黒板に大きく「自習」の文字が躍っている教室は、耳障りでない程度に騒がしかった。

受験を間近に控え、教室には常にピリリとした緊張感が漂っている。教師の厳しい目がない今はそれがわずかに緩んで、空気の抜けた風船のようだ。勉強の手を休めて、おしゃべりをするクラスメートの声が、あちこちでこそこそと響いていた。

「あれ、蛍光ペンがない」

そう呟いたのはだった。

夜久が視線を上げると、が机の上のノートや参考書をひっくり返していた。机の下をのぞき込み、左右を見やって首を傾げている。

「辞書に挟まってるぞ」

口を開きかけた夜久より早く、そう言ったのは黒尾だ。

はびくりと肩を震わせて黒尾を振り返った。隣に黒尾がいることなどすっかり忘れていたような驚きようだ。

は黒尾の顔色を伺いながら、そっと辞書を開く。すると、辞書の中程に頭を隠していた蛍光ペンがぽろりと転がり落ちてきた。

「……ありがとう」

は黒尾の目を見ずに言い、何事もなかったかのように参考書に目を戻す。

黒尾はそれに返事をするでもなく、寝癖が立った頭を机にこすり付けるように問題集を解き続けていた。

夜久は訳が分からず、ふたりの後ろ姿を見て腕を組んだ。姿勢のいい小さな背中の。大きな背中を窮屈そうに縮めている黒尾。

ふたりの間に流れている、この他人行儀な空気は一体なんだ?



昼休みを告げるチャイムが鳴った。

夜久が参考書とノートを揃えて机に押し込むのと同時に、黒尾が席を立ちながら振り返った。

「行こうぜ」
「おう」

昼休みは食堂でミーティングの予定だ。さっさと教室を出ていこうとする黒尾を追って、夜久は慌てて弁当箱を引っ掴む。教室を出る寸前に振り返ると、と仲の良い女子生徒が黒尾の席を借りて、一緒に弁当を広げている姿が見えた。

の笑顔は、少しだけくたびれているようだった。



「なぁ、黒尾。ちゃんと何かあったのか?」

黒尾の隣に並んで、夜久はずばりと言った。

「何かってなんだよ?」

黒尾は眉をしかめて夜久を睨み下ろす。その鬱陶しそうな視線が、間違いなく何かがあったことを物語っていた。

「いや、知らねぇけど、何かおかしかったからさ」
「どこがおかしいんだよ。別に普通だろ」
「普通じゃねぇよ。さっきのはなんだよ?」

が机の上で蛍光ペンを見失った時、黒尾はそれを見ていた。そうでなければ、蛍光ペンが辞書に挟まっているとすぐに言い当てられたはずがない。

今までの黒尾なら、それをネタに、が機嫌を損ねて怒り出すまでからかったはずだ。それが黒尾の楽しみのひとつだった。小さな嘘を吐いたり、カナヘビを手に握らせたり、まるで小学生のようないたずらを嬉々として仕掛けていた。夜久はいつもそれを間近で見てきたのだ。

ところが今日は、蛍光ペンの場所を教えてやっただけで顔も上げなかった。これまでの黒尾の悪事を振り返れば考えられないことだ。

の反応もおかしかった。以前から黒尾のからかいや意地悪には敏感だったが、いつもなりのやり方で果敢に立ち向かっていた。今日のにはその覇気が全くなく、むしろ黒尾に対する警戒心が強くなっているようだった。

「俺が気づかないとでも思ってんのか?」

夜久は猫のように鋭い目に力を込めて黒尾を睨み返す。ふたりの鋭いまなざしが空中で火花を散らした。入部当初からことあるごとに意見を対立させてきたふたりだ、どちらかが負けを譲ったことは一度もない。

