東京。
 音駒高校の体育館。その裏手。
 少し広くなったそこに、汗だくの高校生がわらわらとたむろしている。

 烏野高校、音駒高校、森然高校、梟谷学園。合宿に参加している部員全員が一所に集まると、まるで民族大移動だ。全員が差し入れのアイスバーを握りしめていて、そこここであがる大きな笑い声が爆発するみたいに響く。

 さすがの僕も、休憩中なんだからもう少し静かにすればいいのにとかわがままなことは思わないけれど、休憩中なんだからちゃんと休めばいいのにとは思う。

 日向と影山はなんでアイスを食べる速さまで競い合ってるんだろう。馬鹿じゃないのかな、頭をキンキンさせて地面にはいつくばっているのが視界にうるさかった。

「あれ、ツッキー、どこ行くの?」

 山口がソーダで真っ青に染まった舌を覗かせながら言う。

「もうちょっと静かなところで休みたい」
「あ、そう」

 僕は体育館を離れて、できるだけ静かな場所を探して避難することにした。勝手の分からない場所だけれど、全国どこにあっても学校の敷地内なんて似たり寄ったりの造りをしているから、まさか迷う心配なんかしない。

 音駒高校の体育館の周りには植木が等間隔に植わっていて、灼熱地獄の様相を呈する体育館の中とは比べ物にならないほど涼しい木陰になっていた。たぶん、桜の並木だろう、蝉の鳴き声が近い。頬にあたるそよ風が気持ちいい。

 少し気分が良くなって、太陽にきらめく木の葉を見上げながら歩いていくと、いつの間にか体育館を通り過ぎて、校舎の裏に回り込んでいた。

 ずいぶん奥まで来てしまった。引き返そうかと思った時だ。

 校舎の開いた窓の内側から風が吹いて、白いカーテンがひらりとひらめいた。カーテンの中に人がいる。目が合った。女子生徒だ。

 机の上の参考書とノートが風にあおられてはらはらとページを躍らせている。

「こんにちは」
「はぁ、こんにちは」

 ぼんやりした声が出た。見知らぬ土地で、見知らぬ人に会って、こんなところで声をかけられるとは思わなかった。びっくりした。

「そんなところで、何してるんですか?」

 その人は窓枠に頬杖をついて、じろじろと僕を見下ろした。口元がかすかに笑っている。何がおかしいんだろう。なんだかちょっと、おもしろくない。

「部活の休憩中で、通りがかりました」
「そうなんだ」
「勉強の邪魔をしてすいません」
「いいえ。そろそろ休憩しようかと思っていたところだったので平気です」
「はぁ」

 なんだかこの人の敬語は鼻につくな。何年生なんだろう。顔を見ただけじゃ分からない。

「何部なんですか? あ、待って、当てる! バレー部でしょう?」
「はぁ、そうですが」
「やっぱり! 背が高いからそうだと思った!」
「はぁ」

 僕はだんだん面倒くさくなってきた。なんで初対面の他校の女子にこんな風に絡まれなけりゃならないんだ?

「あ、僕そろそろ戻らないといけないんでぇ……」

 僕は得意の愛想笑いを浮かべて踵を返そうとした。

「あぁ! 待って待って!」

 ところが、その人は突然、窓からぐんと身を乗り出して、届きもしないのに僕に向かって手を伸ばしてきた。その勢いが良すぎて今にも窓から落ちてしまいそうに見えて、僕はつい、受け止められるように手を伸ばしてしまった。

 その人は窓から上半身を乗り出し、ちょっと驚いた顔をして笑った。

「ははっ、さすがにこんなところから落ちたりしませんよ」
「そうは見えませんでしたけど?」
「まぁ、いいや。ありがとう。で、あなた何年生?」
「……一年ですが」

 この人、もしかして僕を音駒高校の生徒だと勘違いしていやしないかな。まぁ、まさかこんなところに他校の生徒が、しかも県外の高校生が入り込んでいるだなんて普通は考えないだろうけれど、なんだか後々面倒くさいことになりそうな予感がする。

「バレー部の三年生に、黒尾鉄郎って人いるでしょ」

 ほら、見ろ。予感的中。ものすごく面倒くさい人の名前が出た。

「その顔は知ってる顔だ!」
「はぁ、まぁ」
「黒尾くんって面倒くさい人でしょう」
「……えぇ、まぁ、そうかもしれませんね」
「もしかして、あなたもいじめられてるの?」
「いじめられているわけではないですけれど、絡まれて困ってます」
「あぁ、分かる。いじめられてるって認めたくないよねぇ、教育委員会とかで問題にされたら嫌だもんねぇ」
「あなたはいじめられてるんですか?」
「そうなの。今年は受験でただでさえぴりぴりしてるのにさ、黒尾くんのせいですっごくストレス溜まってるのよ」

