「今度の土曜日さ」
と、黒尾くんが明後日の方を見ながら言う。授業と授業の合間の休憩時間、周りの席の住人は姿が見えない。黒尾の声が届く範囲にいるのは私だけだから、私に声をかけていることは間違いなさそうだけれど、それならちゃんとこっちを見て話せばいいのに、変なの。
「何?」
「試合があるんだ」
「そう」
「公式戦でさ」
「なんだっけ、えーっと」
「春高の予選」
「そうそれ」
「高校最後の試合なんだよね」
「集大成ってやつだ」
「気合い入ってんだよ」
「そうだろうね」
「でさ」
「うん」
「観に来ない?」
「え、無理」
にべもなくそう答えると、黒尾くんは力が抜けたようにくったりと机に突っ伏してしまった。
「そんな即答しなくても」
「だって、無理なものは無理だもん」
「塾?」
「それもあるけど、試合って大きい体育館とかでやるんでしょ?」
「うん」
「そんな人がたくさん集まりそうなところ行きたくないよ」
「そういうの苦手なんだっけ?」
「それもあるけど、この時期だよ。インフルエンザとか怖いし」
私達は受験生だ。本格的な受験シーズンは2ヶ月ほど先だけれど、もう2ヶ月しかないとも言える。少しの時間も無駄にはできない。これくらいサボってもいいかな、と自分を甘やかしたりしたら、きっと数ヶ月後の自分に責められてしまう。後悔しないためにも、優先順位を間違いたくなかった。
「……そっか、そうだよね」
黒尾くんは机に顔面を押しつけたまま言った。おでこがごりごりして痛そうだ。
「インフルエンザとか、会場で移されたりしたら嫌だもんな」
「黒尾くんも気をつけなよ」
「あぁ、気を付ける」
私は次の授業の教科書とノートを机から取り出す。英語は苦手だから少し憂鬱だ。脳に栄養を補給しておこうと、鞄の中からチョコレートを取り出す。ひと箱に12粒のチョコレートが詰まった今日のおやつ。ひと粒口に放り込んで、噛まずに舌の上で溶かす。
開いた窓から、カーテンを揺らしながら入り込んでくる風が冷たい。
「
ちゃんが来てくれたら、頑張れるのにな」
振り返ると、黒尾くんはまださっきと同じ姿勢のままでいた。つんつん尖った髪が、すすきのようにそよそよと風に揺れている。
「本当に、高校最後の試合なの?」
「いや、勝てば全国大会だけどさ」
「じゃぁ最後じゃないでしょ。目指してるって言ってたじゃん」
「でも負けたら引退なんだよね」
黒尾くんがどうして今こんな話をしているか、そこでやっと理解できた。少し弱気になっているのだ。
黒尾くんの後ろの席に、夜久くんはいない。黒尾くんはバレー部の部長だから、チームメイトがそばにいる時には気軽に愚痴をこぼすことも許されないのだろう。
「それならなおさら行かない」
私がきっぱりそう言うと、黒尾くんは突っ伏した姿勢のまま顔だけをこちらに向けた。力の抜けたぼんやりした顔、今日はよっぽど調子が悪いんだなぁと思う。黒尾くんらしくもなく、妙にセンチメンタルな雰囲気だし、もしかして、何か悪いものでも食べたんだろうか? いくら黒尾くんでもそこまで馬鹿じゃないと思うけど。
「なんでそんな冷たいこと言うの?」
芝居がかった甘えた声で、黒尾くんは言う。飄々として強気で、少し意地悪ないつも黒尾くんはどこへ行ってしまったのか、なんだか調子が狂ってしまう。それに惑わされないよう、私はお腹に力を入れて強い口調で言った。
「黒尾くんが情けないこと言うからだよ。黒尾くんがずっと部活頑張ってきたのは知ってるよ。でもさ、誰かのために頑張るって、そういう気持ちは歪んでるよ」
黒尾くんは目をぱちくりさせながらじっと私の話を聞いている。その目に見つめられると、私の口はぺらぺらと勝手に動いた。
「私だって、受験勉強しんどいなって思うことあるよ。っていうか、いつも思ってるよ。だけど、しんどくっても頑張ろうって思うのは、自分の将来のためじゃん。頑張る理由は、自分のためじゃないと意味ないよ。勉強もバレーも、それは同じなんじゃないの?」
「
ちゃん」
黒尾くんはのそりと机から起き上がり、意外そうな目をした。
「何?」
「俺、
ちゃんのためとは言ってないよ?」
「え?」
「
ちゃんが来てくれたら頑張れるのになって、言ったの」
「あ、そう、だっけ?」
「だよ」
その瞬間、自分が何を言ったのか分からなくなった。私、何を勘違いして、勝手にいらいらして、青臭いことをぺらぺら息巻いて、何か取り返しのつかないことを言ってしまったんじゃないか? 今、私、何を。
「ごめん、忘れて」
とっさにそう言ったけれど、一度口に出した言葉をなかったことにはできないことは、分かっていた。生気を失ったようにぼんやりしていた黒尾くんの瞳が、今は輝くようにしゃっきりしていて、私はもうそれを直視できなかった。
「
ちゃんさ」
「いや、本当、なんでもないから。本当に、気にしないで。お願いだから」
「分かった。忘れるし、気にしねぇけど。でもさ」
「何よ?」
「本当に、試合、観に来ない?」
うっ、と喉が詰まって、言葉が出なかった。ついさっき嫌だときっぱり言ったばかりなのに、心が揺れる。大事な時期だし、塾もあるし、人の多いところに行ってインフルエンザウィルスをもらいたくない、頭ではその選択が正しいと思うのだけれど、わけの分からないごちゃごちゃした気持ちが理性を駆逐して、心の底にある私の本心を裸にしていく。
力が抜けたようにぼんやりして弱音を吐く黒尾くんは、情けなくって見ていられない。私は、真剣な顔で、体全部を使ってひとつのボールを追いかける、強くたくましい黒尾くんを見ていたいのだ。
授業開始を知らせるベルが鳴り、クラスメイトが席に着く。先生が教室に入ってくる。日直が気だるそうに「きりーつ」と言い、椅子をがたがた言わせながらみんなで一斉に立ち上がる。
その音に紛れてしまいそうに小さな声で、私は勇気を振り絞って答えた。
「考えとく」
横目でちらりと様子を伺うと、黒尾くんは顎を引いてうつむきながら、嬉しそうに唇と噛んでいた。
20200907