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 よく晴れた日曜日の昼時、は安室と待ち合わせをした。場所は米花駅前で、ケージに入れたニコを連れたを、安室が車でピックアップする。後部座席にハロとニコを乗せ、ふたりが向かった先は、都心を離れた郊外にあるドッグカフェだ。

 ペットと一緒に入店でき、飼い主が食事を楽しんでいる間にトリミングをしてもらえるという趣向のカフェである。トリミングルームと喫茶スペースはガラスで仕切られていて、毛並みを整えてもらっているペットの様子を見守りながら、美味しい食事やスイーツを楽しめることが売りだ。

 ハロとニコを担当のトリマーに任せ、と安室はふたりでランチを楽しんだ。明るい日差しが降り注ぐ窓際の特等席。店を囲うように並んだ木々が窓越しに柔らかい影を落とす心地良い席だ。

 真っ白なテーブルに並んだ色鮮やかなサンドイッチのセットをスマートフォンで写真に納めてから、は「いただきます」と言って両手を合わせた。

「こんなにすっきりした気持ちで食事ができるのは久しぶり」

 そう言うと、サーモンとアボカドとモッツァレラチーズのサンドイッチを両手でつかみ、ぱくりと噛みつく。唇の端からバジルソースがとろりとこぼれて、はそれを親指で掬い取って上手に舐めた。

 安室はそれを微笑ましく眺めながら言った。

「その様子だと、もう何も心配なさそうだね」

 はうっとりとした表情で頷いた。サンドイッチをゆっくり味わい、すっかり飲み込み、ジンジャエールで口直しをしてから答える。

「えぇ、こんなにうまくいっていいのかしらって、驚くくらい」
「お父さんは? 気落ちしてない?」
「初めの頃はね。でも、ある時になって、考えを改めたみたい。警察を欺くほどの世紀の大泥棒に目をつけられたことで、あの掛け軸の価値はますます跳ね上がった! って叫んでたわ」
「へぇ」

 それはまた、ずいぶん強引な解釈だ。
 は肩をすくめて続けた。

「父にとって、掛け軸の存在や芸術的な価値は大した問題じゃないんだと思う。父の望みは、世間の注目を集めて、認められることなの。そのための手段は何でも良いのよ。事件が起こる前は、世界に名を知られる日本画家と同等の腕を持つ影の芸術家。あの時は、世間の目を欺いた自分の腕に酔っていた。今は、悲劇のヒロインとして世間に同情されて、それで満足してるみたいよ」

 安室が気遣うように顔をのぞきこむと、は無理に唇だけで笑って見せた。

「自分の父親ながら、本当に馬鹿な人だと思うわ。でも、本当に毎日、楽しそうなの。いろんな人にちやほやされて、優しくしてもらって……。あんなに幸せそうな父を見るのは生れてはじめて。あの調子がいつまで続くか分からないけれど、もう年だし、これを生涯の思い出にして、このまま静かに老いていくんじゃないかしら。そうであることを願うわ。父に振り回されるのは、もうたくさん」

 悲しそうに目を細めたの手を、安室はそっと包み込むように握った。

「頑張ったね」
「あなたのおかげ」
「自分の仕事をしただけだ」
「それでも感謝してる。本当の、本当よ」

 の手が安室の手をぎゅっと握り返し、指先が震えるように動く。それにはっとしたは、逃げるように手を引っ込め、食べかけのサンドイッチに再び手を伸ばした。照れ臭そうにくしゃりと笑った顔がかわいくて、安室はそれを見ているだけでお腹いっぱいになってしまいそうだった。

「それにしても、あまり大きなニュースにならなくてありがたかったわ」

 が言う。
 安室はうんと頷く。

「近頃は、報道のスピードが速いからね。昔は人の噂は七十五日とか言ったけど、今はもっと短いんじゃないかな」
「捜査本部も解体されたって、警察から連絡があったの。重大事件から格下げされたってことかなと思うけど、どう思う?」
「詳しいことは分からないけど、」

 と、安室は笑顔で嘯いた。

「捜査に行き詰って、このためだけに多くの人員を確保しておくメリットがなくなったんじゃないかな。警察も暇じゃないだろうし、もっと大きな事件が起きれば必然的にそっちに人員を裂くことになるから」
「あ、そういえば」

