パチン、というしずかな音とともに、わたしの頬をなでていた冷たい冬の空気が気配を消した。まぶたをもち上げると、ガラス窓ごしの白い光を、黒い大きな腕が横切っていた。

「風邪、引くよ」

黒い腕は、耳になじんだ低い声でそう言った。安心感からふたたび目を閉じたわたしは、体じゅうをおおっている気だるさにまかせて肩をかたむける。やわらかくわたしを受けとめたのは、黒尾くんのお腹だ。

頭の上から、黒尾くんの苦笑いが降ってきた。

「どうしたの、ちゃん? 今日はずいぶん、ダイタンね?」
「黒尾くんは今日も元気だね」

黒尾くんはわたしの肩を押し上げると、となりの椅子の背もたれをつかんでひきよせた。かたん、と、慎重な音をたて、長い足を折りたたむようにして座る黒尾くんは、体に似合わせず繊細なしぐさをする。まるで、よくしつけられた行儀のいいドーベルマンみたい。

わたしを見つめる、黒尾くんが笑っている。たぶんわたしも、黒尾くんと同じ顔をしている。

「この部屋、さ」

わたしは声をひそめて言った。

「うん?」
「ちょっと暑くない?」

黒尾くんは視線だけであたりを見回した。図書室に人気はない。12月に入ってすぐ、受験をひかえた高校3年生のわたし達は、自由登校になった。受験大作が整っている予備校にかよう生徒もいれば、進学先が決まって悠々自適の冬休みをすごしている生徒もいる。わたしみたいに、講習を受けるために登校してそれ以外の時間は自習にはげむ生徒もいるし、黒尾くんのように放課後の部活動が中心の学校生活をつづけている生徒もいる。

わたしが予備校や自宅学習ではなく、学校での自習をえらんだのは、この図書室がわたしいにとっていちばん、勉強に集中できる場所であることが、もちろん、いちばん大きな理由だけれど、それと同じくらい大きな理由に、黒尾くんがいる。理由がなくてもふたりきりで会ったり、はなしたりする自由は、1分1秒をむだにできないほど忙しい今のわたし達にはない。

「確かに、ちょっと暖房、効きすぎかもね」

黒尾くんはそう言って、少しだけ目を細めた。

「だから、この寒いのに窓、開けてたんだ」
「なんだか、頭がほてっちゃって」
「がんばるのもほどほどにしなよ」
「そういうわけにもいかないでしょ、追い込みの時期なんだから」
「その気持ちもわかる。手、動かしてないと不安になるよね」
「罪悪感が出てくることってない?」
「そこまではさすがにない、かな。ちゃんあるの?」
「ときどき。ちょっと休もうって気持ちと、こうしてる間にも周りに後れをとってるって気持ちが、セットになってるみたいなんだよね。気にしすぎだとは思ってるんだけど」
「競争に負ける感じ?」
「そう、そんなの。わたし、変なのかな?」
「変じゃないよ。みんないわないだけで、同じようなこと考えてるやつ、たくさんいるよ、きっと」
「そうかなぁ」
「ちょっと歩かない? 体動かすとすっきりするかも」

ふたり並んで、図書室を出た。

少し前の季節には、机をならべて授業をうけていた時間に、人気のない廊下を歩いている。ルールを破っているわけでもないのに、落ち着かない気持ちになって、リノリウムの床をふむつま先が忍び足になる。話をするのもはばかられて、わたしたちは無言で足を動かした。

中庭の、冬枯れた桜の木。枯れ葉が積もったベンチ。冷たい風に震えているたてつけの悪い窓。あと数カ月で、この景色ともお別れだ。

まだ開いていない食堂の前の自動販売機で、黒尾くんがココアを買ってくれた。校内を散歩して、飲み物を買うこのコースが、いつの間にかわたし達の定番のデートコースになっていた。

黒尾くんは冷たいポカリスエットのペットボトルをかたむけて喉を潤す。ごくん、ごくんと、喉を鳴らすたびに上下にうごく黒尾くん喉仏を見上げていると、わたしはいつも目がくぎづけになった。なぜだろう。高いところに生い茂るシダの葉に首を伸ばす、首長竜を見上げているような、途方もない気持ちにさせられる。

小学生みたいな無邪気さで、わたしをからかって笑う黒尾くんだけれど、こうして見れば大人の男の側面を持っている。わたしにはなくて、黒尾くんにはある喉のふくらみが、そんな当たり前の事実をわたしにつきつけてくる。

