「あれ、おかしいな」
「どうしたの?」

 鞄の中と机の中をごそごそやっていた私に声を掛けてくれたのは夜久くんだ。

「スマホがないの。どこいっちゃったんだろ」
「どっかに持っていったりした? 移動教室とか?」
「どうだったかな、理科室か図書室のどっちかかな?」
「俺、鳴らしてみようか? 誰かが拾ってくれてるかもしんないよ」

 夜久くんはポケットからスマホを取り出して、すすすと私の番号をプッシュする。それを耳に押し当てて、私には聞こえない電話の声と話し出す。

「もしもし? あ、はいそうそう、さんの友人です。あ、なんだお前か。はいはい、あそう、分かった。今からそっち行くから、じゃ」

 夜久くんは電話を切って、大きな猫目を細めて笑った。

「図書館にあるってさ」
「本当? ありがとう」
「どういたしまして。俺もそっちに用あるから一緒に行っていい?」
「うん」

 ふたり並んで廊下を歩く。違和感がして夜久くんを見上げると案外低い位置に目線があって、黒尾くんと並ぶのとはやっぱり勝手が違うなぁとしみじみしてしまう。

「何?」
「ううん、別になんでも」

 そんな失礼なこと口に出せるほど、私は悪い子じゃない。口を開けば嫌味ばっかり飛び出してくる黒尾くんとは違うんだから、私は。ここにいない黒尾くんと張り合ってなんになるんだかって感じがしたけれど、私は心持ち、背筋を伸ばして胸を張った。

「ところで、さんって下の名前なんていうの?」

 夜久くんは歩きスマホをしながら言った。

「なに、急に?」
「いや、そういえばなんだったかなって。ちゃんと聞いたことなかったし」
「クラス替えの後に、最初のホームルームで自己紹介しなかったっけ?」
「その時さん休んでたじゃん」
「あぁ、そっか。忘れてた」
「忘れてたのかよっ」

 きししと笑う夜久くんの白い八重歯。何も後ろめたいところのない明るい笑い顔は、私の気持ちを柔らかくほぐしてくれる。

だよ」
、か。登録し直しとこ」
「夜久くんの下の名前は?」
「もりすけ」
「どういう字?」
「衛星の衛に、車編の輔。画数多くてテストの時ちょっと面倒くさい」
「でも、画数が多いと字画がいいって聞いたことあるよ」
「何それ、占いかなんか?」
「そう。今度見てあげるよ」
ちゃん、そんなことできんの?」
「スマホでできるんだよ。名前入力するだけで」
「あぁ、そういうことか」

 ぺたぺたと平べったい足音を立てて、ふたり並んで廊下を歩く。不思議と誰ともすれ違わず、妙に静かで冷たい廊下。私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる夜久くんの横顔。ナチュラルに呼ばれた私の名前は、初めての甘酸っぱさをまとって耳にこそばゆい。

「もりすけくん」
「なに?」
「もしかしてさ、子どもの頃のあだ名、モリーじゃなかった?」
「えぇ? なにそれ?」

 夜久くんは笑顔と困り顔を足して2で割ったような顔で首をかしげる。

「ぴったりじゃない? もりすけくんだから、モリー」
「なんか女っぽいな」
「そんなことないよ、モリー。かわいいじゃん、モリーって」
「かわいいのかよっ」

 突っ込みながらも、夜久くんはまんざらでもなさそうな顔をする。モリーと口に乗せた時の軽やかな口当たりが面白くて何度も呟いていたら、夜久くんも堪え切れなくなったのかぶはっと息を吐いて笑った。

「やっくんって、たまに呼ばれることはあるけどな」
「あぁ、夜久くんを縮めてやっくん?」
「そうそう、あいつもよく呼ぶよ」

 夜久くんはぴっと指をさすと、図書館の入り口に黒尾くんが立っていた。

「おぉ、遅えよ」

 黒尾くんは私達の顔を見るなりそう言う。電話をしてからそんなに時間が経ったようには思えないのに、そんなきつい言い方することないと思うけど。急ぎの用事でもあるのかな。何にせよ感じが悪い。

「わるいわるい」

 と、夜久くんが苦笑して言うので、私も仕方なく、頷くように少しだけ頭を下げた。

「そんなに待ってたの?」
「俺も暇じゃねぇんだよ」
「そうカリカリしてんなよ、黒尾」
「別にしてねぇし」
「はいはい」

 夜久くんは鞄の中からクリアファイルを取り出して、中に挟んだプリントを数えながら私には分からない話をし出した。たぶんバレー部の用事なんだろう。無関係な私は手持ち無沙汰でちょっと困る。

 黒尾くんがそこをどいてくれないと図書室の中にも入れないし、スマホを受け取りにもいけない。黒尾くんの横顔を睨んでみたけれど、気づいているくせに無視をする。私はむっと唇を尖らせた。どうして黒尾くんはいつも呼吸をするように意地悪をするんだろう。私はなんにも、悪いことはしていないのに。

