「
ちゃん、ちょっといいかい?」
黒尾くんがそう言ったのは、高校最後の期末テストが終わり、回答用紙が回収された直後のことだった。
すっかり緊張を解いたクラスメイトの声が教室全体の雰囲気を浮足立たせている。さっそく帰り支度を始めている人、疲れ切って机に突っ伏している人、その肩を叩いてお疲れさんと言う人。そんな中で、黒尾くんは不自然なほど静かな表情で私を見ていた。
「何?」
私の声はほんの少しかすれていた。それは、試験の緊張感から解放されたことだけが原因ではないような気がする。
「今日はこれからどうすんの?」
「帰るよ」
「塾?」
「ううん、今日くらいは休もうと思って。黒尾くんは部活?」
「1、2年の授業が終わったらな」
「そうなんだ」
「良かったら、一緒に昼ご飯でもどうですか?」
私は思わず目を見張った。お昼に誘われるだなんて初めてだ。
「どういう風の吹き回し?」
私がそう言うと、黒尾くんは目を細めて笑った。
「一緒にご飯食べようってだけじゃん」
「ミーティングとか、あるんじゃないの?」
「ない日もあるよ。今日は試験だったし」
黒尾くんの後ろの席を見ると、夜久くんの姿はもうない。どうやら黒尾くんが嘘を付いているわけではなさそうだ。そもそも嘘を付いてまで私をご飯に誘うとか、意味が分からない。私は少し考え過ぎてしまっているみたいだ。
私は挑むような気分で答えた。
「いいよ。でも今日、お弁当持ってきてないの」
「んじゃ、食堂にでも行く?」
「そうだな、久しぶりに購買のパン食べたい」
「じゃ、パン買って、食堂のテーブルで食べるか」
「そうだね、そうしよう」
私は財布とスマホを制服のポケットに入れて、黒尾くんの後について教室を出る。隣に並ぶのはなんとなく気が引けた。
少し前の私なら、なんのてらいもなく「試験どうだった?」とか、「あそこのヤマが当たった!」とか何の意味もないことを好きなだけ喋れただろう。
けれど、今はもうそれができない。
黒尾くんのそばにいると、どことなく居心地が悪い。肩身が狭いというか、訳もなく緊張して体が強張ってしまう。おかげで近頃肩凝りがひどくなった。受験勉強だけが原因だとはとても思えない。
先に階段を降りていく、黒尾くんの頭を見下ろす私は、どうしようもなく黒尾くんを意識している。その気持ちを、私はすっかり持て余していた。
どうしてこんな風になってしまったのか、自分でも分からない。ある日突然、何もないところからこの気持ちが生まれたわけではない。はじめは小さな違和感だった。ほんのりと色づいた、爪の先ほどの花びらのような。それはグラデーションを描くように私の中で少しずつ存在感を増していった。透明に近い白色だった花びらが、今は無視できないほど色鮮やかに広がって、時々花吹雪のように私の心を覆い尽くす。
こんな気持ちになるのは初めてだ。
「
ちゃん、何にする?」
気がつくと、もう購買の前についていた。すっかり上の空だった私は、目の前に広がるたくさんのパンを目の前にして慌てて言った。
「えっと、どうしようかな」
「確か、焼きそばパン好きだったよね」
「うん。でも、試験終わったばっかりだから、何か甘いもの食べたいな。糖分欲しい」
迷った末に、私はクリームサンドとコーヒー牛乳を買った。
「食堂行こうか」
黒尾くんの後について行きながら、考える。黒尾くんはお弁当を持ってきているのだから、私が時間をかけてパンを選んでいるのを待っていなくても良かったはずだ。お腹も空いているだろうし、早く食堂に行かないといい席がなくなってしまう。
私は思わず、黒尾くんの制服の袖を引っ張った。
「待たせてごめんね」
黒尾くんはにんまりと笑って首を傾げた。
「いーよー」
食堂の端っこ、日差しの差し込む窓側の特等席を確保して、横に並んで座る。