 と、いうことはこの人は三年生か。まったくそんな風には見えない。顔立ちが幼いし、さっきから言っていることがものすごく子どもっぽい。

 いじめられてる、と言いながらさっきからずっと楽しそうに笑っているところをみると、状況はそんなに深刻じゃないんだろう。そもそも通りがかりの僕に面白半分に話をするくらいだ、きっと、僕が黒尾さんを知っていると分かったから、興味本位で絡んでいるんだ。迷惑な話だ。

「どうにか黒尾くんに仕返ししたいとは思ってるんだけどね? 私このとおりか弱いからなかなか難しくて」

 か弱いどころか、結構、悪知恵の働きそうな顔してるけどな。あと、初対面の人間にこんなに馴れ馴れしく話しかけられるような人なんだから、どうせ太巻きみたいに図太い神経をしているのに違いない。それに、本当にか弱い人は自分のことをか弱いなんて言わないものだ。

「あなたは黒尾くんに仕返ししたいとか、思ったことない?」
「いや、そこまでは別に」
「なに、ノリ悪いね」
「あいにく僕は品行方正な人間なもので」
「本当に品行方正な人は自分で品行方正なんて言わないよ」

 あぁ、腹が立つ。この人にだけは言われたくない。

「そんな怒んないでよ。冗談よ、冗談」

 なんだかもう本当に嫌になってきた。

 この人、黒尾さんにいじめられてるとか言ってるけど、僕から見たらふたりは明らかに同類だ。ほんの少し話をしただけだけれど、分かる。人の食ったような話し方、冗談とも本気ともつかないような言葉。話を聞いているだけで疲れる。まったく、なんて理不尽なんだ、僕はここに休憩をしにきたというのに。

「あの、僕もう本当にそろそろ戻らないといけないので」
「あぁ、そう。ごめんね、引き留めて。練習頑張って」
「はい。ありがとうございます」
「あ、そうだ。ちょっと黒尾くんにお使い頼まれてくれないかな?」
「えぇ、なんで僕が」
「どうせ会うんでしょ?」

 その人は一度教室の中に姿を消し、戻ってきて手を振って僕を呼ぶ。

 たった今出会ったばかりの名前も知らないこの人に、おつかいを頼まれる義理はない。一言断ってしまえばいいことなのかもしれないけれど、あいにく僕は人のいい性格をしているので、そんな薄情なことをする勇気はなかった。

 しぶしぶ、窓際に近寄って手を伸ばす。僕の手のひらにすっぽり収まるほど小さいそれは、一口サイズのビスケットの包みだった。

「黒尾くんによろしくね」

 何がそんなに楽しいのか、その人は小学生みたいに無邪気な顔をして笑った。

 この人は、もしかしたら黒尾さんのことが好きなのかもしれない。

 そう思うと、なんだかむしゃくしゃした。こういうことのダシに使われるのは、なんだか分からないけれど癪だった。





「なぁ、ツッキー。午後の休憩中、どこ行ってたんだよ? 俺ちょー探してたんだけど?」

 夜の自主練習。

 梟谷学園のエース、木兎さんに大きな声で話しかけられ、僕はつい黒尾さんの方を見てしまった。少し離れた場所で水分補給をしていた黒尾さんと目が合う。黒尾さんは「何か用?」と表情だけで言う。

「涼しいところ探して体育館の裏の方行ってました」
「なんだよ、練習付き合ってもらおうと思ってたのに―」
「いや、休憩中は休憩しましょうよ」
「いい休憩場所見つかった?」

 横から赤葦さんが助け舟を出してくれた。木兎さんの相手をするには、赤葦さんがそばにいてくれるだけで安心感が全く違う。

「そうですね、涼しいところありましたよ」
「へぇ! 俺にも明日教えて!」
「嫌ですよ、せっかく静かなところなのに」
「木兎さんが行ったら絶対騒がしくなっちゃいますもんねぇ」
「赤葦ひどい! 俺だって静かな時は静かだよ!」
「僕、静かな木兎さん見たことないです」
「近くに図書室があったから、木兎さん行ったらものすごく迷惑だと思います」
「そんな奥まで行ってたの?」

