「指、どうしたの?」

 となりの席から、が言った。
 俺は包帯を巻いた右手をひらりと振って答える。

「ちょっと爪をね、やっちゃって」
「深爪でもしたの?」
「どんだけ俺を不器用だと思ってんだよ」
「違うの?」
「違うよ。試合中にちょっとね」
「へぇ」
「もっと興味持ってよ」
「持ってるよ。なに? 転んだ拍子に踏まれたの?」
「バカにしてる?」
「してないって。どうしてバレーで爪を怪我するの? 分かんないよ」

 頬杖をついて上目遣いに見上げてくるは、本当に想像がつかないと言いたげにきょとんとして、その頭の上にくっきりとクエスチョンマークが見えるようだった。前髪が落ちかかった目元の、黒い瞳が蛍光灯の光を反射して光っている。なんだよちくしょうかわいいな、のくせに。

「ボール触ったら爪剥がれたんだよ」
「うえっ!? うそ!?」

 ちっともかわいくない声を出して眉をしかめたは、いつも通りのなんてことない平凡な顔だった。ちょっとでも胸をときめかせた自分がアホらしくて肩が下がる。

「嘘じゃねぇよ。地味に痛てぇんだぞ」
「どうやったらバレーボールで爪がはがれるのよ?」
「だから、こうオーバーで捕まえようとしたらボールが爪に引っかかって……」

 わざわざ両腕を頭上に上げて解説してやったのに、は全くピンときていないようだ。

「全然分かんない」

 と言って、頬を膨らませる。眉の間にシワがよって、いかにも疑わしそうだ。

「何だよ、その顔?」
「だって、黒尾くんには前科があるでしょ」

 そう言えば以前、ちょっと猫に引っかかれてできた切り傷を大怪我のように思わせておいて、に荷物を持たせたり授業のノートを取らせたりしたことがあった。しばらく試合には出られないと言って落ち込んだふりをした俺を、はやけにかわいそうがってくれた。俺の冗談を間に受けて、素直に気遣って優しくしてくれたのがおかしくて嬉しくて、嘘をついた罪悪感さえ感じなかった。それで本当のことを言いそびれて、バレた時には大目玉を食らったのがつい数ヶ月前のことなのにもう懐かしい。

「また嘘ついてるんじゃないの?」

 とはいえ、そこまで懐疑的にならなくてもいいじゃないか。

「嘘じゃないって」
「夜久くんに本当のこと教えてもらうまで信じない」
「あいつ、今日まで休みだよ。捻挫で絶対安静だから」
「夜久くんの方が重症じゃん!」
「それは否定しないけど、俺だってしんどいのよ?」
「例えば?」
「ペンが持ちにくい」
「二度とノートなんかとって上げないからね」
「相当根に持ってんのな」
「仮病使うような人は信用できない」
「仮病じゃないよ、仮怪我だよ?」
「屁理屈言って」

 きろり、と睨まれて、そのまなざしの鋭さに耳元の産毛が逆立ったのが分かった。なんだこれ、なんだかざわざわする。腹が立っているのと似ているけれど、少し違う気がする。俺の言葉を信じようとしないの冷たい声がしゃくに触ったけれど、喧嘩をしたいわけじゃない。あぁ、どうしてそんな怖い顔をするんだよ、優しい言葉のひとつでもかけてくれれば俺だって意地の悪いことをせずに済むのに、また、あの時みたいに。

 あぁ、なんだ、そうか。俺は寂しいのか。

「……仕方ねぇな。証拠を見せてやるよ」

 するりと包帯の結び目を解いた俺を、は大袈裟に腕を振って制した。

「え!? いいよ!? そこまでしなくても!?」
「だってこうでもしねぇと信じてくれねぇんだろ」
「それはそうだけれども! でも!」
「なんだよ? 最初に疑ったのはそっちだろ、ちゃんとその目で確かめろ」
「いやいやいやでもほらバイキンでも入ったら悪いし!」
「ちょっとくらいなら平気だって、ほら」

 包帯の下、傷に当てていたガーゼも取って、指先を目の前に突き出した途端、は自分の体を抱きしめて身悶えした。

「きゃー! 痛い痛い痛い!」
「何でお前が痛がるんだよ?」
「見るだけで痛いの!」

 爪が半分なくなって赤い肉があらわになった指先は確かにグロテスクで、毎日見ていればなんてことはないしこれでも怪我をした直後に比べればマシになってきているのだが、はまるで自分の爪が痛むように今にも泣きそうな顔をした。

「どうだ、嘘じゃなかっただろ?」
「分かった! 分かったから! しまって! 包帯して!」
「あぁ、悪い、無理だ」
「なんで!?」
「自分でできねぇや」

 今朝、薬を塗ってガーゼを当てて包帯を巻いてくれたのは母親で、俺はただ、片腕を差し出したままもう片方の手で朝食のトーストをかじっていたのだった。片手だけで元通りに巻き直せる自信がない。つまらない意地を張って厄介なことをしてしまった、保健室に行った方がいいだろうか。

「貸して。やってあげる」

 と、は目を細めて傷を見ないようにして、俺の手から包帯を奪い取った。ガーゼを当てて、文字通り、腫れ物に触るようにそっと包帯を指にあてがう。

「できんの?」
「元通りにするくらいは。ごめんね、疑って」

 さっきとはうって変わって神妙な顔をして、は丁寧に包帯を巻いてくれた。するすると、空気をこするような音がして、それで、俺も冷静さを取り戻せた。といるといつも調子に乗りすぎるのは俺の悪い癖だ。

「いや、俺も悪乗りしたし」
「黒尾くんのそういうところ、本当、どうかと思うよ」
「俺だっていつもこんなんじゃないんだよ? やんちゃな後輩をまとめるしっかりした部長なんだよ?」
「それ本当に信じられないんだけど、どっちかっていうと夜久くんの方がそれっぽいよ」

 そんなことはない、夜久だって口は悪いし頑固だしどっちかというと俺よりたちが悪い、と言いそうになったけれど、の小さな手が俺の手を取ってくるくると動いているさまを見ていると不思議と心がしんと落ち着いて、軽口を叩く気にはならなかった。

 今、差し出されている優しさ。これがずっと欲しかった。遠ざけていたのは俺の方だった。

「ごめんね」
「謝られてもね」
「俺、もうちょっとしっかりした方がいいと思う?」

 が上目遣いに俺を見上げてくる。黒く丸い瞳、氷のように冷たく俺を睨むこともあるその瞳は、今は意外そうに丸く見開かれていてまるで小型犬の黒々と潤んだ瞳のようだった。

 やっぱり、かわいいな。子犬にするように、わしゃわしゃと頭を撫でてやりたくなる。

「黒尾くんらしく、いたらいいんじゃない?」
「どういう意味?」
「急にしおらしくされても調子狂うってこと」

 包帯の端をきゅっと結んで、の手が離れた。包帯は、母親がしてくれたのよりずっと丁寧にきれいに巻かれていた。

の優しさは、言葉より行動ににじみ出る。腕を怪我したふりをしたときは、心から俺を心配して、荷物を持ってくれノートを取ってくれた。俺の痛みをまるで自分のことのように感じてくれるのは、人一倍感受性が強いからだ。

「サンキュ、ちゃん」
「なんで急に名前呼び?」
「感謝の気持ちを込めてみました」

 そういうところが、好きだ。ごく自然にそう思った。










20180511