその笑顔に説得力があった。ただの巾着と布切れだが、もしご利益があるとするなら、
の笑顔が何よりの証拠だろう。
土方は手のひらに巾着を握り、うんとひとつ頷いた。
これから先、土方はこの巾着に守られ励まされることが何度もあるだろう。
そして
も同じように携帯灰皿に守られることがあるのだろう。
赤い糸がそれを繋いでいる。
それを疑わない限り、ふたりが道を分かつことはないのだ。
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20170124