 黒尾さんがのったり近寄ってきて言った。

「迷子にならなかった?」
「なりませんよ、子どもじゃあるまいし。黒尾さんのこと知ってる人に会いましたよ」

 黒尾さんはすいかの種みたいな目を丸くして首を傾けた。

「へぇ、誰?」
「あぁ、名前は聞き忘れました。すいません」
「おいおいツッキー、しっかりしろよ」
「男? 女?」
「女子です。図書室で勉強してるふうでしたけど……」
「なに? 黒尾の彼女?」

 木兎さんがいやらしく笑いながらにゅっと首を突っ込んでくる。黒尾さんは鬱陶しい顔をしてそれを押し返した。

「ちげーよ。彼女なんて作ってる暇ねぇし」
「なんだつまんねぇの!」
「うるせぇ。ていうか、本当、誰と会ったのツッキー?」
「僕に聞かれても」
「顔とか髪型とかどんなだった?」
「さぁ、よく覚えてません」
「ツッキー、それ本当に会ったって言える?」
「すいません。あ、でも、なんか雰囲気が黒尾さんに似てました」
「黒尾に似てる女子ってどんなんだよ!?」
「こんな女子いたらヤダ!」
「おいそれなにげに失礼!」
「いや、外見じゃなくて雰囲気ですよ? これ渡してくれって頼まれたんです」

 預かったビスケットの包みを受け取ると、黒尾さんはそれを見るなり、目尻を吊り上げて大声を上げた。

「もしかしてか!?」

 へぇ、あの人、そういう名前なのか。

 でも、なんでパッケージを見ただけで分かるんだろう。木兎さんも赤葦さんも同じことを聞きたそうに黒尾さんを見ていたけれど、黒尾さんはビスケットを握りしめたまま言語化できない妙な音を漏らしている。一体どうしちゃったんだろう、こんなに取り乱すなんて黒尾さんらしくもない。

「おい、ツッキー」
「はい」
「こいつと何か話した?」
「えぇ、少し」
「何しゃべったの?」
「黒尾さんにいじめられてるんだって愚痴をこぼされましたが」
「いじめてねぇよ!!!」
「いや、僕に言われても」
「黒尾、女の子いじめちゃだめじゃん」
「だめですね」

 珍しく、木兎さんと赤葦さんの意見が一致した。さらに珍しいことに、僕も同じ意見だったのでこくりと頷いてみる。

 黒尾さんは床の上に四つん這いになって、舞台俳優のように激しく落ち込んで見せた。

 僕がビスケットを届けてしまったせいでこんな思いをさせてしまったのかと思うと、なんだか悪いことをしたような気もしたけれど、黒尾さんの落ち込み方があんまり芝居がかっているから、下手に慰めるのも釈然としない。

 木兎さんは早々に飽きたのか、

「赤葦、スパイク練しようぜー」

と、言い、

「そうですね」

と、赤葦さんも淡白に言う。

「ツッキーもブロック飛んでよー!」

 木兎さんの声は、この時ばかりは僕にとっての助け舟だった。

「あぁ、はい」
「誰か傷ついた俺にもっと優しく!!」

 木兎さんの打ったスパイクに僕は反応しきれず、黒尾さんのお尻に直撃した。

 黒尾さんが傷ついた目をして泣き言を言ったけれど、僕は何にも言えなかった。

 黒尾さんに仕返しをしたいと言ったあの人の願いは、あの人が望んだとおりの形かどうかは分からないけれど、たぶん叶った。たった一枚のビスケットによって。

 なんだかうすら寒いものを感じて、僕はいやな気配を振り払うようにかぶりを振った。





 図書室の窓際、風通しが良くて一番涼しい席を運よく確保することができたので、受験勉強にも精が出る。その合間に、甘い物でもつまんで休憩をしようかと、鞄の中から個包装のビスケットを取り出して、窓の外の緑をぼんやり眺めた。

 春は桜の並木が一面をピンク色に染めるそこは、今は青葉が茂って蝉の鳴き声をみんみんと反響させている。太陽の光はほとんど攻撃的と言ってもいいほどだけれど、青葉と蝉の鳴き声を通り抜けてくる風はさわやかで気持ちがいい。グラウンドを走る野球部の威勢のいい声が遠くから響いてくる。

 なぜか頭の中に、黒尾くんのいじわるな笑い顔が浮かんできて、私はふうとため息を吐いた。

 そういえばしばらく顔を見ていない。きっと黒尾くんは今日も、体育館で部活に勤しんでいるのだろうけれど、同じ学校内にいるとはいえ用もないので会わない。

 そこまで考えて思う。
 なんだか、黒尾くんに会いに行かない言い訳をしているみたいじゃない?

