席替え





 新学期。暦の上ではもう秋とはいえ、うだるような暑さは勢いを弱めることもなく、冷房の完備されていない体育館は灼熱地獄の様相をていし、それと比べればたいして設定温度低くない教室ですら天国だ。

 朝練を終えて、ホームルームがはじまる直前に席についた黒尾は、となりの席のに開口一番こう言った。

「今すぐ水風呂つかれんなら100万円払ってもいい」
「今日はプールの授業ないよ」

 元も子もないことを言われて、黒尾は苦笑いした。

 と顔を合わせたのは夏祭りにばったり会って以来だったから、たった一言のやりとりがじわりとしみるように嬉しかった。

 鐘の音とともに担任教師が教室の前扉から入ってくる。立ち上がって礼をして、クラスメイトの名前が五十音順に呼ばれていくのを聞きながら、横目でを盗み見た。

 相変わらず小さな体をしていて、黒尾には両足が収まりきらないほど小さな机もには十分すぎるほど大きい。顔を見なかった間に少し髪が伸びたようだ。あごのラインをそう毛先がふわりとやわらかそうで手を触れたい。丸い鼻先、リップクリームでも塗っているのか、つやつやと輝くくちびるは綺麗な桃色だった。

 何を考えてるんだか、と自虐的な気持ちで思って、黒尾は手のひらでごしごしと顔を撫ぜた。が不思議そうにこっちを見ているのが分かって恥ずかしい。

「どうしたの?何か用?」
「いや、別になんでもないけど」
「疲れた顔してんね。夏バテ?部活頑張りすぎなんじゃない?」
「いやいやいや、本当、そういうんじゃないからさ」

 全く、どうしてこんな気持ちになるのかほとほと分からなくて困ってしまう。目が勝手にの姿を追っていて、気づかないうちにそんなことをしているものだから自分でも驚いてしまうし、時に気づかれて不審そうに睨まれるのも気まずい。「何か用?」なんて聞かれたってそんなことこっちが聞きたかった。一体どうしちゃったんだろう、俺。

 そんなことをもんもんと考えているところに、衝撃的な言葉が降ってきた。

「それから、今日の夕方のホームルームで席替えをします。高校生活最後の席替えになるからね」

 ざわりと浮き足立つ教室を見回して、担任は楽しそうに微笑んでいた。

 黒尾は何も考えず、となりの席を振り返る。はきょとんと目を見開いて、真っ直ぐに黒尾を見返していた。何か言った方がいいかと思ったけれど何も言葉が出てこなくて、ただから目が離せなくなった。おいおい、本当にどうしちゃったの、俺。

 はただ真っ直ぐに黒尾を見ていた。目を細くすることもなく、眉をしかめることもなく、ただ、じっと。それを嬉しいと感じている自分がいることが、黒尾にはただただ不思議で仕方がなかった。



* * *




 眠そうな目をぽかんと丸くして固まってしまった黒尾を見て、はほとんど無意識にこぼしてしまった。

「なんか黒尾くん、あんまり元気ない?」
「はぁ?なんで?」
「いや、なんでって、そう見えるから」
「別にそんなことねーけど」

 黒尾くんはそう言ったけれど、やっぱり違和感は残った。丸く曲がった黒尾くんの背中。いつもはつんつんと天井に向かって立っている髪が少しだけくったりしているように見えた。

 黒尾くんは一体、そんなに何を気にしているのだろう。席替えがそんなに嫌なのかな。そんなにこの席を気に入ってたのかな。周りに背の高い人がいなかったから、黒板が見やすかったのかもしれない。入口に近いから、昼休みになったら購買部にダッシュするのに有利だし、夏は風通しがよくて涼しいし。冬は隙間風でちょっと寒いけど。

「ていうか、なんつー顔してんの?」
「え?」
「そんな、かわいそうな人を見る目で俺を見るなよ」
「うそ、そんな顔してた?」
「うん、してる」

 しまった、そんなに不躾だったか。

「別に、元気は元気だから」
「あぁ、そう」
「心配してくれて、どーも」
「いや、別に心配したわけではないんだけど」
「えぇ」

 黒尾くんは頬杖をついた手を滑らせて、わざとらしく肩を落として見せた。それが妙におかしかった。だからかどうか、分かっていたこととはいえ、急に席替えをするのが惜しくなってしまった。

「ま、席が離れてもまた仲良くしてよね」

 黒尾くんが私を見て、何か言いたそうに口を開く。けれど、そこでちょうど始業のチャイムが鳴って、黒尾くんの自信なさげな小さな声はかき消されてしまった。



* * *




 くじを引いて、その番号の席に机を移動させ、ふと前を見たら黒尾とが何も言わずに顔を見合わせていた。

 夜久が引いたくじの番号は31番。その前の席の黒尾が引いたくじはたぶん30番。なんだよ黒尾、後前だな。喉まで出かかった言葉はそのとなりの席のの顔を見たら舌の上で固まってしまった。

 そっとの手元を覗き込む。くじの番号は36番。黒尾のとなりの席の番号だった。席替えをしたというのに、このふたりにはあんまり意味のないくじ引きだったらしい。

 なんだよ、またおとなりさん?舌の上まで出かかった言葉は、のまさかの言葉に塗りつぶされてしまった。

「……これ、何の呪い?」
「のろいって。ひでぇな」
「いや、だってこんなことってある?」
「あるんじゃないの?俺、小学生の時3回連続で同じ班になった奴とかいたよ」
「それは班でしょ? となりの席ってことないでしょ?」
「まぁ、そうかもな」
「うわー」
「そんなに俺のとなりいやなの?」
「いやっていうか、離れるもんだと思ってたから…。うわぁ」
「うわぁって。結構傷つくなそれ」
「あ、ごめん。そういうつもりはなかったんだけど」
「そんなに嫌なら誰かと変わってもらえば?」
「だから別に嫌だって言ってないってば!」

 声を掛け損ねた夜久に目もくれず、黒尾とはつんけんつんけん嫌味を言い合う。一体どこからそんな言葉がぽんぽん出てくるのか不思議なくらいだ。

「どーせ俺のことなんて嫌いなんだろ」
「だからそんなこと言ってないってば。なによ、今日の黒尾くんやっぱり変」
「変じゃねーし。いつもこんなだし」 
「やせ我慢しちゃってさ。具合悪いんなら保健室行って来れば?」
「付き添いしてくれんなら行ってもいいけど」
「いや、私もう帰るし。ひとりで行きなよそれくらい」
「俺は付き添ってやったじゃん」

 黒尾の肩を叩こうと持ち上げた右手が、行き場を失ってむなしく空を泳ぐ。

 ふたりはたぶん喧嘩をしているつもりなのだろうけれど、はたから見ていると気心の知れた仲良しにしか見えず、だからこそそんなふたりの間に割って入ろうという気は起らなかった。

 なんだか、邪魔立てしてはいけない雰囲気がふたりの間にはあった。

「あれ、夜久いたの?」

 ようやく気の済んだらしい黒尾がこちらに気づいたのは、もういい加減に待っていられなくなった夜久がこっそり席を離れようとした瞬間だった。

 うん、いたんだよ。ずーっとね。





20161001



新学期、続編