黒尾くんがお弁当の包みを開くのを横目で観察しながら、私はコーヒー牛乳のパックにストローを刺した。
「今日のおかず、何?」
「卵焼きとか、ひじきの煮物とか、漬物とか」
全体的に、茶色いお弁当だった。二段になった弁当箱の一段には白いご飯が詰まっていて、真ん中に赤い梅干しが埋まっている日の丸弁当だ。
「美味しそう」
「ありがとう。
ちゃん、パン1個で足りるの?」
「黒尾くんみたいに食いしん坊じゃないんだよ、私は」
「食いしん坊とは失礼な。育ち盛りなんだよ」
「もう十分育ってるじゃん」
「なんの、まだまだこれからですよ」
私がからりと笑うと、黒尾くんも口元だけでにやりと笑った。その笑顔を見て、私はほっとした。よかった、これでいつも通りだ。
このやり取りをきっかけに、今までと変わらない空気が戻ってきた。のんびりと昼食を取りながら、取り留めのない話をした。道端で見つけた野良猫、タレントのゴシップ、帰り道にある音駒高校生御用達のコンビニの新商品。
試験や進路、デリケートな話題は避けた。穏やかに流れる時間に水を差したくない、黒尾くんがそんな風に思っていることが透けて見える気がした。
高校最後の期末テストが終わった。3年生は明日から自由登校になり、本格的な受験シーズンに突入する。受験対策のための講習があるけれど、これまでのように黒尾くんと机を並べて授業を受けることはもうほとんどないだろう。
そう思うと、少し感傷的な気分になる。
「ねぇ、黒尾くん」
「ん?」
「……いや、何でもない」
この気持ちを言葉にするのは、今の私には無理だった。黒尾くんに会えなくなると寂しい。そんなこと、彼女でもあるまいし言えるわけがない。私達はたまたま席が隣り合わせになっただけで、それ以上でも以下でもない。その事実がますます寂しさを煽っていることに、私はたった今、気がついていた。
「どうかした?」
いつの間にかお弁当を食べ終わった黒尾くんが、箸をしまいながら言った。
「何が?」
私は慌てて残りのパンを口に押し込んだ。
「なんか、しょんぼりしてるように見えたから」
思わず、ぎくっとした。もしかして、寂しい気持ちが顔に出てしまったんだろうか。
「そんなことないよ」
「そう?」
「そうだよ。ちょっと、テストで疲れただけ」
黒尾くんはあからさまにほっとした顔を見せた。
「そっか。てっきりまた、
ちゃんを怒らせるようなこと言ったかと思った」
「そんなこと気にしながらしゃべってたの?」
「だって
ちゃん、俺が何か言うといつも激オコなんだもん」
「いつもじゃないよ。たまにでしょ」
「いや、大体いつもだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
私は空になったパンのパッケージを細く折りたたんで結び目を作りながら、苦笑いした。黒尾くんの言うことの方が正しいと、本当は私も思っている。でも、思い返すと恥ずかしかった。
私はどうしてあんな些細なことで怒ってばかりいたんだろう。黒尾くんにも子供っぽいところがあったけれど、それなら私が大人になれば良かったのだ。
私はパッケージの結び目をいじりながら言った。
「怒ってばっかりで、ごめんね」
言った後、ちゃんと目を見て言えば良かったと後悔する。そっと、黒尾くんの顔を盗み見ようとした瞬間、黒尾くんは勢いよく席を立った。
「戻るか」
え、と言う暇もなかった。弁当箱を持って立ち上がった黒尾くんは、すたすたと食堂を横切っていく。パンを買う私をじっと待っていてくれたあの忍耐強い優しさは欠片もない。
どうして突然そっけなくするんだろう。私は謝ったのに、どうして何も言ってくれないんだろう。謝り方が良くなかった? それとも、態度が悪かった?