久しぶりにやるか? 夜久は気合を入れて胸を張った。が、黒尾はそうではなかった。はぁ、と息を吐くと当時に肩が落ちる。

「やっくんって本当、はっきり言うよねぇ」
「だってお前ら、明らかに様子おかしいんだもんよ。普通、聞くだろ」
「聞かれたくない事情があるとは思わない?」
「それならそう言えばいいじゃねぇか。俺だって別に、無理に聞き出すつもりねぇよ」
「じゃ、最初から聞くなよな」
「だから、まずは聞いてみないと、聞いて欲しいのか欲しくないかの判断がつかねぇだろうが」
「なら答えるけど、別にあいつとは何もないし、あってもやっくんに話すつもりはねぇから」

黒尾の言葉に含まれている棘に、夜久はカチンときた。余計な口出しだったかもしれないが、あくまでも親切心からの行動だったのだ。ふたりの関係を引っ掻き回したり、仲を引き裂こうとしたわけではない。むしろ頼まれさえすれば、わだかまりを解消するための手助けをすることもいとわない心算だ。

邪魔者のように鼻からはね飛ばされるのは心外だ。

「おいお前、もういっぺん言ってみろよ」と激しい言葉が喉まで出かかった時だ。
「やぁ、ふたりとも」

と、菩薩のような微笑みの海が教室から出てきた。一触即発のムードを気にもせず、弁当を持ってふたりと並ぶ。

海の存在に毒気を抜かれた黒尾と夜久は、一切口を閉じて、それ以降、の名前は口にしなかった。



食堂でミーティングをし、午後の授業を受け、部活をこなし、自主練をこなして、暗い夜道を家路につく。いつもと変わらない、けれど、高校最後の大会を控えた大切な一日が、今日も終わった。

柄にもなくセンチメンタルな気分だった黒尾は、適当な理由をつけて部員の輪を離れ、帰り道をひとりとぼとぼと歩いていた。

別れ際、夜久が何か言いたそうな顔でこっちを見ていた。昼休みのことがあったからまた何か言われるかと身構えたけれど、どんなことも見落とすまいとしっかり見開かれた大きな夜久の瞳は、当てつけがましい理解を示して黒尾を見逃してくれた。ひとりになりたい、そんな黒尾の気持ちを察してくれたのだ。ほんの少し悔しさをまとった視線を送って、黒尾は夜久に礼をした。

秋も深まっている。昼間は半袖でも平気でいられるほど温かいが、日が落ちればぐっと冷え込んで、外に出た途端に手袋やマフラーが恋しくなる。

冷えた指先をポケットに押し込んだ黒尾は、自分の足先を見つめながら、とぼとぼと足を動かしている。視線が落ちているのは、今までにないほど気分が落ち込んでいるからだ。

近頃、何かがおかしい。

油を差していない自転車かチューニングのずれたギターのように、ぎこちなくて調子はずれな気がしてならない。そのせいで人に迷惑をかけたり、誤解を招いたりしていることが多々ある。大きな問題になったものはないけれど、小さな迷惑や誤解がいびつに積み重なって、今にも崩れ落ちそうなジェンガのように不安定に揺れている。

黒尾の迷惑や誤解を一身に受けている、隣の席ののことを思う。思わず、口元に自虐的な笑みが浮かんだ。

とは、クラスメイトとしてこの1年間(4月からだから、正確には8カ月ほどだが)隣の席で過ごしてきた。楽しかった。去年の自分にそう言ったら果たして信じるだろうか。気の合うクラスメイトがいつも近くにいたら楽しいに決まっている。けれど、はどちらかといえば性格的に気の合う方ではない。隣の席にならなければ、言葉を交わすこともなかっただろう。

そんな彼女と隣通しになって、たわいない世間話に花を咲かせたり、一緒に学校行事を楽しんだりできた。気の合うはずのない人間とうまくやれた。それは、他の誰でもなくのおかげだ。

はいつも、黒尾のからかいやいたずらという名の迷惑を引き受けてくれた。黒尾の子供っぽくて馬鹿な遊びに付き合ってくれたのだ。あれは彼女の優しさだったのだろうか。それとも、隣の席から逃れられない以上、仕方がなく付き合ってくれただけだろうか。

