駅の改札を通り抜けてすぐ左手に見えるベンチにの姿を見つけて、黒尾は声をかけるのをためらった。

 は毎日塾に通っているはずで、こんなに時間に駅にいるところを見るのは初めてだった。そういう黒尾は、体育館の設備点検のために部活が休みで、そこに合わせて進路相談の予定を入れていたから珍しい帰宅時間になってしまったのだった。

 ホームに電車が滑り込んでくる。ところがは手元のスマートホンをのぞき込んだまま顔を上げない。立ち上がる気配もない。そしてそのまま、動き出す電車を見送った。に気を取られていた黒尾も乗り損ねて、電車の去ったホームに不自然に取り残されたふたりの目が合った。

「あ、黒尾くんだ」

 と、はさも意外そうに言った。

「よう」

 黒尾は片手を上げて挨拶をする。ついさっき学校で別れたばかりなのに、なんだか妙な感じだ。

「何してんの?」

 は少し横にずれてスペースを開けてくれたので、黒尾はそこに腰を下ろして鞄を足の間に置いた。

 はスマホに指を滑らせながら答えた。

「電車を待ってるの」
「今行っちゃったよ。なんで乗らないの?」
「今のは私が降りる駅止まんないんだよ」
「各駅停車のやつだったけど」

 は大袈裟に肩を上げてため息をつくと、呆れた顔をして黒尾を睨んだ。

「黒尾くん、少しは察したら?」
「何を?」
「今の話聞いてたら分かんないかな」
「だから、何が?」
「私は電車に乗りたくないの。わざわざ説明させないでよね」
「だから、なんで電車に乗りたくたいのか聞いてんじゃん。もしかして具合悪いの?」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃぁなに?」
「特に理由はないけど」
「理由もなく電車にも乗らないでゲームしてんの?」
「そういうことない? 特に理由もないけど電車に乗らないでゲームしたくなること」
「別にない」
「私にはあるの」
「へぇ」

 ホームにチャイムが鳴り響いて、アナウンスが電車の到着を告げている。の降りる駅にも、黒尾の降りる駅にも止まる各駅列車だ。轟音と風とともに滑り込んできた電車が口を開けて人を吐き出し飲み込んでいくけれど、は顔も上げない。

 黒尾は電車が口を閉じて再び走り出し、静寂が戻ってから口を開いた。

「もしかして、塾サボった?」

 はつんと澄ました顔をして答えた。

「ちゃんと連絡入れたよ。おばあちゃんが倒れたって」
「おばあちゃんって?」
「遠くの施設に入ってる。めっちゃ元気だよ、今朝もラインした」
「嘘じゃん」
「おばあちゃんなら許してくれるもん。黒尾くんこそ部活は?」
「今日は休み」
「嘘?」
「部長が仮病使って休んだりなんかできるかよ」
「それもそうか」
ちゃん、家に帰りたくないの?」

 は答えなかった。

 言いたくないことがあるのかもしれないし、絶対に言えないことなのかもしれない。黒尾にだからこそ、言えないのかもしれない。

 いろいろな想像が膨らんだけれど、黒尾はそれ以上追求しないことにした。に嫌われたくない。むしろその逆で、できるならもっと好かれたいし信頼を寄せて欲しい。けれど、そっちの方が断然難しくて、こういう時にそっと距離を置く以外に何をしてやれるんだろう。

 再びチャイムが鳴る。次の電車は快速列車だ。黒尾の降りる駅では止まるが、の降りる駅では止まらない。

 レールが軋む音とともに列車が滑り込んでくる。ホームに強い風が起こり、はスカートの裾がはためくのを手のひらで押さえている。

ちゃんさ、つまり暇なんだよね?」
「はっきり言うね」

 黒尾はすっくと立ち上がると、その手を取ってぐいと引いた。

「じゃぁうちに来る?」
「は?」

 黒尾の腕力に操られて腰を浮かせたは、とっさに鞄の持ち手を掴む。タップダンスを踊るように足をもつれさせたけれど、おかげで電車の口が閉じる直前にそこに飛び込むことに成功した。

