けんか 後編
よもや、黒尾くんにあんなことを言われるだなんて、思ってもみなかった。
中間テストも終わって、やっと羽を伸ばせる気分になった頃、球技大会の日がやって来た。私は卓球の団体戦に出ることになったけれど、女子の卓球の試合なんて、温泉旅行に行った時にする卓球と変わらない和気あいあいとしたもので、朝練に出たのだって、テスト勉強が終わった開放感に任せてノリで参加したようなものだ。クラスメートは遊び半分で、それでもほんの少しだけ真剣で、ラリーがちょっと長く続いただけで結構盛り上がったりして、楽しかった。
だからこそ、よもや! 黒尾くんのあのたった一言でこんなに何もかもがつまらなくなってしまうなんて思いもよらなかった!
「
さん、どうかしたの?」
「べっつにぃ」
と、夜久くんに聞かれて、膝に頬杖をついたまま答えたら、予想外にぶっきらぼうな声が出てしまった。
「ごめんね。今、本当に気分が悪いの」
「黒尾と何かあったの?」
夜久くんは苦笑いをしながら私の隣に腰を下ろした。
壁にもたれて座って卓球の試合を観戦している最中だった。体育館の半分を埋め尽くすように卓球台が並べられていて、体育館を二つに分断するように緑色のネットが掛かっている。向こう側ではバドミントンの試合が行われていて、シャトルがしゅんと空を舞う音と、卓球台をピンポン玉がはねる音がごちゃまぜになって鳴り響いている。
「黒尾くんに聞いたの?」
「いや? でもなんとなく雰囲気でね」
「夜久くんは鋭いね」
「そうでもないよ。黒尾があんな顔するの珍しいからさ。機嫌悪いよ、今日の黒尾」
あんなにひどいことを自分から言っておきながら機嫌が悪いだなんて、虫のいい話だ。
「で、何があったの?」
「私、黒尾くんがバスケの試合に出るっていうから、応援に行こうと思ってたの。それ言ったら、私のことだから具合悪くなって来れないんじゃないかって言われて。失礼だと思わない?」
「あぁ、そういうこと」
夜久くんは何を納得したのか、ふむふむと頷いた。
「黒尾は、
さんのことを心配しただけだと思うよ?」
「それにしたって言い方があるでしょ。黒尾くんは本当、思いやりがないよね」
「あいつの口の悪さは一級品だからね。他校にまで噂広まってくらいでさ」
「私は結構傷ついた」
「黒尾もそれは分かってるんじゃないのかな? だから今日機嫌悪いんだよ、きっと」
「うそ。あんな無神経なこと言うくせして? 調子よすぎ」
そう言うと、夜久くんは苦い顔をして笑った。
黒尾くんが私の前に現れたのは、体育祭が終わった午後の遅い時間だった。
校庭では表彰式が行われていて、各種目ごとに上位3クラスが名前を呼ばれ、表彰台に登り、校長先生から表情とメダルを授与されている。そして最後に、総合優勝のクラスが発表されるのだ。優勝したクラスは両手を挙げて喜びの歓声を上げ、クラスの代表者が校長先生からトロフィーを受け取る。トロフィーの取っ手に飾られている優勝クラスの名前が刺繍されたリボンが風になびいて、トロフィーが夕日を弾いてきらきら光る。
私はそれを、教室の窓辺から見下ろしていた。人ごみは苦手で、こういった類の式典には高校に入学して以来一度も出席したことがない。今日は一日体を動かしたからとても疲れていたし、黒尾くんのせいで高校最後の学校行事のひとつを全く楽しめなかったから気分も最悪だった。
クラスメイトが教室に戻ってくる前に、さっさと姿を消してしまおうと、制服に着替えて荷物をまとめ終わった時、黒尾くんは現れたのだ。
「やっぱりここにいた」
黒尾くんはほっとため息をついて肩を落とした。学校指定のジャージの上下を着ていて、半分だけ見える額が汗ばんでいた。
「帰んの?」
「頭が痛いの」
そう言い放って、鞄を掴む。黒尾くんの顔を見るだけで腹が立って、言葉のはしばしからトゲが飛び出すのを抑えきれなかった。
「黒尾くんの言ったとおりだったね。半日保健室で寝てた」
「そうなの? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないから、もう帰るの」
鞄を肩にかけて、黒尾くんが立っているのとは逆の扉に向かう。すると、黒尾くんは大股で教室を横切ってきて、扉の前に立ちふさがり私を通せんぼした。
「待てよ」
「なに?」
下から睨み上げると、黒尾くんは困ったように眉尻を下げた。
「……怒ってる?」
私の顔色を伺うように、そんなことを言う。その態度に、また腹が立ってきた。なによ、「怒ってる?」って。どうしてわざわざそんなこと聞くの? 見れば分かるでしょう、怒ってるよ!
