終業のチャイムが鳴ると、とたんに教室が賑やかになる。椅子の足が床を引きずる音、開放感に弾んだ声、廊下を駆け抜けていく誰かの足音。

 鞄に教科書を詰め込みながら、黒尾は隣の席にいたずらぽっい視線をやった。

ちゃんは、今日も図書室?」

 は、散らばった消しゴムのカスを机の端に集めながら答えた。

「今日はもう帰る。塾の講義があるから」
「そっか、それは残念」
「なに?」
「図書室行くなら、俺の借りてた本返しに行ってもらおうかと思ったから」

 は呆れた目をして黒尾をにらんだ。

「人を顎で使わないでくれるかな」
「俺とちゃんの仲じゃん、ちょっとくらい頼まれてよ」
「嫌だよ。急がないと電車に間に合わないんだから」
「なら無理にとは言わないけど」
「最初からあてにするのやめてよね」

 はそう吐き捨てると、ばたばたと鞄に教科書やノートを詰め込んで肩に背負う。手のひらに消しカスを乗せて立ち上がると、黒尾の後ろの席に笑みを向けた

「じゃぁね、夜久くん。部活、頑張ってね」

 夜久はひらりと手を振って答えた。

「うん、ありがとう。また明日」
「え、俺にはなんかないの?」

 は消しカスを握りしめた手を上向きにして黒尾の前に突き出すと、笑顔のまま中指を突き立てた。

「頑張ってね」
ちゃん、そんな下品な仕草どこで覚えてきたの?」

 黒尾の言葉には答えず、は一度も振り返らずに教室を出て行った。扉のそばのゴミ箱に消しカスを投げ込んだ時、蓋を叩きつけるようにしたから結構いい音がした。

 夜久は机の上に身を乗り出して、黒尾に耳打ちした。

「黒尾って、ちゃんのこと好きなんだよな?」
「あぁ、好きだよ」

 当たり前のような顔をして、黒尾は答えた。まるで空は青く、太陽は東から昇って西へ沈むのだとわざわざ口に出して説明をするような言い方だった。黒尾にとってのへの気持ちは、いつの間に星周りと同じレベルの常識になっていたんだろう。

「そうなんだ!」

 夜久はアーモンド型の目を丸く見開いた。

「何だよ、自分から聞いといて?」
「いやだって今まで1回もそんなこと言ったことなかったじゃん」
「聞かれなかったし。わざわざ言うほどのことじゃねぇだろ」
「いやいやいや、俺たちチームメイトだろ? 言えよ」

 夜久はからかうように黒尾の肩を小突く。黒尾はその拍子に、鞄にしまおうとしていたペンケースを床に落とした。

「チームメイト関係ねぇだろ」
「で、いつから?」
「いつからって?」
「何がきっかけで好きになったんだよ?」
「そんなこと聞いてどうすんだよ?」
「いいから教えろって」
「いつって言われてもはっきりしねぇんだよな。いつの間にか、なんとなくって言うか」

 黒尾はペンケースを拾い上げながら答えた。その言葉には照れも恥じらいもなく、むしろ余裕すら滲んでいる。

 だからとっさに、夜久は誤解した。

「なんだ、もしかしてもう付き合ってんのか?」
「はぁ? んなわけねぇだろ。今の見てただろうが」
「え、そうなの? じゃなんなの、お前のその余裕」
「余裕じゃねぇし。つか今日の夜久、うるっせぇ」
「お前がはきはきしゃべんねぇからだろうが。告白しねぇの?」
「はきはきしてるわ。だって、今年はなんたって春高だし受験だってあるし、ちゃんも俺も忙しいんだよ。そんな暇あるかって」
「それが何だよ? 好きなら好きって言えばいいじゃん」
「こんな忙しい時期に告白されたって迷惑だろ」
「んなことねぇだろ。お互いに励ましあって受験も部活も頑張ればいいじゃん」
「だとしても、デートのひとつもできないって分かってんのに付き合う意味あると思う?」
「デートだけが付き合うってことじゃないんじゃないの」
「あら、夜久さんはケイケンホウフなのね。話聞かせてくださいよ」
「あ、そんなこと言ってもしかしてお前、告白して振られるのが怖いだけなんじゃないのか?」

 図星を指されて、黒尾は苦い薬を飲んだような顔をした。

 とは現状、別れ際に中指を突き立てられるような間柄なのだ。告白したとしても成功率は限りなく低く、むしろスタートラインにすら立っていないと黒尾は分かっている。

 夜久はむっと黙り込んでしまった黒尾の後頭部を見上げながら、きっぱりと言った。

「振られたときのことなんかその時考えればいいだろ」
「夜っ久ん、何度も言うけど情緒って知ってる?」

 もちろん、夜久も黒尾の気持ちが分からないわけではないが、この場合は情緒の問題なのではなく、黒尾の意気地の無さのほうが問題なのではないかと夜久は思った。

 だから、発破をかけるつもりで、夜久はにやりと笑った。

「はっきりしねぇ男はモテねぇぞ」
「じゃぁ聞くけど、はっきりしてる男代表の夜久さんはモテてるんですか?」
「うるっせぇ! 今は俺のことはいいんだよ!」
「おーい、ふたりともそろそろ部活行こうか」

 と、仏のような顔をして笑う海が教室を覗き込んできた。ふたりは同時に口を閉じ、お互いを睨み合いながら、鞄を肩にかけて立ち上がる。

 真っ直ぐに体育館に向かおうとする黒尾に、夜久は首を傾げて聞いた。

「ところで黒尾、図書室行かなくていいのか?」
「あ? なんで?」
「本、返しに行くんだろ?」
「あぁ、あれ嘘」

 黒尾はしれっと言い、夜久は思わず口をへの字に曲げた。

「お前、そんなことしてっから嫌われんだよ」
「え、なんで?」
「少し考えれば分かるだろ!?」
「なんで夜久が怒んだよ?」

 夜久が文句を言う声を聞き流しながら、黒尾はが目の前に突き出した中指の、綺麗な形をした爪の色を思い出していた。のきれいなところやかわいいところを見ると、黒尾の意思に反して口が勝手に動いてしまう。でまかせが止まらない。

 どうして自分はこうなんだろうと散々考えて考えて、出た答えは「好かれなくてもいいから、の印象に残りたい」だった。嫌われていることはもう十分、分かっている。それならいっそ、忘れたくても忘れられないような、高校時代のしこりのような思い出になってやろうじゃないかと思うのだ。我ながらくだらないことをしているなとも思う。けれど、自分の意思ではどうにもならないことだ。しょうがない。

 ひとつだけ欲を出すとすれば、せめてを傷つけることだけは避けたいと思うけれど、さて果たしてそれは叶う願いだろうか。

「おい、聞いてんのかよ、黒尾?」
「あぁ、悪い、聞いてねぇ」

 夜久が一際大きな声で怒鳴った。









20180611