 を抱きとめるようにして支えた黒尾は、その顔を見下ろして思わず吹き出してしまった。驚愕、という言葉がこれ以上似合う顔はなかった。





 駅から自宅までほんの10分ほどの道のりを、は興味深そうにきょろきょろと見回しながら歩いた。しょっちゅうよそ見をするものだから、信号で立ち止まった黒尾の背中にぶつかってしまう。

「ちゃんと前見て歩けよ」
「ごめん、このあたり歩くの初めてだから珍しくて」
「二駅しか違わねぇのに」
「こっちの方何もないじゃん」
「住宅街だからな」

 そんなことを話ながらたどり着いた黒尾の家は、新しくはないが古いとも言えない大きな家だった。家の玄関には車2台分の駐車場があって、そのどちらも空いていた。小さいけれど庭もある。花壇や芝は適度に整っていて、素朴で静かな雰囲気がした。

「ただいまー」

 と、玄関を開けながら黒尾が言うと、家の奥から細い声が響いてきた。

「鉄っちゃん? 今日は早いのね」

 スリッパを鳴らして姿を見せたのは、白いものが混じる髪を上品に束ねた老女だ。

「今日は部活休みだったんだ」
「あら、お友達?」
「そう、友達のちゃん」
「こんにちは」

 がぺこりと頭を下げると、老女はが驚くほどやわらかく優しい顔で笑った。

「ゆっくりしていってね」

 2階に上がってすぐ右側の部屋が黒尾の部屋だった。参考書が乱雑に積み上がった机、畳まれた洗濯物が積み重ねてあるベッド、本棚に並んでいるのは本以外のものの方が多い。には誰だか分からなかったけれど、海外のバレーボール選手のポスターが壁一面に張ってある。積み重なった週刊少年ジャンプのそばにバレーボールがひとつ転がっている。

「さっきのは、おばあちゃん?」

 黒尾は机の足元に鞄を置きながら答えた。

「そうだよ」
「かわいいおばあちゃんだね」
「かわいいか?」
「かわいいよ」
「普通だろ」
「てっちゃんって?」
「いいだろ、別に」
「何も言ってないじゃん」

 黒尾は渋い顔をしてを見ると、何か言いたそうなのをぐっとこらえてため息をつく。

「飲み物持ってくるけど、何がいい?」

 はいたずらっぽく笑って答えた。

「黒尾くんと同じのでいいよ」
「りょーかい」

 ひとりになって、は改めてぐるりと部屋を見回した。男の子の部屋に入るのは初めてで、何もかもが目新しかった。スカートで足をくるむようにして腰を下ろし、低いところから部屋を見上げてみる。黒尾くんはあんなに大きいのに、部屋の天井がすごく高いわけではないんだと、当然のことを思う。

 古びたバレーボールが手の届くところにあったので、膝の上に乗せてみた。あちこち毛羽立って薄汚れていて、体育館の倉庫にしまってあるボールとはまるで別物だ。一体どれだけ使い込んだらここまでぼろぼろになるんだろう。

 試しに軽く放り投げてみたらキャッチに失敗して、指先に当たったボールが転がっていってしまう。ボールは、ちょうど戻ってきた黒尾の足にぶつかって止まった。

「何やってんの?」
「や、別に」
「烏龍茶でいい?」
「うん」

 黒尾はグラスをふたつとペットボトルの烏龍茶、それからままごとに使うような小さな折りたたみテーブルを持ってきた。テーブルの足を立てると、グラスをふたつ並べて烏龍茶を注ぐ。