 と、が膝を打つ。

「今朝の日売新聞、見た? 怪盗キッドの予告状が出てたの」
「その方が、事件の重要度も世間の注目度も高いだろうね」
「怪盗キッド様様、ね」

 安室の胸に、ちくりと小さな棘が刺さる。

 裏から手を回して捜査本部を解体させたのは他の誰でもない安室であって、怪盗キッドとは何の関係もないのだ。絶妙のタイミングで予告状が出たことは、捜査本部の解体にひと役買ったかもしれないが、直接の要因ではない。を取り巻く危険に対処しているのは、気障な怪盗ではなく、この自分だ。そう、大声を上げて主張したかった。

 は付け合わせのオニオンリングをつまみながら、ガラスの向こうで毛並みを整えている愛犬を、愛おしそうに見つめている。その幸福感に満ちたまなざし、体のどこにも余計な力が入っていないリラックスした雰囲気が全身から感じられる。

 余計なことを言って水を差してはいけない、安室はサンドイッチを口いっぱいに頬張って自ら口を塞ぐことにした。

「ねぇ、何か欲しいものはない?」

 唐突には言い、口の中をいっぱいにしていた安室は黙って首を傾げた。

「今回のことでは本当にお世話になったから、お礼をさせてほしいの。遠慮しないで、何でも言って」
「お礼なんていらないよ」
「でも、掛け軸は燃やしちゃったわけだから、この件であなたはただ働きしたようなものでしょう? それで大丈夫なの?」

 安室はにやりと笑う。

「僕の稼ぎの心配をしてくれてるんだね」

 は苦虫を嚙み潰したような顔をして答えた。

「不本意だけど、助けてもらった身としてはね、掛け軸と同等とまではいかないかもしれないけど、それなりのものを提供する心づもりはあるのよ」
「気持ちはありがたいけれど、この一件ではこれっぽっちも損はしていないんだよ。そもそも、この仕事は稼ぐことが目的じゃないから」
「稼ぐことが目的じゃない、ってどういうこと?」
「お金には困ってないってこと」
「それじゃ、どうして泥棒なんてしてるの?」

 そう言った瞬間、ははっとして慌てて口元を手で隠す。視線をさっと周りに走らせて、誰にも聞かれていないことを確かめる。幸い、他の客は離れた席にしかおらず、見知らぬ安室やのことなど気にもとめていない様子だ。店員もちょうどよく、そばにはいなかった。

「理由を知りたい?」

 安室は挑発するように小さく言う。

 は安室をじっと見つめながら、心の深い場所で大事なことを考えているような顔をしている。安室の秘密を知る、その覚悟を決めるまで、相応の時間がかかった。

「分かった。教えて」

 安室は上着の胸ポケットに手を入れると、黒い革の手帳を取り出してテーブルの上を滑らせた。表紙には金色の桜の紋章がはめ込まれている。はそれが何かを察すると、目をまん丸に見開いて、みるみる青ざめ絶句した。

 安室が警察手帳を開いて見せると、降谷零という名の男が制服を着て澄ました顔をした写真がある。安室透と、瓜ふたつだった。

「黙っていてごめん。いろいろと事情があってね」

 安室は言い訳とも言えない言い訳をする。
 は喉の奥からかすれた声をなんとか絞り出すようにして言った。

「これ、本物なの?」
「確かめてもらって構わないよ」

 は恐る恐る警察手帳を手を伸ばすと、何を思ったか、服の袖を手のひらまで引っ張り上げて手首で挟み込むようにした。

「心配しなくても、指紋なんか取らないよ」

 安室は笑いながら言った。

「本当に?」
「今までにもそのチャンスはいくらでもあった。その気ならとっくにやってるよ」
「……それもそうね」

 の指が警察手帳の縁を滑る。安室と、写真の中の降谷の顔を見比べて言う。

「名前が違うわ」
「偽名だから」
「どっちが?」
「こっち」

 安室は自分の胸に指を付いて自分を指差す。
 は目の前の安室と、写真の中の降谷を何度も見比べた。

「……本当の名前は、降谷零っていうの?」
「そうだよ」

 はぁ、というため息は、安室の前髪を甘く揺らすほど大きかった。は椅子の背もたれに体重を預け、まるで初対面の人と会うように安室を見る。と、何を思ったのか、警察手帳をテーブルの上に置き、両の手首をくっつけて安室の方に差し出してきた。

