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事件が明るみに出たのは、それから三日後のことだった。きっとあっという間に天地がひっくり返ったような騒ぎになるだろうと予想していた
は、世間の話題になるどころか父の元にも一報も入らないことに、挙動不審になるほどやきもきした。長い三日間だった。
掛け軸を燃やして、ちょうど三日目の真夜中。近頃はメロディを奏でることも少なくなっていた家の固定電話が呼び声を上げ、ちょうど寝酒を煽っていた父がそれを取った。自室のドアを細く開けて聞き耳を立てていた
の耳に届いたのは、今までに聞いたこともない父の悲鳴だった。
ついに自ら犯した罪の知らせが、父の耳に届いたのだ。
詳しい事情を説明するため、韮崎館長と美術館の担当者、そして警察バッジをつけた刑事がぞろぞろと
邸にやってきた頃には、真夜中を過ぎていた。
「こんなことになってしまい、面目次第もございません」
深々と頭を下げてそう言ったのは、韮崎館長だ。青い顔に脂汗を浮かべ、灰色のハンカチでしきりにそれを拭っているのがなんとも哀れだ。美術館の職員は韮崎の後ろに立ち、韮崎がぺこぺこと頭を下げるのに合わせて一緒に頭を下げている。
「どういうことなのか、詳しく聞かせていただけませんか?」
父は静かにそう言う。青い縦縞のパジャマの上に濃茶のガウンを羽織り、動揺してぐしゃぐしゃにかき乱した髪が四方八方につんつんと立っている。その声は蚊の鳴くように小さかった。
は父の隣に座って肩を撫でながら、静かに神経を尖らせていた。館長の隣に座っている刑事の鋭い視線は、油断のならない危険な匂いを漂わせているような気がした。
韮崎は声を震わせながらとつとつと話した。
「今朝、担当の歌川くんから報告を受けたのですが、昨日、掛け軸の展示準備をしようと保管庫に入ったところ、掛け軸がなくなっていたんだそうです。保管場所を勘違いしたのか、別の学芸員が持ち出したのか、あらゆる可能性を考えて夜通し探し回ったそうなんですが、ついに発見できず……」
「いつから見当たらなかったんですか?」
「土曜の夜までは確かにありました。日曜日は、お客様の案内業務があって作業は行なっていないそうです。月曜日は休館日、火曜日は、歌川くんは週休日でした。水曜日に一日中探し回って、今日、警察に通報したというわけです」
「一体どうしてこんなことに? 誰の仕業だ?」
これには刑事が答えた。
「現在調査中ですが、今のところこれといって手がかりがありません。窓を割ったり、扉をこじ開けた形跡もありませんし、掛け軸が盗まれた以外にはなんの被害もないのです。気になることは、月曜日の朝、セキュリティアラートが反応した記録が残っていることで」
「原因は?」
「なんでも、館内にスズメが迷い込んだらしく、警備員がふたり出動しています。スズメを捕まえて外に逃がすのに少しばかり手間取ったようですが、30分程度のことです。警備員は報告書を作成した後、館内を見回って撤収しています」
「それと掛け軸となんの関係が?」
「さぁ。聞き込みをしましたが、特に異常は見つけられなかったとしか……」
「まさか、スズメが掛け軸を持って飛んで行ったとでもいうのかね? そんな馬鹿な話はないだろうに!」
「全力で捜査します。もし、お心当たりや気になることがあれば、どんなに小さなことでも結構ですので教えてください。お嬢さんも、ぜひ」
は刑事と目を合わせて頷いた。
「えぇ、もちろん」
その視線の中に自分への疑いが少しでもあっただろうか。注意深く観察してみたけれど、何も感じられなかった。
掛け軸が美術館の保管庫から忽然と消えた。そう世間に報じられたのは、夜が明けて翌日の、昼過ぎのことだった。
『ご苦労だったわね』
電話越しに聞こえるベルモットの高飛車な声に、安室はにやりと悪い笑みを浮かべて答えた。
「お叱りを受けるかと思っていました。予定より時間がかかってしまいましたから」
『あら、自ら進んでお仕置きを受けたいとでもいうの?』
「それが組織の命令ならば」
『馬鹿ね。私達の仕事はままごとじゃないのよ』
ざらりとしたため息の音が聞こえ、しばらくの沈黙。安室の送った報告書に目を通しているのだろう。
安室は座席に背もたれにぐっと体重を預け、ベルモットが次の言葉を発するまでじっと待った。目の前には、フロントガラス越しに東京の夜景が広がっている。金や銀にきらめく大小の光が、夜空を流れる雲を淡く照らして煌めいている。こんな景色を見て、宝石箱をひっくり返したようだと言ったのは誰だっただろう。ひとりで楽しむにはもったいない、いい眺めだった。
『焼いたのね』
ベルモットが言う。
安室は夜景を見つめたまま答えた。
「えぇ。跡形もなく燃え尽きました」
