炎が夜空を舐めるように燃え上がり、火の粉が星のように夜空に散る。

 音駒高校の校庭は、キャンプファイヤーをぐるりと取り囲む生徒達でごった返していた。炎の周辺は昼間のような明るさだが、そこから離れれば離れるほど闇が深くて人の顔もよく分からない。この中からを探し出すのは至難のわざだと黒尾は思ったが、意外なほどあっさり見つかって拍子抜けした。

 は校庭の片隅でひとりぽつねんと炎を見上げていた。友達同士、恋人同士で集まってキャンプファイヤーを楽しむ学生達の中、その姿はひどく浮いている。

 黒尾はバレー部の仲間達の輪から抜け出すと、そっとに近づく。気づかれないように背中に立って、その肩越しに慎重に声をかけた。

ちゃん」
「わぁ!」

 と、大声を上げて振り返ったは、黒尾の顔を見上げて安心したように破顔した。

「なんだ、黒尾くんか」
「なんだとはなんだ」

 黒尾は意外に思ったが、その驚きが顔に出ないように注意しての隣に並ぶ。てっきり、怒るかと思っていた。「いきなり声をかけないでよ」とか言って、鋭く睨まれるかと思っていた。ところがは文句も不平も言わず、半歩横にずれて黒尾のための場所を開けてくれた。

 これはどういうことだろう、黒尾はじっとの横顔を観察した。

「ひとり?」
「そうだよ」
「田中ちゃんは?」
「聞くだけ野暮だよ」
「なんだよ」

 は小さな仕草でキャンプファイアの向こう側を指差した。田中ちゃんが、見知らぬ男子と手を繋ぎ、見つめ合って笑っているのが見えた。

「あぁ、そういうことか」
「今日くっついたばっかりなの。だから、私はお邪魔虫」

 は弾むような口調でそう言った。親友の幸せを心から喜んでいる声音だった。ひとりで置き去りにされて落ち込んでいるわけでないと分かって、黒尾は胸を撫で下ろした。

ちゃんは優しいね」

 と、何も考えていないのに唇が勝手に動く。

「何? 突然」
「別に、深い意味はないけど」
「なんか引っかかる言い方」
「そう?」
「まぁ、黒尾くんはいつもそうだけど」
「ミステリアスでしょ?」
「ははっ、ばかじゃない」

 笑い声が混じったその言葉は、心地良く黒尾の鼓膜を打った。

 ばか。

 本当に親しいもの同士にしか許されない言葉だ。豪速球を投げる投手とどんな球でも逃がさない捕手、みたいな。こいつなら絶対に受け止めてくれると信じて、遠慮なく全力で投げてくれた球だと思えた。

ちゃんさ、これからちょっと時間ある?」





 黒尾が向かったのは、人気のない体育館だった。

 黒尾が照明のスイッチを押すと、ぼんっ、と火のつくような音を立てて水銀灯がゆっくりと光りだす。がらんとした体育館の中央にはバレーボール用のネットが立っていて、黒い網の部分がだらんと弓なりに垂れていた。

「なんで鍵持ってるの?」
「だって俺部長だもん」

 黒尾は当然のように言って、どこからか上履きを持ってきた。黒地にシルバーのラインが入ったバレーボールシューズだ。

「スリッパないんだよね」
「このままでもいい?」
ちゃんが気になんないなら」

 は靴下のままフローリングに足をつけた。

 黒尾はきゅっきゅと靴音を鳴らしながらネットに近づいていく。上着を脱ぎ、少しだけネクタイを緩める。その後をついていくと、ベストを着た背中がやけに広く見えて、まるで巨人みたいだなと小柄なは声に出さずに思った。

「週末は張りっぱなしにしてんだよ」
「ふぅん」

 は顎を反らせてネットを見上げた。近づけば近づくほど、ポールとネットの高さに唖然としてしまう。

「これ何メートルあるの?」
「高校男子は2m43cm」

 黒尾はポールに引っ掛けてあったドアノブのようなものを手に取ると、ポールの横に付いているでっぱりにはめた。

「なに? それ」
「ハンドル。回してみて」
「どっち?」
「時計回り」

 言われた通りにすると、きりきり音を立ててネットが上がっていく。なるほど、これでネットを突っ張らせているわけかと納得して、ハンドルが止まるところまで回したけれど、黒尾は首を横に振った。

「ちゃんと張れてないよ。まだたわんでる」
「これ以上は回んないよ」

 黒尾はにやりと笑うとの手の上からハンドルを握った。が驚く暇もなく力を込めると、ひとりのちからではびくともしなかったハンドルが軽く動く。黒尾の手で三回転したハンドルはそこで本当に動かなくなった。

ちゃんはかよわいな」

 と、黒尾は笑って手を離した。

 はどぎまぎしてとっさに「当たり前でしょ」と呟いた。

 黒尾が触れた手の甲が熱を持ったようになって、こそばゆいような恥ずかしいような気持ちが湧きあがってくる。みんながキャンプファイヤーを取り囲んで盛り上がっているのに、黒尾とはふたりで静かな体育館にいる。この非日常。黒尾の雰囲気もなんとなくいつもと違っているよな気がして、はどういう顔をしたらいいか分からなかった。

「ジャンプしたら、手が出るの?」

 苦し紛れに言ったら、黒尾は得意げに笑ってネットの前に立つ。ぐっと膝を曲げて屈み込んだかと思うと、全身をバネのようにして飛び上がった。手どころか、手首までネットの上から飛び出したのを見て、は目を丸くした。

「わっ、すごいすごい! 本当に出た!」
「アップしたらもうちょっと行くよ」
「そうなの?」
「ジャンプの最高到達点っていうのがあって、この間測ったら330cmだったし」
「うえ!? ホントに!?」

 信じられない、と目を真ん丸に見開いたに、黒尾はからりと笑った。

「うえって、すげぇ驚き方」

 からかうような笑い方だったが、は悪い気はしなかった。いつもの意地悪で刺々しい雰囲気がない。黒尾の態度が改まったのだろうか、それともの受け止め方が変わったのか、そのどちらもだろうか。理由は分からないが、黒尾とふたりきりでたわいもない話をする時間は悪くなかった。

 夜の体育館に忍び込んで、フロアを靴下で歩いたりなんて、なかなかできることじゃない。この経験は誰にも言わずに胸にしまっておこうと思う。

 子どもの頃、お母さんにばれないようにつまみ食いしたお客様用のクッキー。誰かが死ぬほど悪いことでもないけれど、ばれたらきっと怒られると分かっている。けれど、手を伸ばすのを止められない。かくしごとは日常を楽しくするスパイスだ。

 黒尾は倉庫からボールをひとつ取ってくると、シャツの袖を捲り上げて手のひらの中でくるくるとボールを回したり、床にボールを打ちつけたりし始めた。

 にもボールをパスしたけれど、は全くボールを扱い慣れていないから受け取るのもやっとで、黒尾はそれだけのことに楽しそうに笑った。けれど、いつものようにちっとも腹は立たなかった。

 それからは、ひとりでボールを操る黒尾を、体育館の隅に腰を下ろしてただ見ていた。そう長い時間ではなかったし、それ以上のこともなかった。けれどこの特別な時間はにとって大切な思い出になり、遠い先の未来まで胸の奥深いところにしまわれた。












20190218