夏休み
夏休みというほとんど一カ月にも及ぶ長期休暇は、受験生にとっては正念場で、遊んでいる暇などないというのが世間一般の常識らしく、けれど、少しも息抜きもせずにただ勉強し続けるなんてそんな苦行に耐えきれるほど、
の精神力は発達していなかったので、ちょっとした息抜きに、となりの席の黒尾鉄郎の顔を見に行くことにした。
黒尾鉄郎はバレー部に所属していて、全日本バレーボール高等学校選手権大会、通称「春高」での全国大会出場を目指し、受験を控えた夏休みという重要な時期にまだ部活をしているというちょっと珍しいタイプの受験生である。きっと今日も朝から体育館で部活にいそしんでいるに違いない。
けれど、
はバレー部がどこで活動しているのかを知らなかった。音駒高校には第一体育館と第二体育館があって、そのどちらに行けば黒尾に会えるのかが分からない。
ははじめ、山を張って第一体育館を覗いてみたけれど、そこにはバドミントン部と卓球部しかいなかった。仕方がないので、
は第二体育館へ足を向ける。第一体育館と第二体育館は校内の真逆の場所にあるので相当距離はあるけれど、ここまできたら引き返すのも癪だった。
途中に食堂があったので、自動販売機でポカリスエットを買った。冷たいペットボトルを頬に押し当てて体の火照りを冷ましながら、できるだけ日陰を選んでのんびり歩いた。今日はいつもに増して気温が高く、ちょっと油断したらすぐに体調を崩してしまいそうだった。
夏休みに入って以来、
は黒尾と一度も顔を合わせていなかったし、連絡も取っていなかった。黒尾のメールアドレスも電話番号もラインのアカウント名も知っているけれど、これといった用事がないのでどれも一度も使ったことがない。
それにも関わらず、今日に限って
が黒尾のことを思い出したのは、登校してきたとき、野球部が校庭で炎天下の中汗を流して走り回っているのを見たからだった。もしかしたら、黒尾もあんな風にボールを追って汗を流しているのだろうか。そう思うと、あの無気力でぼんやりした顔を思い出したのだった。
第二体育館の裏側に面した、体育館の横っ腹に空いた穴のような扉から、威勢のいい大声と何かが壁にあたる音が聞こえたので、
は正面扉には向かわずそちらに足を向けてみた。
こっそり中を覗き込むと、開いた扉には緑色のネットがかかっていて、その中で、黒いTシャツと赤いジャージを着たバレー部員と思しき人達が汗を流していた。たくさんのボールがネットの上を飛び交っていて、体育館中にボールが転がっている。その両端に一列に並んだ部員たちが、片手でボールを放り投げては腕を振り上げてそれをネットの向こうに打ち込んでいる。
にはよく分からなかったけれど、おそらくはサーブ練習だろう。
コートの真ん中にふたりの人が構えていて、ネットを越えてきたボールを両腕で弾いている。と、当たりどころが悪かったのか、その弾かれたボールがこちらに向かって一直線に飛んできた。まったく身動きも取れずにそれを見ていた
の前で、ボールは緑色のネットに受け止められて床に落ちる。なるほど、このネットはボールが外に飛び出していかないようにしているわけか。
がふんふんと感心していたら、その頭上に聞き馴染んだ声が降ってきた。
「
?」
ネット越しに
を見下ろしていたのは黒尾だった。額に浮かんだ汗が、太陽の光を浴びて白く光って、
はまぶしい顔をした。
「あぁ、黒尾くん。久しぶり」
「久しぶりじゃねぇよ。こんなとこで何してんだ?」
「いやぁ、なんか急に黒尾くんの顔が見たくなってね」
「はぁ?」
黒尾はあんぐりと口を開け、上体ごと首をかしげて見せた。相変わらず芝居がかった胡散臭い動きをするなぁと、
は思ったけれど口にはせず、その代わりにいたずらっぽく笑って見せた。
「私、午前中の講習受けてるの。あとは図書館で勉強しててね、その息抜きに黒尾くんの顔でも見に来てみようかなって思って」
黒尾は小さな目をぱちくりさせ、手持ち無沙汰に首の後ろを撫でた。もう片方の手にはバレーボールを持っていて、指先だけでそれを掴んでいる。まるで黒尾の手のひらに吸盤がついているみたいだなと、
は思う。
「これ、差し入れ」
そんなつもりで買ったものではなかったものだけれど、
は今まで自分の頬を冷やしていたペットボトルをネットの穴越しに黒尾に差し出した。ペットボトルはすっかり汗だくになっていて、体育館の床をその雫で濡らす。
「おぉ、サンキュー」
「部活頑張ってね」
「
は? まだ勉強?」
「うん。もうちょっと頑張るつもり」
「夏休みだっつーのに大変なのな」
「まぁ、確かに夏休みらしいこととか全然してないかも。黒尾くんは?」