私は慌てて黒尾くんの後を追った。
黒尾くんは、一度も私を振り返らず、真っ直ぐ教室に戻った。私の短い脚ではとても追いつけないほど速い。それでも私はなんとか黒尾くんの後について行った。点滅する青信号以外でこんなに走ったのはマラソン大会以来だ。
教室にはもう誰も残っていなかった。期末試験が終わったのだから当然だ。まだ日が高いとはいえ、灯りの消えた教室はがらんとして、しんと寂しい雰囲気が満ちている。
黒尾くんは自分の席に座ると、弁当箱を鞄の中に押し込んだ。
私は自分の席に戻るのに、ありったけの勇気を振り絞った。
「……どうしたの?」
黒尾くんは椅子に深く腰掛けて天井を仰ぐと、ふーっと長く息を吐いた。
「ちょっとね」
「ちょっとって何?」
「ちょっとはちょっとだよ」
黒尾くんはおどけた調子でそう言った。その言い方に、かちんと来た。
人が謝っているのに、何も言わないだなんてひどい。そりゃ、態度は悪かったかもしれないけれど、それでも無視することはないじゃない。その上、無駄に走らせたりして、一体どういうつもりだろう。
私は膝を黒尾くんの方に向けると、黒尾くんの肩を叩いてこっちを向かせた。
「何考えてるの?」
「何って?」
「なんか変だよ」
「そう?」
「そうだよ。いつもの黒尾くんらしくない」
「いつもの俺ってどんなよ?」
「偉そうで、意地悪で、すかしてて感じ悪い」
「ひどいな。……でも、実際そうか」
黒尾くんは膝を私の方に向けると、ひた、と私の瞳を見つめてきた。けれどすぐに顔を伏せてしまう。
「本当にどうしたの? 大丈夫?」
私は黒尾くんの顔をのぞき込もうとしたけれど、黒尾くんのつんつん尖った前髪が邪魔だ。何を考えているのか、ちっとも分からない。
どうしたらいいか、考えがまとまらずに途方に暮れた時だ。黒尾くんが私の手をぎゅっと握った。
「駄目だね、俺」
「黒尾くん?」
「ちゃんと考えてたつもりだったのに、いざとなったら全然言葉が出てこない」
「何か話があったの?」
「うん」
自分の膝を見下ろすと、黒尾くんの手の中に私の小さな手がすっぽり隠れていた。
「聞くよ」
自分でも思いがけず、その言葉は黒尾くんを勇気づけるように響いた。
伏せた顔の下で、黒尾くんが微笑む気配がする。
「俺さ、
ちゃんとおしゃべりするの好きなんだよね。楽しいんだけど、落ち着くって言うか、安心して何でも言えるような気がする。まぁ、それで調子に乗って余計なこと言ったりして、
ちゃんを怒らせたりもしたわけだけど、そういうのもひっくるめて、俺は楽しかったんだ」
黒尾くんは前髪の陰から私を見つめている。その瞳の力強さに、私の心臓が発作を起こしたようにどくんと鳴った。
「
ちゃんが良ければ、これからも一緒にいたいと思ってる」
繋いだ手が熱い。あまりの熱さに、指先の感覚がなくなって、黒尾くんの手の中で私の手がどろりと溶けてしまったようだ。
黒尾くんは照れくさそうに笑っていた。
「俺は
ちゃんが好きなんだ」
私は何も言えず、ぽかんと黒尾くんを見つめ返すことしかできなかった。
何を言われたのか、とっさに理解ができない。好きと、黒尾くんは言った。何を? 私を。誰が? 黒尾くんが?