「どうかした?」

 の声は絶望的に小さかった。

「どうもこうも、私を逮捕するつもりなんじゃないの?」
「まさか! そんなことするわけないじゃないか」
「じゃぁなんでわざわざこんな、種明かしをするわけ?」
が稼ぎの心配なんかするからだよ。これでそんな心配は無用だって分かっただろう?」
「それは分かったけど、でも、えぇ? 何それ? なんだってこんなことに?」

 ついに、は頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまった。不審に思った店員がそっと様子を伺うように近づいてきたので、安室はのために水を一杯頼む。店員はすぐに、ミントの葉を添えたよく冷えたお冷を持ってきてくれた。

 はそれを一気に飲み干し、ミントの葉っぱも口に入れてもごもごと噛んだ。よほど混乱しているようだった。

「……警察の人が、どうして泥棒なんて?」
「それには深い訳があって」
「……へぇ」
「理由が知りたい? 話そうか?」

 は、今度はきっぱり拒否した。

「いや、聞かないでおく。何も言わないで」
「いいの?」
「もうこれ以上受け止めきれない~」

 安室は堪えきれずに声を出して笑ってしまった。

 の、感情に任せてころころと変わる表情は、安室の心を優しく包んで温めてくれる。それは、ハロの真っ白な毛並みを撫で、その雲を掴むような感触を楽しむときの心地によく似ている。ハロが許してくれる限りいつまでもそうしていられるほど、安室は心からその時間を愛している。

を見ていると、本当に癒されるよ」
「はぁ?」

 は、口を真横にひん曲げて眉を上げた。まるで、ライオンを指差してあれは実はキリンなんだといい加減なことを言い含められているような反応だった。

「そんなに驚かなくてもいいだろ」
「いやだって、何よ、急に?」
「そう思ったから」
「そんなこと初めて言われた」
「今までは誰も、の魅力に気付かなかったんだね」
「……よくもそう歯の浮くようなせりふばっかり思いつくわね。おだてても何も出ないわよ」
「おだててなんかない。過剰に疑り深いところはの悪い癖だよ」
「疑り深いんじゃなくて、用心深いの。私と初めて会った時のこと忘れたわけじゃないでしょ?」

 ネグリジェにガウンを羽織り、銃を構えて階段の上に立ったの立ち姿を思い浮かべて、安室は思わずうっとりとする。

「あの夜のはセクシーだった」
「そうじゃなくて! もう! 何思い出してんの!」

 顔面に白いナフキンが飛んできて、安室はそれを柔らかく受け止めて笑った。

 出会い頭に銃を突き付けられて始まったこの関係に、穏やかな楽しさや癒しを感じるようになるとは、安室だって予想してはいなかった。

 はいわゆる癒し系とは真逆をいくタイプだ。狩猟を趣味に持つ女性は数少ない。世話の焼ける家族を抱えて、実の親よりも精神的に成熟していなくてはならない環境にあったが、どちらかというと男性的な性格を強めたことはある意味では当然の流れだっただろう。美術館の男子トイレでひと晩を過ごした胆力は、一般的な女性にはないものだと思う。サンドイッチを頬張る姿も、上品というよりは豪快だ。まるで10歳の少年がランドセルを背負って飛び跳ねるようなエネルギーを体の中に秘めている、はそんな風に見える。

 それを念頭に置いても、安室がに感じるのは深い愛だ。どんなに受け入れがたくとも血の繋がった家族を決して見捨てない愛、人間不信だった犬と根気よく向き合い続ける愛、守るべきもののために信念を曲げない強い心。