 わたし、そんなに黒尾くんに会いたかったの。いや、会いたい、なんて、今日まで一度も思ったことはなかった。なにせ受験勉強で忙しかったし、塾での集中講義もあったし、お盆にお母さんの実家に帰省したときはいろいろ手伝わされて大変だったし、親戚が家に来た日には小さい子たちの遊び相手になってあげなくちゃいけなかったし、本当に忙しくて、黒尾くんのことを思い出す暇なんかなかった。

 けれど、あの忙しい毎日はいつもたんたんとしていて、まるでシロップのかかっていないホットケーキか、苺の乗っていないショートケーキのようだった。それ単体でも食べられないことはないけれど、彩りがない感じ。おいしくないことはないけれど、いつもちょっと、寂しい感じ。

 毎日、黒尾くんのおとなりの席に座っていれば、こんなことはなかったんだけれどな。

 今頃、黒尾くんはあの灼熱の体育館の中でバレーボールを追いかけているんだろう。きっと、元気に、いつも通りバカなことを言いながら、部の仲間と楽しく過ごしているはずだ。

 うらやましいなと、思った。別に私もバレーをしたいとか、そんなんじゃないんだけど。黒尾くんがうらやましかった。好きなことをして、好きなことと勉強を両立すると決めてそれをちゃんと実行しているのは、本当にすごいことだし、しかも、部活では全国大会出場を目指しているのだ、なんだかもう、私とは、やっていることのレベルが違う。黒尾くんはまぶしい。私には絶対、そんなことはできない。

 ビスケットのパッケージを破ろうとして、その裏側に不自然な空白があることに気がついた。そこにメッセージを書き込めるようになっているのだ。さいきんこういうお菓子が増えたような気がする。コミュニケーションを強要されているような気分になるから、私はあまり好きじゃない。

 けれど今日は、黒尾くんに何か話しかけたいような気持になった。会う予定はないし、用もないのに話すこともないのだけれど、何でもいいから黒尾くんに話しかけたかった。

 どうしよう、なにを書いたらいいだろう。書いても届けられないかもしれないけれど、でも、何か書きたかった。言いたかった。

 その時ちょうど、いい風が吹いてきて、白いカーテンが窓の外にふんわり広がる。参考書が風にあおられてはらはとめくれる。その向こうにいる人と目が合った。

 色の薄い髪の、眼鏡をかけた人。知らない顔だ。白いTシャツに半ズボン、細身で、ひょろりと背が高い。

「こんにちは」

 つい、声をかけてしまって自分で驚いてしまう。怪しまれるかな、と思ったけれど、その人はきょとんとした顔をしながらも答えてくれた。

「はぁ、こんにちは」

 聞けば、彼はバレー部に所属していて、休憩時間にふらりとここまで来てしまったらしい。バレー部。それを聞いて、私の心臓が躍った。彼は黒尾くんの後輩なのだ。それを知っただけで、たった今初めて会ったばかりの彼を他人とは思えなくなってしまう。迷惑そうな顔をされたけれど、そんなことは知ったことじゃない。

 嬉しかった。黒尾くんとの接点ができた。こんなちっぽけなことで、笑顔がこぼれてとまらなくなるほど、嬉しかった。

「あ、そうだ。ちょっと黒尾くんにお使い頼まれてくれないかな?」
「えぇ、なんで僕が」
「どうせ会うんでしょ?」

 私はビスケットのパッケージにさらさらとペンを走らせて、それを彼に託した。さっきまで何にも思い浮かばなかったのに、ちょっと彼と話をしただけですんなり書けた。

「黒尾くんによろしくね」

 面倒くさそうに眉をひそめながら、それでも彼はしぶしぶビスケットを預かってくれた。

 私からのメッセージを見て、黒尾くんはなんて言うだろう。どんな顔をするだろう。それを想像するだけで、しばらくはこの辛い毎日を乗り越えていけるような気がした。

 あぁ、私は黒尾くんが好きなんだな。

 面倒くさそうな顔をして私を見返す黒尾くんの後輩を見下ろしながら、私は何のてらいもなくそう思った。












かわいい後輩、いじめちゃだめだよ






20170623