『賢明な判断ね。ボスも喜ぶでしょう』
「光栄です」
『ところで、この協力者というのは?』
――来た。
安室は挑むように笑う。組織からの命じられた任務で、部外者の協力を得たことは今まで一度もない。ベルモットがそれを見逃すはずはなく、それを見越して、報告書には
のプロフィールを記しておいた。組織に一度でも関わり、その存在が組織にとって不利益と判断されれば、命を取られてもおかしくはない。
を守るためには、彼女は組織に何の不利益もない、取るに足りない存在なのだと思わせなければならないのだ。
「掛け軸の所持者の娘です。今回の件で利害が一致しまして、協力を得ました」
『利害って?』
「実は、掛け軸は偽物だったんですよ」
『あら、そうだったの』
今初めて知った、とでも言いたげにベルモットは語尾を跳ね上げる。安室はそれを信じなかった。慎重派のベルモットのことだ、確信はなかったにしても、その可能性くらいは頭の片隅にあったはずだ。ベルモットは掛け軸が本物だろうが偽物だろうが、どちらでも良かったのだ。ボスの命令はその処分であり、条件はなかった。
『いいんじゃない。うまく利用したのであればね』
「はい。その点は問題ありません。彼女は僕のことをただの泥棒だと思っていますから」
『組織でも随一の探り屋のあなたを泥棒呼ばわりだなんて、ずいぶんおつむの弱い子猫ちゃんなのねぇ』
思わず、安室は吹き出すように笑ってしまった。
は、家に侵入した不審者にためらいなく銃口を向ける女なのだ、子猫呼ばわりをするには、
は性格が激しすぎる。
『何がおかしいの?』
ベルモットが苛立たしそうに言う。
安室は笑いの余韻を残しながら答えた。
「失礼、何でもありません」
『まぁ、無事に済んだんならなんでもいいわ。ご苦労様』
電話を切ったのはベルモットだった。
通話が終了したことを知らせる液晶画面を見つめながら、安室はほっと嘆息した。ベルモットが
を子猫程度としか思っていないのなら、
は安泰だろう。難局は乗り切った。
と、再びスマートフォンがメロディを鳴らす。ボタンを押すと、耳に馴染んだ低い声が聞こえてきた。
『降谷さん、私です』
警視庁公安部の風見だ。安室は表情を引きしめ、ワントーン声を落とす。
「首尾はどうだ?」
『命令の通り、韮崎美術館の掛け軸窃盗事件の捜査は打ち切られるよう、根回ししました。来週にも捜査本部は解体されます』
「そうか、ご苦労だったな」
『あの、差し支えなければで結構なんですが……』
風見は言いにくそうに口ごもる。
『理由を、教えてはもらえないでしょうか……?』
風見は安室の潜入捜査をサポートするため、衣服の調達から捜査の手助けまで、安室の様々な要望に応えている。とはいえ、捜査本部の解体を安室に似合う服を探すことと同じ要領でこなすことは、おそらく不可能だろう。掛け軸の行方は知れず、犯人も捕まっていないこの状況では、説得力のある理由が必要不可欠に違いない。
しかし、組織の命令でやったことだからだと、正直に伝えるわけにはいかないし、ましてやあの掛け軸は偽物だったのだと告白するわけにもいかない。
を裏切ることはできないし、偽物ならば盗んでもいいという法律はどこにもない。
安室はふと思いついて、唇の一方を持ち上げにやりと笑った。
「スズメを逮捕できる法律は、この国にはないだろう?」
電話の向こうで、風見の目が点になる様子が見える。安室は返事を待たずに電話を切り、今度こそ心から安心して肩を撫で下ろした。
これで後処理も含めた任務の全てが完了した。荷が重い任務ではなかったが、想定外のできごとが常よりずっと多い仕事だった。それもこれも、全ては
のおかげだ。怒ったり笑ったり、くるくるとよく動く
の表情を思い浮かべて、安室は思い出し笑いをする。
と一緒にいると、心が和む。うっかりすると、任務中だということを忘れてしまいそうになったことが何度もあった。ひどく難解な仕事ではなかったが、何度も気を引き締め直さなければ危なかった場面が、実はあった。
は気づいていなかっただろうけれど、安室は内心冷や汗ものだった。
思い返して、安室はふっとため息を吐く。
過去、自分の不注意のせいで大切な友を失った。その経験は、胸の奥の一番傷つきやすい場所に大切にしまってある。あんなことを二度と繰り返しはしない。それは安室にとって人生をかけた誓いだ。
今回は、良かった。けれど、明日は? そして、これからは?
を組織の悪行に巻き込まず、一体いつまで一緒にいられるだろうか。
そう考えるとなんだか途方もない気持ちに襲われて、安室は遠くを見つめたままぼんやりした。頭をからっぽにして、目に映る光の洪水に目を凝らす。
――この夜景を、
にも見せてやりたい。
そんな言葉が、流れ星のように安室の脳裏をよぎった。
20200727