「ありがとう」
「こんなんしかなくて悪いね」
「こんなんってことないでしょ」
「いや、でも俺が連れてきたのに、おもてなしの心がっつかなんつーか」

 黒尾は「コンビニ寄ってくればよかったな」と言って、申し訳なさそうな顔をする。こんなにしおらしい黒尾を見るのは初めてだ。学校と家とでこんなにも違うものかと、は驚きを隠せない。を無理やり電車に乗せるなんて大胆なことしたくせに、あの勢いはどこへ行ってしまったんだろう。

 みかねたは、鞄からチョコレートを取り出した。今日のおやつ用に家から持ってきたものだ。

「食べる?」
「いいの」
「どうぞ、少ないけど」

 そして、小さなプラスチックのパッケージを破って、チョコレートの焼き菓子をふたりで分け合った。割り切れない数しか入っていなくて、最後のひとつをどっちが食べるかでほんの少し喧嘩になる。「ちゃんのなんだから」と黒尾が譲り、「あんまり食べると太る」とは断固拒否する。お互い一歩も引かなかったので、仕方がなく半分に割って分けた。

 なんてくだらないことをしているんだろうとふたり同時に思ったけれど、お互いに知る由もない。

 食べ終わって飲み終わってしまうと、途端にやることがなくなってしまった。

「何かやりたいこととかある?」

 と、黒尾が言う。

「んー、特には」

 は深く考えずに答える。本棚に並んでいる赤本の表紙がくるんとめくれ上がっているのがなぜかとても気になる。黒尾は部活ばかりしている印象があったけれど、には見えないところできちんと努力しているのだ。

「ゲームとか、あーでも研磨のとこにあんだよな」
「けんま?」
「隣の、幼馴染。一応受験生じゃん。誘惑の元は隠しとこうと思って」
「へぇ、えらいじゃん」
「おかげで棚すっかすか」
「じゃ、勉強しよっか?」

 黒尾は意外そうに目を瞬いた。

「勉強したくなかったんじゃないの?」
「塾に行く気分じゃなかっただけ」
「そっか」
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、勉強しよう」

 とはいえ、黒尾の勉強机をふたりで使うのには無理があった。だからと言って折りたたみテーブルはひとり分にも足りない。仕方がないので、床に教科書とノートを広げてすることにした。ベッドの側面に背中を預けて足を延ばすと意外と座り心地も良かった。

 膝の上にノートを広げてややこしい数式と向き合うのはなんだか滑稽で、黒尾は「じいちゃんがクロスワードを解いている時のことを思い出す」と思い出し笑いをしながら言った。結局最後まで解き終わらない内に疲れて眠ってしまうらしい。それを聞いても笑った。

 黒尾の長い足との足が平行に並んでいるのが、には不思議でたまらなくて、黒尾と自分の足の大きさが驚くほど違うことには信じられないような思いがする。

「黒尾くんって足のサイズいくつ?」
「27.5とかかな」

 勉強に集中している黒尾の答えはそっけなかったけれど、にはそれがありがたかった。

 そっと黒尾の足に自分の足を近づけてみる。の足のサイズは23.5cmだ。これだけ差があると同じ人間とは思えなくて、いっそ笑えてくる。じりじりとつま先を近づけて、靴下が触れるか触れないかの距離まできたところで、黒尾が大きく身じろぎをした。

「どうかした?」
「ううん。何でも」

 慌てて足を引っ込めたは、ペンを持った手で口元を押さえた。なんだかくすぐったくて、無性に楽しかった。

 しばらく会話もせずに勉強をして、気づけば時計の針がひとまわりしていた。

 強張った肩を回して伸びをした黒尾は、が目を閉じて船を漕いでいることに気がついた。膝の上のノートでは数式が中途半端なところで途切れていて、黒いみみずがのたうっている。握ったペンが今にも手の中から転がり落ちそうだ。