どちらかというと、後者の方が可能性が高い気がする。

には嫌な思いばかりさせてきた。笑ってくれたこともあったはずだけれど、なぜか今はそれを思い出せない。

思い浮かぶのは、むっと唇を引き結んで上目遣いに自分を睨むの鋭いまなざしだ。迷惑そうな、鬱陶しそうな、はっきりとした嫌悪感が滲む顔。

あの顔を、黒尾は心の底から湧き上がるようにかわいいと思っていた。初めて会った時から、ずっとだ。あの顔を見たくて、黒尾はに対する意地悪を繰り返していたのだ。

気になる女の子をいじめたい、小学生男子のような性分が自分にある。実は、そのことに気が付いたのは最近だ。大学受験を控えた高校生だというのに、自覚もなく意地悪していただなんて、彼女にとってはただ迷惑な話だろう。

近頃何かおかしいと感じはじめたのは、このことに自覚的になってしまったからだ。もう今までのようではいられない。けれど、今更どういう態度を取ればいいのかがまだ分からない。

黒尾は伏せていた目を上げて、夜空を見上げた。重たい雲が立ち込めていて星は見えない。まるで自分の行く先を暗示しているようで、思わずため息がこぼれた。

息が白かった。



家にたどり着き、風呂に入り、ばあちゃんが作った夕飯を食べる。部屋に引き上げて、机の上に参考書とノートを広げる。1時間半勉強をして、日付が変わる前にベッドに入る。目覚まし時計をセットして、電気を消す。充電器につなげたスマートフォンが目について思わず手が伸びたが、いかんいかん、と首を横に振った。この貴重な時間に無駄なことをして睡眠の質を下げてはいけない。

頭まで布団をかぶってぎゅっと目をつむり、次に目を覚ました時は頭の上で目覚まし時計が鳴っていた。

体に染みついた習慣の動きでベッドから抜け出し、スウェットからアディダスのジャージーに着替える。簡単に顔を洗って身だしなみを整えて、家族を起こさないようにそっと玄関の扉を開ける。外の世界はまだ夜だ。黒尾は玄関先で軽くストレッチをしてから、夜の底に駆け出した。

早朝のランニングは何年も前から続けている習慣だ。研磨の家の前を通り、近所をぐるりと一周するコースで、目をつむっていても走り切れるほど馴染んだ道だ。夜明け前の今は他に人通りもなく、アスファルトをリズミカルに踏みしめる自分の足音しかしない。規則正しく息遣いを感じながら走る。

ぴんと張り詰めた朝の空気を、新聞配達のバイクが切り裂いていく。排気ガスの匂い。小鳥の鳴き声。

ふと気配を感じて、黒尾は鼻先を上に向けた。東の空の端から黄金の光がこぼれ始めていた。日の出だ。鮮やかで苛烈な光に、思わず足が止まった。地平線から黄金の光がこぼれるようだ。群青の空が少しずつ押し上げられ、太陽が目覚めていく。

綺麗だ。陳腐だか、それしか言葉が出てこない。太陽は東から昇り、西に沈む。それは毎日繰り返される自然の営みだけれど、今日ほど心を奪われたことはなかった。

「……ちゃんにも見せてやりたいな」

自然とそんな気持ちが湧いてきて、黒尾は思わず自嘲した。

このまま卒業したら、との関係はどうなるだろう。連絡を取ることはできる。けれど、志望校は違うし、共通の話題もほとんどない。学校の外で会ったこともほとんどない。よっぽどの理由がなければ、卒業後にわざわざ会うことはないだろう。

もし本当にそうなったら、きっと後悔すると、黒尾は思った。それだけは絶対に嫌だった。後悔すると分かっていて行動を起こさないだなんて、そんな馬鹿な話はない。

「ちゃんと、言わないとな」

もやもやしてばかりいるのは自分らしくない。望まない未来が分かったら、やるべきことも自ずと分かる。

黒尾は朝日に誓いを立てて、朝日の中を颯爽と駆け出した。自然と足取りが軽くなる。もう迷いはなかった。












20201130