「分かった、まとめて監督のとこ持ってくわ。サンキューな、やっくん」

 やっくん、というスキップするような音を聞いて、私は思わず吹き出しそうになった。もしも私が猫だったら、三角の耳がぴんと立って尻尾がゆらりと揺れただろう。

 夜久くんと目が合う。いたずらっぽい眼差しで夜久くんが私と同じことを考えているのが分かって嬉しくなってしまう。

「なに?」

 私と夜久くんを交互に見やって、黒尾くんはきょとんと目を丸くしている。こんな顔をする黒尾くんを見るのは初めてで、私はますますおかしくなって、不機嫌は風にさらわれたようにいなくなってしまった。

「別になんでも。ね? やっくん」
「そうそう、なんでもないよ」
「……お前らいつの間にそんなに仲良くなったの?」
「そんなことより黒尾、スマホは?」

 夜久くんは催促するように手のひらをひらひらと縦に振る。黒尾くんは全く納得してはいないようだったけれど、制服のポケットに手を突っ込むと、ぶっきらぼうに私のスマホを取り出した。

「ほら」
「黒尾くんが拾ってくれたの」
「フツーに机に置きっぱなしになってたぞ。夜久が電話かけてきたとき、俺が司書さんに睨まれたんだかんな」
「あぁ、それは悪かったねぇ」
「心こもってねぇし」

 黒尾くんの大きな手からそれを受け取って、私はスマホカバーの縁を指先でそっと撫でた。黒尾くんのポケットの中にいたせいか、ほんのりと機体が温かくなっていた。

「そうそう、黒尾ってさ、さんの下の名前、知ってる?」

 と、夜久くんが面白い遊びを思いついた子どものような顔をして言った。

「はぁ? 名前?」

 黒尾くんは眉を吊り上げて首を傾げる。私はそれを見上げて、あぁ、黒尾くんは絶対に私の名前なんか知らないだろうなぁと情けないような気持ちになった。

 だって黒尾くんって他人に興味なさそうだ。一応、お互いの電話番号は交換したけれど、たまたま横から画面を覗いたら私の番号は「となりのさん」って登録されていて、受けたショックは雷のようだった。「トイレの花子さん」か、私は。

ちゃんだろ」
「……なんで知ってんの!?」
「いやそんな驚くことじゃねぇだろ」

 驚きのあまり開いた口がふさがらない私を見下ろして、黒尾くんは「おとなりさんの名前くらい知ってるわ」と何でもないことのようにぼやいた。

「知ってるなら名前で呼んだらいいじゃん」
「えぇ、でもなんか今更じゃね?」
「そういうの関係ある? 俺は呼びたいけどな。いいよね? ちゃん」
「別にいいけど……」

 夜久くんに肘で小突かれて、黒尾君はくんの後ろをぽりぽり掻きながらじっと私を見ている。その視線が何か訴えかけているようで、でも何を言いたいのか分からなくて、私は居心地悪くて仕方がない。

 少しの間をおいて、黒尾君はいつものように芝居じみた仕草で体ごと首をかしげて言った。

ちゃん?」
「……なんか、気持ち悪い……」

 つい口からこぼれた言葉は、黒尾くんの胸にぐさりと太い針を刺し、夜久くんの笑いのツボにも刺さってしまった。遠慮なく腹を抱えて笑う夜久くんの隣で、黒尾くんは本当に傷ついた目をして肩を落としている。

 私は居たたまれなくなって、思わず黒尾くんの肩に手を伸ばした。

「ごごごごごめん、つい本音が……!」
「本音って、そっちの方がひどくねぇ?」
「あぁ! 違うの! そうじゃなくて!」
「いいよ、そんな無理して慰めてくんなくても。どうせ俺は嫌われてんだろ……」
「いやそれは嫌われるようなことする黒尾君が悪いんじゃん」
「俺がいつそんなことしたよ?」
「いつもしてるじゃん!」
「スマホ拾ってやったっていうのにひどい言い草だよなぁ」

 図書館の中から司書の先生が飛び出してきて、厳しい顔で注意されるまでそう時間はかからなかった。




 名前を呼んだ瞬間、目を丸くしたの顔を、黒尾は忘れられない。

 甘いと思って口に含んだ飴玉が思った以上に酸っぱかった、みたいな顔だった。名前をちゃんと覚えていた、ただそれだけのことにどうしてそんなに驚くのだ。全く意味が分からない。

ちゃん」

 と、初めて唇に乗せた彼女の名前は、確かに甘いだけの飴玉ではなかった。柑橘系の力強い飴玉。刺激が強すぎてくちびるが痛いような気がする。

 心から素直に甘いと思ってその名を口にすることのできる日は、果たしていつやって来るんだろう。




20180207(2017.4月発行夢本の再録)