 大きな声を出して驚かせてやろうかといたずら心が湧いたけれど、の寝顔を見ているとその気持ちはみるみるしぼんでしまった。

 たぶん、はとても疲れているんだろう。毎日毎日勉強漬けで、休みもない。こんな生活が春まで続くのだ。誰だってたまにはサボりたくなって当たり前だ。

 黒尾はそっと猫背になって、の寝顔を覗き込む。薄く開いた唇から規則正しい寝息が漏れていた。扇の形に広がったまつげがきれいで見とれてしまう。頬に落ちかかる髪の毛が邪魔で、暖簾をめくり上げるようにそっと指を入れてみる。そこに、目を凝らさないと見えないくらい小さなほくろを見つけて、黒尾は生まれて初めてブロックポイントを獲ったときのような、飛び上がりたいような興奮を覚えて必死で声を抑えた。

 がかわいくて仕方がなかった。

 結局、が目を覚ましたのは、日が沈んで夜がビロードのマントを広げるように空を覆い尽くした頃だった。

「なんで起こしてくんなかったの」

 と、恨み節をぶつけるに、黒尾はにやにやと笑い返すだけで何も答えない。しびれを切らしたが苛立ちをあらわにしたけれど、勉強疲れがたたってかあっという間に尻すぼみになった。

 黒尾はを駅まで送った。その道すがら、がぼそりと呟いた。

「私達、普通じゃないよね」
「え? どういう意味?」

 黒尾はぎくりとして顔を硬ばらせる。が寝ているすきにちょっかいを出しそうになったことがバレたのかと思った。けれどはいたって落ち着いて言った。

「こんな勉強ばっかりしてさ。ときどきものすごくばからしくなる」
「そうだな」
「でもさ、大人はそれが当たり前みたいな顔して、必死に私達をおだてるじゃない」
「うーん」
「それがときどき、すごく、腹が立って仕方がなくなることがあるの。人生に失敗させたくないんだよ。でもさ、私達には失敗する権利だってあると思うんだよね」
「あぁ、それはなんとなく分かる。失敗しないと覚えないし、上手くなんないないよね」

 黒尾はリエーフのレシーブ練習を脳裏に思い浮かべながら言った。入部した頃は誰よりも下手くそだったリエーフは、今ではしっかりスターティングメンバーに定着した。部内一の長身は大きな武器だ。けれどそれだけでレギュラーに定着できるほど音駒高校バレー部は甘くない。リエーフは何度も何度も失敗して挫折して、それを乗り越えたのだ。

「そいういう意味じゃ、受験って怖いな。一回勝負だもんな」

 しみじみと言った黒尾に、は大きく頷いた。

「もう息がつまっちゃう」
「分かるよ」

 は黒尾を見上げると、安心したように笑った。

「本当に? 分かってくれる?」
「うん」
「今日はありがとう」
「いや、なんのお構いもできませんで」
「そんなことないよ」
「よかったらまた来てよ」
「そんなに何度も塾サボれないって」
「そっか、そりゃそうか」

 途端にしゅんとした黒尾に、は声を出して笑いながら黒尾の二の腕を叩いた。

「落ち込まないでよ、黒尾くんらしくないよ」

 大した力があるわけでもないのにに叩かれたところがやけに痛くて、黒尾はこっそりそこをさする。ひと眠りしてすっきりしたのかはやけに元気だ。元気が出たんならよかったと言い聞かせて、黒尾はもやもやした気持ちにふたをした。

 改札までに付き添って、ちょうど滑り込んできた電車にが乗り込むところまで見送る。は閉まる扉のそばに立ち、胸の高さで小さく手を振ってくれた。黒尾は手を振り返しながら、今日ふたりで過ごした時間の特別さを噛みしめた。くすぐったくて優しくて、儚くあっというまに消えてしまいそうでもったいない。明日になったらすっかり忘れてしまうのかもしれない。名残惜しくて、黒尾は走り出す電車が見えなくなるまで見送った。

 帰り道は、地に足がついていないようにふわふわしてしょうがなかった。












20190407