「どいてよ。私は帰るんだから」
「その前に質問に答えろよ」
「どうしてそう思うの?」
「いやぁ、なんとなく?」
なんとなくってなによ! それって、黒尾くんが私にどんなひどいことを言ったのか、自分で全然分かっていないってことじゃない! 私は我慢がならなくて、黒尾くんのお腹に向かって学生鞄を投げつけた。
「わぁっ! 何だよいきなり!」
黒尾くんはやすやすと私の鞄を受け止めると、鞄と私を交互に見やる。あぁ、私の渾身の攻撃が黒尾くんには全然効いていない。それが悔しくて、目尻に涙が浮いてくる。それを見られたくなくて、ぐっと顎を引いて顔を伏せた。
「なぁ、
。俺、なんかした?」
高いところから、黒尾くんの低い声が降ってくる。何にも分かっていない、呑気な声。その声を聞いているだけでお腹の底が煮えくり返った。
どうして黒尾くんは分からないんだろう。好き好んでこんな体質に生まれた訳じゃない。私だって、できることなら、クラスメイトと一緒に表彰式の列に並んでいたい。総合順位が発表される中、私たちのクラスがいつ名前を呼ばれるかとどきどきしたいし、名前を呼ばれたら友だちと一緒に歓声を上げたりしてみたい。でも、そんな無理をしたら、きっとその場で具合が悪くなってクラスメイトに迷惑をかけてしまうし、せっかくの楽しい時間に私が水を刺したくなかった。だから、教室でひとり、痛み止めの薬が効くのを待ってこっそり姿を消そうと思っていたのに。
どうして、黒尾くんは何にも分かっていないくせにここにいるの。
「
」
私がずっと黙っていることに耐え兼ねたのか、黒尾くんが私の名前を呼ぶ。返事なんかしてやるもんかと意地を張っていたら、予想外のことが起きた。
黒尾くんは私の鞄をそっと床に下ろすと、その手を私の頭の上に置いた。何をする気かと思ったら、突然目の前が暗くなった。よく晴れた日に大きな雲が空を渡って濃い影を作ったような、そんな暗さだった。けれどここは午後の学校の教室で、照明もついていなければ太陽も見えない。何かと顔を上げれば、目の前に音駒高校の校章が見えた。学校指定ジャージの胸元に刺繍されているそれ。おや、と思った瞬間、両肩をぐいと掴まれた。
私、今、黒尾くんの腕の中にいるんだ。そう理解したとたん、喉につかえていた涙がすとんと胸に落ちていくのが分かった。
「……なにしてるの?」
校章に向かって問いかけると、私の額のあたりにある黒尾くんの肩が小さく震えた。
「いや、なんか、こういうときはこういうことすべきかな? と思って」
黒尾くんは私の耳元で自信なさげに呟いた。
「こういうときって?」
「うーん、なんて言うの? 誠意を示さなきゃならないとき?」
「なんでいちいち疑問系なの?」
「だって自信ねぇんだもん」
黒尾くんはそう言うと、言葉通り自信なさげに私の背中の真ん中あたりをぽんぽんと叩いた。
「ごめんな。俺、何したか分かんねぇんだけど、分かんねぇことも含めてごめん」
私はとても静かな気分で、黒尾くんの謝罪に耳を傾けた。
黒尾くんの手はとても大きいな、と思う。片方の手で私の背中をまるまる包んでしまえそうだった。まるで小さな子どもにするみたいに、リズムを取って私の背中を叩いている黒尾くん。もしくは、興奮した犬をなだめるためにその首のあたりを叩いてやるような手付き、とでも言うのだろうか。そう考えると面白くなかったけれど、さっきまでお腹の底で煮えたぎっていた怒りはそのリズムに合わせてどんどん炎の勢いを殺していった。
面白くなかった。さっきまであんなに黒尾くんが憎らしくて仕方がなかったのに、こんなに簡単なことで黒尾くんを許してしまえそうだった。
「……私、黒尾くんの応援に行こうと思ってたの」
「うん」
「でも黒尾くん、私のことだからどうせ頭痛くなって来られないって言った」
「んなこと言った?」
「言った」
「……言ったっけ?」
「言った。私、結構傷ついたんだからね。せっかく、黒尾くんの応援行こうって、思ってたのに……」
「そっか。悪かったな」
「やっぱり行けなかったし」
「いいよ。どうせ1回戦で負けたから」
「それなら余計見に行きたかった。黒尾くんのみっともないところ見てやりたかった」
「んだよ、それ。ひでぇな」
黒尾くんは私の耳元で笑った。軽やかな息が耳にかかって、くすぐったかったから、私は黒尾くんの腕を外して腕の中から逃れた。黒尾くんの顔を見上げると、黒尾くんはいつもどおり人の悪そうな顔で笑っていた。
「許してくれる?」
黒尾くんは首を傾げる。長い前髪がさらりと流れて、黒目の小さい双眸が遠慮がちに私を見下ろした。黒尾くんはどうしてこんなにうさんくさいんだろう。たぶん本気で許して欲しくてそう言っているんだろうけれど、その顔を見るとどうしても疑いたくなってしまう。そもそも自分で何を言ったか覚えていないくらいだ、たぶんこれからもまた同じようなことをして、私を傷つけるのだろう。考えなくてもそれは分かる。
けれど、私の怒りの炎はもうすっかり鎮火してしまった。だったらもう、しょうがない。
「ハーゲンダッツ1週間分でいいよ」
私は轟然と顎を上げて、ニヤリと笑うと、黒尾くんはちょっと口元を引きつらせてしぶしぶと頷いた。
20160103
↓