「どうかな、俺もずっと練習だし……」
「お祭りとか、花火とか、行けたらいいけどね」
「そうだな」
そう言った黒尾は、全然そんなことは思っていないのに
の話の流れに合わせなくちゃならないかな、といらぬ気を遣って嘯いているように、
には見えた。だから、これ以上邪魔したら悪いなと思った。練習の邪魔をしてしまって、申し訳なく思った。自分の息抜きに付き合わされて、嫌な気持ちにさせてしまったような気がした。
「邪魔してごめんね。それじゃ、ばいばい」
は遠慮がちに笑って、第二体育館を後にした。
「あれ、
さん?」
「おぉ」
夜久に声をかけられ、黒尾は曖昧にうなずいた。
向こう側のコートから飛んできたボールを手のひらで弾いて、足元に転がったそれを拾い上げると、条件反射でそれをひとつ床に打ち付ける。
夜久は黒尾が壁の隅に置いたペットボトルを見やって、猫のように鋭く丸い目を興味深そうに光らせた。何かいいたげなその視線に気づかないふりをして、黒尾はフローターサーブを打ったけれど、それはネットを越えずに白帯に当たってこちら側のコートに落ちた。どうにも、しっかりと集中できていないらしい。
それを分かってかいなか、夜久は立て続けに問いかけた。
「黒尾に会いに来たんだ?」
「勉強の息抜きだって言ってたけどな」
「わざわざ差し入れ持ってきてくれるなんて、優しいじゃん」
「そうだな」
「どうかした?」
何の脈絡もなく、夜久は語尾を持ち上げた。その唐突さに黒尾は目を見張り、肩の下たりにある夜久の顔を見下ろした。
「どうかって?」
「いや、なんかふわっとした顔してるから」
「なんだよ、ふわっとって?」
「んー、なんかそんな感じしたんだよねぇ」
夜久は足元に転がったボールを拾い上げてカートの中に集めながら、間延びした声で言った。
黒尾には夜久が何を考えているかは分からなかったけれど、自分の中でごちゃごちゃにたごまった糸のようにこんがらがった何かの正体の方がもっと分からなかったので、いつになく素直に口を開いた。
「いや、なんつーか……、気ぃ遣わせてんのかなと思って」
「は? 何が?」
「
が差し入れ持ってくるのがさ」
「あぁ、そういうこと? そんなことないんじゃないの?
さんが黒尾相手に気ぃ遣うとは思えないんだけど」
「それどういう意味だよ?」
「いや、だって仲良いじゃん。気ぃ遣わないでいられるくらいには気心知れた仲なんだと思ってたんだけど」
「そうでもねぇよ」
「そうなの?」
夜久は「それは意外だ」と言わんばかりに目を丸くした。
それを傍目に見ながら、黒尾はついこの間した
とのけんかのことを思い出していた。
夜久のいうように、本当に気心知れた間柄なら、あんなけんかにはならなかったはずだ。あの時、
がどうしてあんなに怒ったのか、黒尾には今になってもよく理解ができていなかった。
の口から理由は聞いたし、
の言い分は理解したつもりだけれど、心から
に悪いことを言ってしまったと思ったわけではないし、罪悪感もないわけではなかったけれど、それは
の怒りっぷりに辟易して生まれたもので、罪の意識は薄かった。
あの時黒尾は、ただ
に許してもらいたいという一心で謝ったのだ。
と仲直りがしたかった。くだらない話をして笑い合える、気軽な関係のおとなりさんでいたかったからだ。
の許しを得るために、ハーゲンダッツ一週間分という高い代償を払う羽目にはなったけれど、それで許されるならまぁ仕方ないとも思えたのだ。
夏休みに入ってからは全く顔を合わせることもなく音沙汰もなかったのだけれど、特に用事もなかったし、お互いに部活と勉強で忙しく過ごしていたからそんな暇もなかったのだ。二学期になるまで会うこともないだろうとも思ったし、それで別に不都合があるわけでもなかったから、それはそれで良かったのだ。
けれど、
は突然黒尾の前に現れ、差し入れのペットボトルを差し出し、風のように去っていった。あまりに突然のことに、黒尾の頭の中でこんがらがった糸がいよいよ複雑に絡み合った。
黒尾の閉じた瞼の裏に、体育館から去っていく
の後ろ姿が映る。白いセーラー服の襟が風にひるがえり、袖口から覗いた白い二の腕が眩しかった。
「それにしても、黒尾もそんなに驚くことがあるんだな」
ふいに、夜久にそう言われて、黒尾はやっと合点が言ったというようにぽんと手を打った。
「そうなんだよ! 俺、驚いてんだよ!」
「今気づいたのかよっ」
呆れる夜久を尻目に、黒尾は「あーまじびっくりした!」と、改めて驚きの声を上げた。
20160126
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