 愛を知る人の瞳は美しい。だからこそ、の浮かべる表情のひとつひとつにこんなにも心を動かされるのだ。

「冗談じゃなく、本当に癒されてるよ。一緒にいると楽しい」

 はじとりと疑り深いまなざしで安室を睨みながら、音を立ててジンジャエールを啜った。

「私は、あなたといるとはらはらする。驚かされてばっかりだし、気が休まらないし、なんかだか振り回されてばかりだし……」

 は自分の気持ちをうまく言葉にできず、口元を隠して黙り込んだ。これ以上口を開くと安室の悪口ばかり飛び出していきそうだ。それはある意味で本心ではあるのだが、本意ではない。

 美術館での夜、安室はの頬にキスをした。掛け軸が偽物だと分かっていて盗むことに協力したのは、に好意を持っているからだと受け取りかねない行動をした。

 そのことを、はずっと考えている。

 安室は、がこれまで出会ったどの男とも違っている。を見て癒されるなんて、そんなことを言ってくれた人は、今までひとりもいなかった。安室の言動にはいちいち驚かされるし、一緒にいると普段の自分を保てない。平常心ではいられないのだ。

 こんなにもを苛立たせ、迷わせ、動揺させる人は他にいない。こんなに心がぐらぐらしている状態では、正常な判断ができる気がしなかった。こんな状態で自分の気持ちに名前をつけてしまうのは性急すぎると思う。

 安室はにっこりしながら、サンドイッチを頬張るを見ている。人が食べているところをこうもじろじろ見つめるのは失礼だと思わないんだろうか。けれど、口に物を入れている間は文句も言えず、せめて視線では負けまいとは安室を睨みつける。

 ついこういうやり方で反抗してしまう自分は、かわいくないと思う。けれど、わざわざかわい子ぶって安室に好かれようとも思わない。

――それじゃ、私はこの人とどうなりたいんだろう?

 そんな自問自答に、はとっさに答えが出せなかった。

「さっきの話だけど」

 と、ふいに安室が言った。

「何?」
「お礼をしたいって言っただろ」
「何か思いついた?」
「うん。今度、ポアロの新メニューを考案する予定なんだけど、良かったら味見してくれないか?」

 はきょとんと問い返した。

「そんなことでいいの?」
「大事なことだよ」
「でも、私が得するばっかりじゃない? 美味しいもの食べさせてもらえるんでしょう?」
「店に出せるほど美味しいかどうか、判断してもらうための味見だよ」

 一度、ポアロで飲んだコーヒーの味は、よく覚えている。噂では、ポアロの看板メニューであるハムサンドは安室が考案したのだそうだ。実は、ちょっとだけ気になっていた。きっとこの人はとても料理がうまい。美味しいサンドイッチを食べたばかりなのにもうお腹がすいてくるような気がする。

 安室のことを好きなのかどうか、まだ分からない。けれど、この人ともっとたくさんの時間を過ごしたらどんな気持ちが生まれてくるか、興味があった。知らない方が幸せなのことも、あるのかもしれない。警察官であることを今まで黙っていた上に、叩けばまだまだ埃が出てくるに違いない。それが自分に害を及ぼさないとは、決して言い切れない。

 けれど、危ない橋を渡らなければたどり着けない楽園がある。掛け軸を盗み出した経験は、確実にを強くした。狩猟にもいつだって危険はつきものだ。

 たとえ危険を冒してでも、安室透、いや、降谷零という男のことを、もっとよく知りたい。

 は背筋を伸ばすと、かしこまってこう言った。

「分かりました。責任を持って、その任務、お引き受けします」

 安室は愉快そうに笑った。

「頑張って作るよ」

 ふたりが食事を終えた頃、タイミングよくハロとニコのトリミングが終わった。さっぱりした顔をしてサロンから戻ってきた2匹をそれぞれの膝の上に抱きながら、安室が言った。

「これからどうしようか? 行きたいところはある?」

 はニコに顔をぺろぺろ舐められながら答える。

「この近くにドッグランがあるみたいなんだけど、行ってみない?」
「いいね。広いところ、思い切り走らせてやろう」

 すべてはこれから。

 はそう思って、世界で一番かわいい愛犬に向けた笑顔のまま、安室を見上げてみる。安室は青い瞳を丸くしてぽかんとしたが、ハロにぺろりと頬を舐められて我に返り、少しだけ困ったような顔で笑った。

 私達は笑い合える。

 とても幸先のいいスタートを切った。

 未来が楽しみだ。








20200803