冗談かと思った。けれど、見たことのない不安そうな黒尾くんの顔や、強く握りしめた手が、これは決して嘘ではないと訴えかけてくる。
瞬きすら忘れて呆然としてると、黒尾くんは握ったままの手を揺らして私をせっついた。
「何か言ってよ」
「あぁ、ごめん」
喉が張り付いたようなかすれた声が出て、私は咳ばらいをひとつする。
はっとして、思わず声が大きくなった。
「いや、今のごめんはそういう意味じゃなくてね!」
「どういう意味?」
「えっと、それは……」
混乱していた。どうしよう、どうしよう、なんて答えればいいんだろう。迷いだけが頭の中を渦巻いて、肝心な言葉が浮かんでこない。渦の中に手を突っ込んでみてもますます混乱が極まるばかりで話にならない。
ふと、黒尾くんの手が動いて、おむすびを握るように私の手を包み込んだ。
「困らせて悪い。でも、
ちゃんが本当に思ってること、聞かせて欲しい。どんなことでもいいから」
その言葉は、パニックに陥りかけた私を不思議な力でなだめてくれた。黒尾くんの体温を感じながら深呼吸をする。どくどくとうるさい心臓の音が、少しでも落ち着くのを待つ。その音に耳を傾けていると、心臓の奥の方から、何か温かい感情が流れ出てくるような気がした。きっとこれが、黒尾くんの言うところの「本当に思ってる」ことだと直感する。
私はその温かいものに耳を澄ませながら、そっと言葉を紡いだ。
「すごく、びっくりした」
「だよね」
黒尾くんは苦笑いした。
「私は、黒尾くんとおとなりで、楽しかったかって言うと、ぴんとこなくて。だって、当たり前みたいに一緒にいたから。日常って言うか、そんな感じで」
そこまで言うと、私の口元に笑みが浮かんだ。気持ちを正直に言葉にしようとすると、清々しい諦めにも似た気持ちになる。何もかもを明らかにするしか道が残っていない。恥も外聞も捨てて告白する、もうそれしかできない。
「だから、最近になって、黒尾くんを意識するようになっちゃって、自分でも戸惑ってたの」
「意識?」
黒尾くんが首を傾げて、私はうんと頷いた。
「いつ頃からだったかな、たぶん、黒尾くんのお家にお邪魔した時だと思うんだけど、その頃から黒尾くんに変なこと言っちゃうことが増えた気がする」
「変なこと? そんなことあったか?」
「あったよ。だからいつも、なんとなくぎくしゃくしちゃって、私はそれで少し悩んでたの」
「俺のせい?」
「ううん、私がいけないの。自分の気持ちに整理がついてなくて……。でも、今、答えが出た気がする」
私は両手を黒尾くんの手の中から取り出して、逆に黒尾くんの手を握り返した。
私の手は子供のように丸くて小さくて、黒尾くんの大きな手を包みきれない。それでも気持ちが伝わるようにと願いを込めて、指先にぎゅっと力を入れた。
「意識していたのは、黒尾くんが好きだからだと、思う」
そう告白してから、恐るおそる顔を上げる。黒尾くんはどんな顔をしているかと思えば、ぽかんと口を開けて目を見開いていた。放心、という言葉をそのまま絵に描いたようだった。
「黒尾くん?」
私が声をかけると、黒尾くんの顔がみるみる赤く染まっていく。自分でもそれに気づいたのか、黒尾くんは勢いよく頭を下げた。パンクバンドのライブで激しく頭を振る観客みたいに。
「ちょっと、黒尾くんってば」
「……悪い、びっくりして」
「びっくり?」
「てっきり、振られるとばっかり思ってたから」
絞り出すようにそう言った黒尾くんに、私は目を丸くした。あの黒尾くんが、そんなネガティブなことを考えていただなんて。
私は目の前に突き出された黒尾くんの頭にそっと触れた。腰の強いごわごわした髪の手触りを感じながら、黒尾くんの頭を撫でる。
好きだと告白したどきどきより、黒尾くんの頭を撫でるという珍しい状況に、私の胸はときめいていた。毛並みの豊かな大型犬みたいだと思うと、思わず笑ってしまう。
黒尾くんの手が私の腰に伸びてきて、ぎゅっと体を引き寄せられて、黒尾くんの頭が私の肩に乗った。
「すげー、嬉しい」
生まれて初めて嗅ぐ匂いが、黒尾くんの首筋から香った。男の人の匂いだと、思った。
20201207