保健室 その2
今日は朝から調子が悪かった。まず第一に、寝坊した。いつもは通勤通学ラッシュの時間を避けるために5時には起きて6時には家を出て電車に乗るのに、今日はそれができなかった。サラリーマンと学生で満杯になった電車になんか死んでも乗りたくなかったけれど、今日は妙な勇気が出てしまってつい飛び乗ってしまった。遅刻ぎりぎりの電車だった。空気の悪い電車の中、隣り合ったサラリーマンの整髪料の匂いで気分が悪くなり、電車の中で立ったままということに慣れていなくて悪酔いした。しかも、今日は朝から体育の授業があって、それでKOだった。
保健室には通い慣れている。養護の先生にはしっかり顔を覚えられているので、青い顔をして保健室を訪れたらすんなりベッドに案内してくれた。
ほんのりと暗い、保健室の白いパイプベット。四方をカーテンで囲まれたそこにいると、水槽の中に沈んでいるような気分になる。私は、息も絶え絶えの金魚だ。酸素が足りなくて瀕死状態。そのうち、真っ白なお腹を空に向けて、ぷかりと浮かんで死んでしまうのだろう。
エラ呼吸をする夢を見ていたら、
「
?」
ふいに名前を呼ばれて、
「はい?」
と、反射的に返事をしてしまった。自分で出した声が思いの他大きく響いて、それで意識が覚醒する。こんな風に私の名前を呼ぶのは誰だろう。保健の先生は必ず苗字にさんをつけるし、友達は
とか、
ちゃんとか、名前で呼んでくれている。
「誰?」
体を起こしながら、薄暗いカーテンに向かって聞いたら、おどけたような声が返ってきた。
「隣の席の黒尾ですけど」
「え? 黒尾くん?」
予想もしていなかった人が登場して、ぎくりとした自分に驚く。今の今まで夢路をさまよっていたから、髪はぼさぼさだし、制服もシワになっているだろうし、リボンも歪んでいる。せめて制服と髪を撫で付けて、ベッドから足を降ろしてからカーテンを細く開いて外を覗くと、にゅっと背の高い黒尾くんが本当にそこにいて、もう一度、改めて、驚いた。
「何してんの?」
ついそう言ったら、黒尾くんは苦々しく口元を引きつらせた。
「見舞いに来てやったのに、その言い草はなんだよ? 大丈夫か?」
どう答えていいものか分からなくて、手遊びに髪をなでつけながら視線を落とす。なんだか恥ずかしくて、黒尾くんの目をまっすぐに見られなかった。
「うん、だいぶ楽にはなったかな」
「風邪かなんか?」
「うぅん」
満員電車に酔った、とはなかなか言いにくくて、口篭ってしまう。人の集団が苦手だと、黒尾くんに話したことがあるけれど、それを何度も何度も話すのは、不幸自慢みたいで嫌だった。だって、このことを分かってくれる人は今までひとりもいなかったのだ。黒尾くんにそんなことをアピールして、一体どうするっていうのだろう。
ごちゃごちゃとそんなことを考えていたら、ふいに視界が暗くなった。男子の制服のネクタイが目の前にある。薄く開けていたカーテンがしゃらりと音を立てて横に滑った。視界を暗くしていた黒尾くんの大きな体が足元にしゃがみ込むと、ぱっと目の前が明るくなる。黒尾くんのつんつんと立った髪の毛がその反動でそろって揺れた。
「大丈夫?」
黒尾くんは人の悪そうな顔をして、けれど、本当に心配している人の声でそう言った。その声色。深く、染み入るような、優しい声が、私の耳の鼓膜を柔らかく振動させた。だからだろうか、耳がほんのりと熱くなる。
「大丈夫だって。もう授業始まるよ? 戻りなよ」
「
はどうすんの? 早退すんなら、カバン持ってきてやろうか?」
「どうして黒尾くんがそんなことまでしてくれるのよ?」
困惑しながらそう聞いたら、黒尾くんは人の良さそうな笑顔を浮かべて言った。
「僕が親切なのはいつものことです」
口元は笑っていたけれど目はちっとも笑っていなかった。その顔がなんだかおかしくて、つい、いつもの調子でわざとおどけて毒づいた。
「なにそれ、きもちわるっ」
「ひでぇな」
黒尾くんがそう言った後目を合わせたら、なんだかおかしくなって、ふたり同時に笑った。
201500209
「気持ち悪い」って言っても笑って許してくれる黒尾くんであれ。
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