ちゃんはさ」

声をかけられて、思わずはっとした。うっかり黒尾くんの横顔に見とれて、目を開けたまま眠っていたみたいだ。

そんなわたしに気づいているのかいないのか、黒尾くんは考えごとをしているような顔で言った。

「もしかしたら、他人と競争するのが苦手なんじゃない?」
「競争?」
「そう。なんか、そんな感じするんだけよね。あ、まとはずれなこと言ってたらごめん。気分悪くした?」
「いや、別に。どうしてそう思ったの?」

黒尾くんは、ペットボトルを片手で放り上げる。ペットボトルは、黒尾くんの大きな手に吸いつくように、優雅に回転しながら戻ってきた。

「周りに後れをとってるかもって、不安になるとか、ちょっとの休憩に罪悪感を感じる理由ってなんなんだろうって考えてたら、なんとなくそう思った」
「うーん。言われてみればたしかに、誰かと競い合うようなことって、あんまりしたことないかも」

思い返せば、小学生のときからずっと、運動会がきらいだった。かけっこでだれがいちばん早いか。紅組と白組、どっちが勝つか。そういうことには、まったく興味を持てなかったし、運動神経もいいほうではなかったから、ワースト1位といってもいいほど苦手な行事だった。

すとん、と何かが胸の奥に落ちたような気がした。どちらが上か下か、優れているか劣ってるかを争い合う。それとセットになっている、なんとなく険悪な雰囲気を思うとげんなりしてしまう自分がいる。それは、近頃よく感じる憂鬱な気持ちによく似ているような気がした。

「そうか、だから、こんな気分になるのかも。やらなきゃいけないことはいえ、きらいなことしなきゃなんないから。黒尾くんも、そういうふうに思うことある?」

黒尾くんはペットボトルをゆらして、たぽたぽと音を立てて遊びながら答えた。

「俺は、そういうの楽しめるほうかな。そもそも競争が苦手だったら、スポーツなんてできないし」
「あぁ、そっか。それはそうだよね。バレーで全国大会に出ようってひとには愚問だったわ」

ははっ、と、黒尾くんは静かに笑った。

「なんか、少し気持ちが楽になったみたい。ありがとね」
「大したことじゃないよ。ちゃんが、元気になったなら良かった」

わたし達はどちらかともなく見つめ合うと、ぱちんと何かがはじけるように笑い合った。

黒尾くんがわたしをからかうことだけを楽しんでいて、わたしがそんな黒尾くんを煙たがっていたころ、学校はもっとにぎやかで、中庭の桜は青葉を茂らせ、ベンチはたくさんの生徒たちが集まるいこいの場だった。開いた窓からさしこむ光と風が、長い髪を躍らせ、スカートのすそをひるがえしていた。わたしも学校も、今よりもっともっと、元気だった。

黒尾くんの言うとおり、わたしはこの競争に疲れているみたいだ。

「受験が終わったらさ、どこか遊びに行きたいよな」

黒尾くんが言う。
わたしはうんと、大きくうなずく。

「学校以外で遊んだことないもんね」
「どっか行きたいところある?」
「急には思いつかないな。黒尾くんは?」
「うーん。水族館とか?」
「あぁ、いいね、水族館。なんかゆっくりできそう」
「ゆっくりって。休憩しにいくような言い方するね」
「いいじゃん。なんかさ、今はすごく、慌ただしくて、1日のうちのほんのちょっとだけ会えたらいいほうでしょ。なにもかも終わって自由になったら、時間を気にしないで、好きなだけ黒尾くんといっしょにいてみたいよ」

そう口走ってしまった直後、いいすぎてしまったような気がして、息がつまった。自分の口からこんな甘ったれた、子どものわがままみたいな言葉が飛び出してくるなんて思いもしなかった。

沈黙の気まずさをココアでおし流せないかと、ひとくち、口に含んでみる。少し冷めてしまったココアがどろりと舌にからみついて、口の中が気持ち悪い。

ちゃん」

黒尾くんの声が、耳元で聞こえる。

冬の風を浴びて、校舎をすこし歩いて冷ましたはずの頭のほてりが戻ってくる。頬が熱くて顔を上げられない。

ちゃん。こっち向いて」

黒尾くんの指先がわたしのあごを下から持ち上げる。遠慮がちだけれど逆らえない力を感じて、わたしは誘われるまま、こわごわと顔をあげた。

こんなに近い距離で、黒尾くんを見るのははじめてだった。すこし怖いような顔をした黒尾くんの、かわいたうすい唇が、震えるように動いた。

「キス、してもいい?」

だめ、だなんて言えるわけがなかった。

目を閉じる。黒尾くんの姿はまぶたの向こうに消えたけれど、そっと唇が押し付けられたところから、黒尾くんの全部がのしかかってくるような、圧倒的な存在感を感じて、わたしは身動きどころか、息もできなかった。




20210815